第19話 いま再びの陸上部へ(7)
(ラップ67~68秒を、ウォーレットさんがペースを落とすまで続けるしかない!)
2000mを過ぎ、ヴァージンもついにスピードを上げる。かつてないほどのハイペースなレースから、ヴァージンが抜け出すために必要なのは、ウォーレットを上回るスピードしかなかった。2000mの時点で60mと少し離されたウォーレットとの距離を縮めるのは容易ではないが、残りのレースで何とか追いつくしかない。
ヴァージンの足は、普段より明らかに早い時間に、そのペースでトラックを蹴り上げていた。
(まずは、メリアムさんを……)
女子1500mで鍛え上げられた中距離走的なペース配分。それを5000m走る間続けようとするメリアムも、ウォーレットよりやや遅いペースながら、未だに安定した走りを見せている。ヴァージンとの距離は、2000mを過ぎたところでおよそ40m。それを明らかに上回るペースで、ヴァージンはメリアムの背中を追いかける。次の1周、また1周でメリアムとの差を少しずつ縮めていく。
そして、3000mをヴァージンが体感タイム8分43秒ほどで通過したとき、既にメリアムの背中に手が届く位置までヴァージンは迫っていた。
(次の1周で、抜き去れる……!)
ヴァージンは、ここで再びペースを上げる。ヴァージンのターゲットは、既にメリアムではなくウォーレットに移っていた。メリアムを大きなストライドで外側から横につき、ヴァージンはメリアムの評定を横目で少し見た。
その時、ヴァージンはメリアムの表情にわずかながら恐怖を覚えた。
(レースが始まる前から、全く表情を変えていない……!)
これまで3000mと少し走り続け、1500mがホームグラウンドのメリアムにとってはまだまだ慣れないはずの距離だった。だが、その表情はレースが始まる前と同じく真剣そのもので、その表情からもまだパワーが残っていることを自ら証明しているかのように、強かった。
(ウォーレットさんは、自分なりの走りを身につけている。しかも、こんな短期間で……!)
ヴァージンは、目の向きを元に戻し、再びウォーレットの姿を見た。ウォーレットは、相変わらず1周68秒ほどの「世界記録超え」ペースで飛ばしている。距離は、まだ45mから50mあるだろうか。
だが、既に2段階ギアを上げたヴァージンに、追撃をしない選択肢はなかった。
(ウォーレットさんを……、私は追い抜く……!)
これまで、何度となくともに同じレースを走り続けたライバル。一方が作戦を変えたからと言って、ここでやすやすと引き下がるわけにはいかない。ヴァージンは、じわりじわりとウォーレットを追い続ける。
そして、ウォーレットの足が3600mのラインを踏んだ。
(……っ!)
ここで初めて、ウォーレットが後ろを振り返った。ヴァージンが近づいてくることを察知したのだろうか、その目は鋭くヴァージンを見ている。やはりヴァージンが来た、と言わんばかりに。
(ウォーレットさん、ペースを上げる……?)
後ろを見て、相手のスピードを読む。それはつまり、自らのペースを上げること。これまでヴァージンはいくつものレースでそれを見てきた。1周68秒という驚異的なペースを、ウォーレットがさらに上げるとなれば、いよいよ彼女の世界記録が現実のものとしまう。
ヴァージンは、ウォーレットの次の一歩を見た。
(出た……!)
ウォーレットの一歩は、これまでよりも明らかにストライドが大きく、そして力強くトラックを踏みしめた。ウォーレットが明らかに逃げ切りに入っている。その一連の動きを見たヴァージンは、軽く首を縦に振った。
(これが、ウォーレットさんの力……!)
ヴァージンは、再度スピードアップを試みようとした。だが、残り3周でトップスピードに上げるのはあまりにも早すぎる、と感覚がそれを邪魔する。ウォーレットのペースダウンを信じて、ギリギリまでペースを上げたヴァージンが、これ以上のスピードアップをすればどうなるか、ヴァージンが最もそれを分かっていた。
負けたくない!
ペースを上げることも出来ない「挑戦者」に残された方法は、そう自分に言い聞かせることしかなかった。
だが、ヴァージンがそう脳裏に焼き付けた瞬間、目の前を独走していたウォーレットの背中が突然大きくなるのをヴァージンは感じた。逃げ切りをはかってスピードアップしたはずのウォーレットが、ついにそのスピードに耐えきれなくなった。
(やっぱり……、やっぱりウォーレットさんはまだ完成できていなかった!)
みるみるうちに近づくウォーレットの背中。後ろから見ても、苦しそうにもがき続けるのが分かる。あと2周を残し、ウォーレットは一気にラップ80秒程度までスピードを緩めてしまい、ヴァージンは4000mの手前であっさりとウォーレットを捕らえた。
中距離走的なペース配分に「敗れた」ウォーレットを、ヴァージンは横目で見ることすらしなかった。その表情を、ヴァージン自身が見せたくなかったからだ。
(勝てる……)
4000mのタイムが体感で11分30秒。自らの持つ世界記録を、普段なら軽く更新できるタイムだ。そして、ヴァージンの目にうっすら映った、初めてのビッグタイトル。
17歳で初めて挑んだ世界競技会は、世界のライバルを前に予選落ちに終わった。
18歳で挑んだ世界競技会は、ゴール目前でゼッケンを焼かれて失格になってしまった。
19歳で出るはずだったオリンピックは、出場権を掴めず勝負することすらできなかった。
そして、20歳夏の世界競技会。ヴァージン自身に、そして世界一貧しい国・アメジスタに初めての金メダルがあとわずかなところまで掴みかけていた。
(いつものように、ここからトップスピードで駆け抜ける。もう敵は、自分自身しかいないから)
ヴァージンは、次のコーナーを回り、直線に出てきた。残り2周を示すラインが瞬く間にヴァージンの目に飛び込む。そこが、ヴァージンの最後のペースアップと決めていた。大きくうなずいた。
(トップスピード!)
ヴァージンは、全身を奮い立たせ、残り2周で普段から見せている加速を試みた。
だが、そのストライドはそれ以上大きくならなかった。
痛みこそ微かだが、普段のようにこの場所で足に力が入らない。
(足が前に出て行かない……!)
ヴァージンは、ここで首を一度横に振り、慣れ親しんだはずのハイペースを再度試みた。だが、作戦の違う二人の背中を追い続けてきたその足は摩耗し、普段通りのパワーを見せることができなくなっていることを、ヴァージンはすぐに悟った。
(嫌だ……、ここでペースを上げなきゃいけないのに……!)
ヴァージンは、何度もペースを上げようと力を入れた。だが、一時はラップ65秒まで突き上げたはずのペースが明らかに落ちているのを、たった半周進むだけでヴァージンは全身で感じてしまった。
ペースを上げることが出来ない空白の時間が過ぎ去るまま、ヴァージンの耳に鳴り響く、残り1周の鐘。そのとき目の前に映ったタイムは、13分20秒。全く加速できないヴァージンの足では、もはや記録は狙えそうになかった。
(私……、もっと速く走れるのに!)
そう思ったとき、ヴァージンは背中に感じる風の力が変わったことに気が付いた。真後ろを見る。そこには、一度は遠くへと突き放したはずのメリアムの姿が大きく映っていた。
メリアムの表情は、やはり変わっておらず、ペース的にそれほど速いスパートをかけているようではなかった。だが、しっかりとヴァージンとの差を詰め、最終コーナーに差し掛かる直前にヴァージンの真横に並んだ。
ヴァージンは、残り150mから今度こそトップスピードに上げようと懸命にもがいた。だが、その足が許した加速はほんのわずかで、エンジンが力尽きたヴァージンに、メリアムを振り切ることなどできなかった。2m、3mとメリアムに引き離されていく……。
掴みかけていた金メダルは、今回もまた掴めなかった。
14分33秒27。最後の1000mでのヴァージンのパフォーマンスとしては最悪レベルとも言っていい出来で、2位に終わってしまった彼女に、喜びの表情はなかった。記録計のタイムは、それよりも速い14分28秒88が輝いており、1500mと5000mの両方で世界の頂点に立ったニューヒーローの姿に鮮やかな光を放っていた。
(途中から、自分で思っていたペースで走れなかった……。こんなことになるなんて……)
ヴァージンは、タオルで汗を拭き取りながらゆっくりとマゼラウスの待つ観客席へと向かおうとした。だが、その時ヴァージンの疲れ切った右腕に優しい手が包み込むのを感じた。
後ろを見た。そこには、メリアムの微笑んだ表情があった。つい何日か前にロッカールームで見せた、笑い顔だった。ヴァージンは、反射的にメリアムを祝福した。
「メリアムさん。おめでとうございます……」
「ありがとう。でも、グランフィールドに、まさか勝つなんて思わなかった」
「そんなことないです。負けるべくして、私は負けたんですから」
ヴァージンは軽く右手を振って、メリアムに答えた。明らかにペース配分を間違えた、ということだけが、あ市が動かなくなったあの瞬間からヴァージンの脳裏にはあった。
「そうね……。今日は私の方が上。でも、グランフィールドの本当の力を、私は知っているから」
そう言うと、メリアムはヴァージンの肩を抱き、ヴァージンの背中を軽く2、3回叩いた。端から見れば、まるでヴァージンが優勝したかのような光景に映った。
「だから、次はイーストブリッジの陸上部で待ってる。うちの陸上部に、世界最速で5000mを走る人がいるなんて始まって以来のことだし、私だけじゃなくて誰もがみな、グランフィールドに相当な期待を寄せているんだから」
「ありがとうございます……」
次の瞬間、メリアムは力強くヴァージンの手を握りしめた。それは、陸上部への入部と、この先もまた勝負ができることへの堅い握手だった。
「ヴァージン」
やはりと言うか、ヴァージンの目に映ったマゼラウスの表情は厳しかった。もう、何を言われるか分かっていたヴァージンは、じっとその低い声に耳を傾けるしかできなかった。
だが、マゼラウスはヴァージンが思っている以上の言葉を告げた。
「中距離走のレース展開に、お前は負けた。世界一の実力を備えたお前でも、負けたんだ」
「はい」
「メリアムは、もう走りを完成し始めている。ウォーレットだって、あと少しで完成するのは間違いない。そうなったときに、お前がどういう走りをすればいいのか、考えてみろ」
「はい!」
マゼラウスは、そこまでしか言わなかった。ヴァージンも、そこまでしか言えなかった。中距離走的な走りをしない、と言い続けてここまでトレーニングを重ねてきたのだから。
9月。ヴァージンはイーストブリッジ大学の入学式に向かい、講堂を出たところでヴァージンを必死で引き入れようとしているサークルの数々に一切目を向けることなく、陸上部の部室へと向かった。
部室には、主将メリアムが一番奥に座って、入ってくるヴァージンを優しく見つめていた。
「やっぱり、ここに来たのね。今日からよろしく」
「はい。私には、ここしかないですから」
中等学校卒業から4年、ヴァージンにとって新たな陸上部と学校の生活が始まった。




