表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
世界記録のヴァージン  作者: セフィ
新たなるステージの始まり
114/503

第19話 いま再びの陸上部へ(6)

 8月。今年もついに世界競技会の熱気が世界を包み込む時期となった。今年の会場である、南国の都ジョナブロンズの大きなスタジアムは、新たなヒーローの誕生を今か今かと待っていた。

 その中でも、今回初めて世界競技会に2種目参加するヴァージンには、世界中のメディアが注目を寄せていた。開会式の1週間前には現地入りしていたヴァージンも、夜に現地のテレビ番組で大会の見所で何度も自らが紹介されているのを見た。

 だが、そのライバルとして上がる人物に、ヴァージンが深く心に刻んでいた者の名前はなかった。

(できれば、この大会で打ち負かしたい……。同じ陸上部の中で、負けるなんて絶対に嫌だから)

 ヴァージンは、テレビの中にメリアムの姿をその目で探したが、それでも見つからなかった。


 序盤に女子10000mの決勝が行われた後、そこから2日おいて後半戦の女子5000mが始まる。これまでの大会とは比べものにならないほど長期戦になる。とくに実戦経験の乏しい10000mでは、ヴァージンはペース配分にトレーニング以上に苦しむことになった。大会2日目に16人で争われた4日目の10000m決勝は、31分38秒29のタイムながら8位に終わってしまった。

(まぁ、明後日からの5000mに気持ちを切り替えていこう……)

 ヴァージンは、女子10000mの自分のタイムを確認すると、すぐにロッカールームへと向かった。そのときヴァージンは、そこにいた予想外の人物を見た。

(えっ……?まさか……!)

 ヴァージンが鍵を持つロッカーの前に辿り着こうとしたとき、ヴァージンの目の前に普段はこの場所で滅多に見ることのない色を目の当たりにした。壁にも、ロッカーの扉にも、天井の明かりにも見られない、紫色だ。

 紫色の髪が、ヴァージンの目の前で左右に揺れている。ヴァージンの目の前にいる人物は、まだ後ろを振り返っていないものの、ヴァージンには彼女が誰であるのかすぐに分かった。

「もしかして、ソニア・メリアムさん……、ですか……?」

 その言葉が言い終わるか言い終わらないかのうちに、紫色の髪の女性はヴァージンに体ごと振り向いた。

「はじめまして!グランフィールド」

 その力強そうな姿は、ヴァージンが先日モニターごしに何度も目にしてきたライバルそのものだった。メリアムは、すぐに右手を差し出して、ヴァージンに握手を求めてきた。

「こちらこそ、はじめまして。先日のレース、私も素晴らしいと思いました」

「そう言ってくれると嬉しい。長いこと1500mで慣れ親しんだから、あの走りができるだけかも知れないけど」

 メリアムは、あのレース中では決して見せることのなかった笑顔をヴァージンに見せた。メリアムの唇が少し開くと、ロッカールーム全体が和やかな空気に包まれるようだ。

「そんなことないですよ。あのタイムが出せるだけでも素晴らしいし、私も戦い甲斐があります」

「あはは。世界女王グランフィールドに、そんなこと言われたら、私も本気になるじゃない」

 メリアムは、多少大きめに口を開いて笑ってみせた。そして、何事もなかったかのように腕時計で時間を確認する。

「ごめん。もう少し話していたいけど、私は1500mの予選があるから、また今度。5000mでは、本気の勝負が出来ることを楽しみにしているから!」

「私もそう思っています!」

 ヴァージンがそう言うと、メリアムはうっすらと笑ってロッカールームを後にした。

(あれ……。大学の陸上部の話が全然出てきていないような……)

 手元に何かしら残ることを期待した一瞬は、本物の一瞬で過ぎ去ってしまっていた。遠くに消えていくメリアムの姿に、ヴァージンは数日後に訪れる決戦の時を思い浮かべた。

(負けられない……!)


 5000mの予選、ヴァージンはそれほど力を入れずに走ったものの、全体の中で1位のタイムで決勝進出を果たした。同じ予選第1組の中に、シェターラやグラティシモはいたが、今のライバルとも言うべきメリアム、それにウォーレットの姿はなかった。二人は第2組。決勝では間違いなく戦うことになるこの二人の走りを、ヴァージンはウォームアップウェアを着てダッグアウトから見ることにした。

 だが、二人はスタートラインから離れると、レースを引っ張ってはいるものの、それほど速いスピードではなかった。ヴァージンと同じようにゆったりと走っている。時折ラップを見ても、だいたい73~74秒ほどで走っているようだ。結局この日は、あの日モニターごしで見たような「恐ろしい」走りをその目で見ることは出来なかった。

「ヴァージン、どう走るかは決めたか」

 二人がゴールラインを駆け抜けたとき、マゼラウスがゆっくりと近づき、ヴァージンに声を掛けた。ヴァージンはその声に振り返り、わずかな間を置いてマゼラウスに短く言った。

「これまでの私で、本番も行きます」

「そうか……。それが、お前の意思なんだな」

 マゼラウスは、静かにうなずいた。その横でヴァージンも、そっとうなずいた。

(明後日が、本番だから。私にとっての。そして、ライバルたち全てにとっての……)

 ヴァージンは、ジョナブロンズのスタジアムを優しく包み込む青い空に、右手を高く伸ばした。


 2日後、薄青のトラックを、これまで何度となく戦ったライバルたち、そして新しいライバルが一斉に踏みしめた。ヴァージンとウォーレット、メドゥが内側レーンに集う。だが、その場所に紫色の髪のライバルの姿はなかった。

(メリアムさん……)

 ヴァージンは、メリアムの姿を目で追った。すると、メリアムは外側レーンの中程のところで軽くジャンプしつつ、カメラに手を振っている。肌は黒く、その黒い肌をオメガ国旗の色のレーシングウェアで包み込む。数日前にロッカーでばったり会ったときにも感じていたが、実際に勝負に臨む姿を目の当たりにしたとき、女子1500mという別のフィールドで鍛え抜かれたその体は、周りのライバルたちと比べてもパワーを感じさせている。

(この二人さえ追い抜けば、私は……初めての金メダルを手にする!)

「On Your Marks……」

 聞き慣れた低い声が、ヴァージンの耳に響く。スタジアムに、勝負の時を告げる熱い風が気持ちのいいほどにそよいでいる。その中で、ヴァージンはメリアムの姿をもう一度見た。その瞬間、メリアムの目がヴァージンのほうにはっきりと向いていたのが分かった。

(負けない……っ!)

 号砲とともに、ヴァージンは力強い一歩をトラックの上に踏み出した。だが、その真横をウォーレットがそれよりも大きいストライドで踏み出していく。これまでウォーレットと何度も勝負したが、ここまで大きく出たのはヴァージンには見たことがなかった。

 一歩、また一歩とヴァージンを後ろに追いやっていく。最初のコーナーも曲がりきらないうちに、ヴァージンの手が届かないところまで、ウォーレットはその背中を見せていた。さらに、そのペースに匹敵するほどの力強い走りが、外側のレーンからも響いてくる。ヴァージンの右目に飛び込んでくる、紫色の髪。

 いま、あの二人が世界競技会女子5000m決勝のレースを作ろうとしている。ウォーレットが飛ばし、メリアムがその後ろにぴったりつく。5人ほどの3位集団にいるヴァージンも二人のペースに合わせようと、ややストライドを大きく取ろうとした。だが、そのスピードアップをヴァージンは踏み止まった。

(最初にしては速すぎる……!)

 ヴァージンの体感的に、ウォーレットやメリアムのスピードはラップ68秒ほどだ。ヴァージンはこれまでどんなに速くても、序盤のラップを70秒より速めたことはない。このペースは明らかに中盤より後、勝負を懸けるときに出すスピードであり、序盤からそのスピードで挑めば後半で失速しかねない。

(どうするんだろう……)

 ヴァージンは、まだはっきりと見える二人の背中との距離を頼りに、ライバルの作戦を分析した。メリアムこそ2周目や3周目はそのスピードをやや緩めたものの、ウォーレットはそのペースのまま序盤からヴァージンを引き離しにかかっていた。

(ウォーレットさん、いくら実力があるからと言っても、速すぎる……!無茶しすぎ……)

 しかし、ヴァージンが1200mを走りきったあたりでそう心に言い聞かせた瞬間、ヴァージンの脳裏にある言葉が蘇った。


 ――戦術を変えるんだ。戦術というか、彼女自身のペース配分を。


(……っ!)

 徐々にヴァージンとの距離を広げていくウォーレットの表情を、コーナーを回るときにヴァージンは横目で見た。これまで、誰にも見せたことのない走りを、明らかにウォーレットは見せていた。何より、1周68秒という驚異的なスピードは、そのまま5000m走りきるだけでも14分10秒。世界記録をも上回る。ヴァージンも、それははっきりと分かっていた。

(抜かなければ……、私の世界記録も……)

 1600m、そして2000mを過ぎた。ウォーレットとの距離は60mほど。これ以上の現状維持は許されない。

(よし!)

 ヴァージンの足が、力強くトラックを蹴り上げた。これまで何度も失敗を繰り返してきたはずの、この距離からの加速に、ヴァージンは踏み切っていた。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ