第19話 いま再びの陸上部へ(5)
アカデミーの小会議室に、ヴァージンはマゼラウスと二人で入った。中には既にモニターがセットされており、マゼラウスはヴァージンが椅子に座るとすぐに、録画したウルブス選手権の女子5000mの映像を流し始めた。
「あの紫色の髪の選手に注目しろ」
「はい」
レース前、普段のようにカメラで各選手の表情が映し出される。そこには、グラティシモやシェターラなど、ヴァージンがプロとしてこの世界に入るようになった直後から競い合ってきたライバルの姿が映っていたが、言われた紫色の髪のライバルの姿を、これまでヴァージンは見たことがなかった。
名前は、ソニア・メリアム。21歳。国籍はオメガ。それだけがモニターに映し出される。肌の色は黒く、モニターに映るその姿にはどこか力がありそうな雰囲気が、ヴァージンには見えた。
(どういう走りをするのか、メリアムさんに注目してみよう……)
スタートを告げる号砲が鳴る。これまでヴァージンが何一つ長距離での実績を聞いたことがないメリアムは、最も客席寄りからのスタートだが、スタートと同時に大きく腕を振り、懸命に外側集団の前に出る。それどころか、やや後ろから迫ってくるはずのグラティシモなどを外側にも関わらず引き離していく。
(……速い!)
ヴァージンは、わずか200mを見ただけで、ヴァージンの目にはメリアムの力強い走りがはっきりと分かった。少しずつ速くなっていくのではなく、最初からパワフルな走りを見せている。グラティシモが必死になって食らいついていくが、そのスピードは普段アカデミーで見せる走りとは全く異なっていた。最初の1周が終わるか終わらないかのうちに、グラティシモもメリアムから引き離されていく。
そして、ヴァージンは再びスタート地点に戻ってきたメリアムのタイムに思わず息を飲み込んだ。
「な……、70秒……!」
右下に映し出されたタイムには、メリアムが最初の1周を通り過ぎたときに、はっきりと1分10秒と記されていた。普段、トレーニングでも本番でも、ヴァージンがここまで最初のラップタイムを叩き出したことはない。しかも、それが最初から突き放しにかかっていくのではなく、まるでそのスピードに慣れ親しんでいるように表情を落ち着かせている。
有力選手から次々と脱落し、あまりトップに立たないようなライバルがメリアムの後ろにぴったりつくという異常な展開を、ヴァージンはじっと見ている。ラップタイムも69秒と70秒を行ったり来たりしている。ハイペースな展開が繰り広げられる中で、2000mを過ぎたあたりから完全にメリアムの独走態勢になった。
(すごすぎる……!)
2000mを5分48秒、3000mを8分41秒。かつてヴァージンが体感したこともないスピードのレースが、モニターの向こうで繰り広げられた。ウルブスのスタジアム全体が息を飲み込むのが分かった。このハイペースながらいっこうに衰えることを知らないメリアムのスピードに、ヴァージンはついに心の中で時計を刻み始めた。
(このモニターのタイムが本物であれば……、このままだと私の世界記録が……!)
ヴァージン自身のタイムよりも明らかに速いスピードでここまでレースを運ばれている。もはや信じたくなかった。ヴァージンは、1秒、2秒と長いこと心の中で刻んできた時計を、モニターを前に刻み始めた。だが、ヴァージンの刻んだ時計と、モニターに映る時計は、狂いが出るはずもなかった。
そして、残り4周、3周と進んで行くにつれてメリアムのスピードも少しずつではあるが速くなる。
「11分31秒……!」
ヴァージンは、4000mの通過タイムがモニターに映し出されると、それを復唱した。ほぼ一定のスピードで走っているため、4000mまで来ると調子のいいときのヴァージンとほとんど変わることのないタイムではあるが、大きく腕を振るメリアムの姿はこの距離まで達してもなお、パワーを感じられるのだった。
(ここでスパートをかけられると、いよいよ私の記録に……)
ヴァージンは、メリアムの全身を見るのをここで極力やめて、右下に映し出されたタイムだけを気にするようになった。時々その真横に映るメリアムの足は、見た感じそこまでペースアップしようとはしていない様子だが、いつスパートをかけるか分からないレース展開に、ヴァージンは時折息を飲み込んだ。
そして、最後の1周を告げる鐘が鳴る。そのとき映し出されたタイムは、13分13秒。ヴァージン自身の持つ世界記録まで、あと61秒。ヴァージンの胸に刻まれ始めた、カウントダウンの時。
(コーチが、レース当日に呼び出したことを考えると、これはやはり……)
ヴァージンは、モニターから目を背けてマゼラウスの表情を見た。既に全てを知っているマゼラウスの表情は、普段トレーニングで見ているときと同様に、いたって落ち着いていた。ヴァージンには、それが不気味に映ったのは言うまでもなかった。
(最後の1周だけは見ないと……)
ヴァージンは、訪れるかも知れない「その瞬間」をその目に焼き付けようと、2分近く見なかったメリアムの姿を再び見た。その姿に強さを感じられるのは変わりなかった。だが、ヴァージンが最後の1周で見せるようなスピードは、モニターの向こうにはなかった。少しは速くなっているものの、ヴァージンの見せるようなずば抜けたスパートではなかった。
「3……、2……、1……!」
ヴァージンは、心の中で自らの世界記録――14分14秒22――を刻んだ。それが0になったとき、椅子に座りながら右手を強く握りしめた。
――これは、初めての5000mでソニア・メリアムにとんでもない記録が出るのかー!
モニターごしにアナウンサーがそう言う。近づくゴールテープ。その白い光に吸い込まれるように、メリアムがゴールに飛び込んだ。
14分19秒89。モニターの右下で停止したタイムにははっきりとそう書かれていた。
「あと5秒……!信じられないです……」
ヴァージンがそう言った瞬間、マゼラウスは映像をそこで止めて、ゆっくりとヴァージンのもとに近づいた。
「どうだ、メリアムの走りを見て恐ろしいと思っただろう」
「はい。恐ろしいというどころか……、メリアムさんは全然次元の違う走りをしていました……」
ヴァージンは、脳裏にメリアムの走りをもう一度思い浮かべた。彼女の視線の先にあるモニターに、もう何も映っていないにも関わらず、今にもメリアムが再び驚異的なスピードで走りだすような雰囲気がしてならない。
数秒程度の空白の時間があった後、マゼラウスはゆっくりと口を開いた。
「メリアムは、全く戦術の違うライバルだ。ヴァージンは、そもそもメリアムというライバルを知らないだろう」
「はい。今まで一緒に走ったことなんて、全くなかったです」
「だろう……。そもそも、メリアムは昨シーズンまで女子1500mで走っていたからな」
「1500m……。5000mとはレース展開が全然違う種目じゃないですか」
ヴァージンは、「ワールド・ウィメンズ・アスリート」をアメジスタで見ていたときから、1500mまでが中距離走で、5000mからフルマラソンに至るまでが長距離走であることを知っていた。だからこそ、取るべき戦術の違う1500mや800mには手を出すことはなかったし、マゼラウスも400mダッシュなどのトレーニングこそ行ったものの、それらの距離を本番で走らせることをヴァージンに一切打診してこなかったはずなのだ。
「そう。だが、もうそうは言っていられない。1ヵ月ほど前にお前にガルディエールが何と言ったか、思い出して欲しい」
「ガルディエールさんが、私に言ったことですか……」
ヴァージンは、少しだけ息を吸い込んで、先程見てきたレースとガルディエールの言ってきたことを照合した。そして、思いついたある一つの言葉をヴァージンは言った。
「中距離走的な走り……」
――ウォーレットを完全に中距離走者に叩き上げるつもりだ。
「そういうことだ、ヴァージン。今見てきたメリアムは、もともと1500m走で育ってきたライバルだ。だからこそ、中距離走で必要な腕の振り方は備えているし、ペース配分を見ても1500m走と何も変わることがない。メリアムが5000mでお前の世界記録を破るかもしれないタイムを出し、ウォーレットもその戦術に近づいてきている」
「はい」
ヴァージンは、小さくうなずいた。その様子を伺いつつ、マゼラウスはさらにことばを続ける。
「そして、このメリアムはさっきも言った通り、お前と同じ大学だ。イーストブリッジ大学の陸上部3年、今は主将を務めているという」
「陸上部に、5000mの私のライバルがい……!」
ヴァージンは、マゼラウスの言葉に、会話の途中で言葉を詰まらせた。力強く走る紫色の髪のライバルの姿を、ヴァージンは何度もその脳裏に思い浮かべた。
(私は……、メリアムさんに負けることなんてできない……!)