第19話 いま再びの陸上部へ(4)
「ヴァージン、記録おめでとう」
「ありがとうございます!」
ヴァージンが客席の方に視線を寄せているところに、2位でゴールしたメドゥが突然飛び込んできた。ヴァージンはやや慌てながらメドゥを抱きしめ、何事もなかったかのように頭を下げた。だが、何度も繰り返された勝者への「儀式」が行われるさなかでも、ヴァージンはメドゥの背後にある集団を見ようと、メドゥに見えないように目線をちらりと左へ向けた。
メドゥは、ヴァージンの背中を何度か優しく叩いた後、そっと言った。
「なんか、今日はヴァージンの応援が凄かったような気がする……。走っていて気が付いた」
「私は、あまり感じませんでした。集中していましたし……」
そう言いながらも目線だけは、どうしても客席の集団に行こうとする。
(メドゥさんに対して……、なんか失礼なことをしているみたい……!)
ヴァージンは、思わず首を横に振ってメドゥの表情を見つめた。小さい汗の結晶が、その場に飛び散っていく。そのあまりにも露骨すぎる表現に、メドゥは咄嗟に首を後ろに向けて、すぐにうなずいた。
「なるほど……。ヴァージンがすごく気になるの分かった」
「すいません……」
「謝ることないわ。緊張から解放された時間だし、他のものを気にしちゃうのも無理はない」
「それでも、すいません……。失礼すぎて……」
ヴァージンは、レースには勝ったはずなのにメドゥに深く頭を下げた。それでも、メドゥは決して怒ったような表情を見せることなく、ヴァージンに続けてこう言った。
「イーストブリッジ大学の陸上部じゃない。今度、そこに入ることになったわけだし、ヴァージンが気にしないわけ無いと思う」
「そ……、そうじゃないんです……!半分は正解かもしれませんが」
ヴァージンは、汗だくのレーシングトップスを軽く振るわせながら、メドゥに言葉を返す。
「完全に図星、じゃないのね」
「はい……。そもそも、今までアプローチとかあっておかしくなかったはずなのに、陸上部に出会ったの、今日が初めてですから……」
「そうなの……」
ヴァージンの目に映るメドゥの顔は、どこか驚きに満ちた表情のようで、ヴァージンはその表情を二つの目で見るしかなかった。
「本当に今日が初めてです……。大学でサークルに入るとしても、ここしか入るところないはずなのに……、今まで全くメールがなかったですし……」
ヴァージンが「ワールド・ナンバーワン入試」でイーストブリッジ大学に入学を決めたことは、スポーツニュースの片隅ではあるが、どこかで扱われているはずだった。だからこそ、それを知った学内の様々なサークルがメールでヴァージンの勧誘をしており、陸上部ももちろんそれに続いている、はずだった。
「そう気にすることはないわ、ヴァージン」
メドゥは、ヴァージンの肩を軽く叩きながら、そっと笑ってみせた。
「だって、イーストブリッジ大学の陸上部が、一番真っ当な方法でヴァージンを勧誘しているように見えるし」
「真っ当な方法……。ですか……」
ヴァージンは口を開けた状態のまま、しばらく閉じることができなかった。その間にも、ヴァージンが抜き去った多数のライバルが戻ってきており、ヴァージンがふと横を向くと、モニターには次のレースの出場選手の名前が表示され始めていた。
だが、メドゥはそんなことを気にせず、ゆっくりとヴァージンの抱く疑問に答えた。
「メールなんて、顔が見えない状態でヴァージンを誘うじゃない。でも、陸上部だけはちゃんと、生の姿を見ている。これから大学に入る、世界一のアスリート、ヴァージンの姿を見極めているのよ。ヴァージンが、陸上を蹴るわけなんて、ないんだから」
「だから、遠くアロンゾの地に来ているわけですね」
「そういうこと。週末の弾丸ツアーで、ヴァージンを見ようとここに来ているわけ」
メドゥがそう言うと、ヴァージンは思わず首を縦に振った。
「それを聞いて、私、すごく安心しました!スッキリしたような気がします」
「こちらこそ。楽しい大学生活を」
二人は、近い将来のレースでの再会を近いながら、右手と右手をしっかりと握りしめた。その握手には、普段以上に力がこもっていた。
遅ればせながら、アメジスタの国旗を観客席に向けて広げた後、ヴァージンはマゼラウスのもとに向かった。彼女には10mも離れているところから、マゼラウスの表情が険しいことが分かった。
(私が大学の陸上部を注目していたせいで、次の種目の邪魔をしたことを怒られる……)
ヴァージンは、それでも普段通りの歩幅でマゼラウスの前に立った。彼女が立つなり、マゼラウスの口が動く。
「レースでの反省材料は、もう分かるよな」
「レース中……」
突然言われた言葉に、ヴァージンは思わず言葉を詰まらせた。レースの後のことを咎めるはずのマゼラウスの口は、それとは真逆のことを言っていた。
「私には、ヴァージンが疲れているように見えた。いま、普段にも増して体が苦しくないか?」
「苦しい……です。ちょっと、最後力が入らなくなるように感じました」
ヴァージンがそう言った瞬間、メドゥの前では決して感じなかった全身の重みが、ここにきてずっしりと出てくるのを感じた。
「伸びない、というのはこれまで何度も見てきた。ただ、当日あれだけ絶好調だったはずのお前が、最後に失速気味になるのは、あまり見たことがないからな」
「はい」
ヴァージンには、その原因がはっきりと分かっていた。メドゥとの真剣勝負に意識が行き過ぎていたからだ。そして、そのことはマゼラウスにもバレていることを、ヴァージンは即座に感じた。
「とりあえず、ここ数ヵ月の姿を見て、十分次の記録は狙える体になっている。今日、最後まで出せなかった本気を、次は忘れるな。そうすれば、お前は絶対に勝てる」
「はい!」
ヴァージンは大きくうなずいた。すると、マゼラウスはそこでヴァージンに右手を伸ばし、その肩を叩いた。
「ワールドレコード、おめでとう」
「ありがとうございます!」
ヴァージンはロッカーですぐに着替えを済ませ、選手出入り口から出ると、迷わず左に足を進めた。その方向には、先程ヴァージンの目に映ったイーストブリッジ大学の陸上部がいるはずだ。
「あっ……!」
100mほど進むと、ちょうどゲートから出てきた集団の姿がヴァージンの目に飛び込んできた。だが、その姿はさらに200m先で、さらに悪いことにすぐに貸切バスへと吸い込まれていく。
(声をかけよう……)
ヴァージンは、普段自分がそうしているように、スタジアムの外周を走ろうとした。だが、全身の力を使い果たした彼女の足は、もう歩く以外のスピードを選択することを許さなかった。そして、最後の一人がバスに乗り込み、そのドアがゆっくり閉ざされると、ヴァージンはとうとうその場で立ち止まってしまった。
(陸上部……)
音を立てて去って行く貸切バス。その後ろ姿をヴァージンはその目にはっきりと焼き付けた。大学の中で今後出会うこととなる自らの走りを感じたこと、そして確実に興味を持っていることを悟りながら。
7月に入り、世界競技会まであと1ヵ月となった週末、ヴァージンは普段通りセントリック・アカデミーでのトレーニングに打ち込んでいた。暑いこの時期、気温が下がる夕方遅くなってからヴァージンは5000mのタイムトライアルに挑んでいたが、走り終えた後は本番以上にぐっしょりとウェアが濡れていたのだった。
「まだ波があるのかな……」
アロンゾ選手権で記録を出した後、ヴァージンはしばらくトレーニングでも好タイムを叩き出していたが、ここ数日はまた、5000mが14分40秒前後のタイムに戻っていた。世界競技会で10000mも走ることになったため、一日2回のタイムトライアルを行うことの疲れかと、ヴァージンは初めのうち思っていたが、この日は10000mのトレーニングをオフにしていたにも関わらず、14分41秒とヴァージンにしては伸び悩んでしまった。
「序盤早い段階でのラップ70秒とか、意識はしていると思うが、それが少しずつ遅くなってはスピードを取り戻す走りが最近増えているような気がする。お前もそう感じるだろう」
「はい」
ヴァージンは、マゼラウスの低い声での指摘にはっきりとうなずいた。それは言われなくても分かっていることだった。次に何を言われるか、ヴァージンがマゼラウスの口元を見つめたとき、マゼラウスは言った。
「ちょっと、今日行われたウルブス選手権の録画を、最後に見て欲しい。これまで全くマークしてこなかったライバルが、この大会の話題を総なめにしていった」
「ウォーレットさんでもない……んですね」
「ウォーレットでもない。間違いなく、お前が大学で出会うことになるライバルだ」
マゼラウスの低い声に、ヴァージンは少し肩をすぼませながらうなずいた。




