第19話 いま再びの陸上部へ(3)
「久しぶりね、ヴァージン」
「メドゥさん……」
ヴァージンは、メドゥに微笑み返すと、これからレースに臨むにも関わらずメドゥの胸に飛び込んだ。それに呼応するように、メドゥもヴァージンを抱きしめる。
「なんか、10月のフィアテシモ選手権でも、その前のレースでもメドゥさんと同じトラックを走ったはずなのに……、ここまで間近な距離で話したことなくて……」
「そうね。なかなか、私もヴァージンと話せていなかったような気がするし。で、今日の調子はどうなの?」
「絶好調です」
ヴァージンは、「敵」に大きくうなずき、自信を見せた。すると、メドゥもその動作のリプレイをするかのように大きくうなずいた。
(この表情……、なんか今日こそ行けそうって感じがする)
ヴァージンは、メドゥの表情に懐かしさを覚えた。最初にその姿を見せたあの時、ヴァージンにとってメドゥはその世界で最大のライバルだったはずだ。今のメドゥの姿は、バスから見えた彼女と同じ姿に見える。
だが、ヴァージンの自己ベストは既にメドゥを、いや世界中のどの女性も追い越している。
(私だって、今日は行けそうな気がするんだから……!)
「とにかく、ヴァージン。今日はよろしく。ウォーレットがいないんだから、今日はヴァージンが最大のライバルとして、ついていくから」
「分かった」
そう言うと、メドゥは選手受付へと向かい、「後輩」ヴァージンもその後に続いた。ヴァージンの目から見えるメドゥの姿は、まだ大きかった。
(メドゥさんが、ここまでレース前に語りかけてくることは珍しい……。もしかしたら、何かある……)
ヴァージンはメドゥに見えないように、首を軽く横に振った。
「On Your Marks……」
アロンゾ選手権、女子5000mのスタートラインにヴァージンが立つ。立ち位置は、最も内側。そのすぐ横にメドゥが立つ。ヴァージンは軽くジャンプしながら、再びメドゥの表情を伺うが、その時には既にメドゥはスタート位置に着いていた。
(メドゥさんとの久しぶりの真剣勝負だから、レース中は自分の走りを見せる)
ヴァージンが一呼吸つき、前の前に広がるトラックにその目線を集中させたその時、号砲が鳴った。
(よし!)
ヴァージンは、最も内側のレーンであるメリットを生かし、最初の一歩をこれまでのレースの中ではかなり広めに取った。視線にあったメドゥの姿は、ほんの数歩で見えなくなっていた。そして、外側のスタートラインに立った8人のライバルをも視界の後ろに消し去り、そこでスピードを落ち着かせた。
(これで、見た目はトレーニングと同じになった。あとは、最近調子のいい自分の走りをすればいいだけ……)
体感的には、1周74秒ほどで最初の400mを走り終えた。この先の戦術としては、残り距離が縮まるごとに徐々にスピードを上げ、最後は自分の出せるスピードで一気に突き放し、この場にはいない「最高の自分」に挑むのがセオリーとなるはずだ。
だが、レースはそう簡単にセオリー通りには行かない。次の1周を走り終え、いよいよ1000mのラインとともに少しペースを上げようとしたとき、それよりも前に、ヴァージンよりもやや速いテンポでシューズをトラックに叩きつける振動が、ヴァージンの右足に伝わってきた。
(まだいる……。メドゥさんは、私に一生懸命食らいつこうとしている)
ヴァージンは、後ろを振り向くことなく、その速いテンポがメドゥのものであることを悟った。コーナーを回るときに横目で見てもいない彼女は、間違いなくヴァージンの真横で食らいついていた。
――今日はヴァージンが最大のライバルとして、ついていくから。
(メドゥさん……。やっぱり目の色が違った)
ヴァージンは、1000mをやや過ぎたところからこれまでより少しペースを上げた。それは決してメドゥを突き放すためのものではなく、あくまでも自分自身の走りをするためのペースアップだったが、それでもこのペースの変化でメドゥがどう出てくるかは、薄々気にしていた。
案の定、ヴァージンのシューズに、メドゥの振動がまだはっきりと伝わっていた。それが完全に作戦であるかのように、ヴァージンの後ろにぴったりとついているようだ。
(きっと、ゴール近くまでメドゥさんはついてくる……)
ヴァージンは、メドゥが自己ベストを狙ってくるのではないかと、このときはっきりと確信した。
二人のトップアスリートによる、1周70秒前後のラップが続き、ヴァージンは3000mを体感的に8分48秒ほどのタイムで通過した。最近のトレーニングで見せてきたように、ヴァージンは右足に力を入れ、ここから再びペースを上げていく。スタジアムの中を抜けていく風が時折吹き付けるが、ヴァージンはその風をほとんど感じることなく、ペースを上げる。おそらく、ラップ70秒の壁を破っているはずだ。
だが、再度のペースアップを試みて1周もしないうちに、ヴァージンの目についにメドゥの横顔が飛び込んできた。これまで後ろで感じていたはずのメドゥのシューズの鼓動が、はっきりと真横から聞こえてくる。
(メドゥさんが、勝負に出てきた……!)
かつての世界記録を誇ったその足が、いま再び新たな世界記録を狙おうと突き進んでいく。メドゥの姿は、レース前よりもヴァージンの目には明らかに大きく映った。
(負けてられない……!)
ヴァージンよりも半歩先に出て、自ら世界記録との勝負に挑み始めたように見えるメドゥ。その姿に、ヴァージンは、軽く首を横に振った。
(私に挑むのは……、私しかいない!)
ヴァージンは、残り4周を切ったところで一気にペースを上げていく。半歩前を進むメドゥを自分の目の前に出すことを何とか阻止し、ヴァージンはメドゥを自らの真横に追いやる。そして、ついに再びその姿を視界の外に追い去った。
(ラップ66秒……。少し無理はしてるけど、まだ最後に失速をしないだけの力はある……!)
残り2周を告げるラインがヴァージンの目に飛び込む。ついにメドゥの足の鼓動はヴァージンのシューズに全く感じなくなった。そこで、ヴァージンは初めてタイムに目をやる。
(12分11秒……。ここからスパートをかければ、私を追い越すことができる!)
ついに、勝負の時が来た。残り2分で世界記録を持つ自分自身を追い越す。目に見えることのない自分自身を、ヴァージンはついに捕らえた。トレーニングではもう少し先から始めていた本気のスパートを、ヴァージンは始めた。みるみるうちにスピードが上がっていく。体感的にラップ60秒のスピードを超えたその時、ヴァージンの呼吸は一気に激しくなる。
(いける……!今の自分なら、世界記録を再び打ち立てることができる!)
残り1周を告げる鐘の音。ヴァージンはもう一度タイムを見る。13分12秒という、このスピードを続ければ確実に世界記録を打ち破れるところまで、ヴァージンは届いていた。
だが、最後のカーブに差し掛かろうとしたその時、ヴァージンは体が重くなるのを感じた。
(ペースが……、落ちていく……!)
3000mを過ぎてからのメドゥとの真剣勝負から、最近のトレーニングを上回るペースで突き進んでいたヴァージンは、ゴールまであと少しのところで悲鳴を上げていた。呼吸はより一層激しくなり、苦しそうに呼吸をするたびに、力が入らなくなってくる。体感的にも、ラップ60秒を過ぎているように思えた。
――3……、2……!
ヴァージンの脳裏に、ほんの10日ほど前に響き渡ったマゼラウスの叫びが飛び込んできた。あの時、カウントダウンをクリアできなかったヴァージンに、その声が再び襲いかかる。
しかし、ヴァージンは「1」という言葉が通り抜ける前に、その叫びを頭から消し去った。
(私は、終わりじゃない……!)
ヴァージンは、疲れ切ったはずの足に再び力を入れた。新たな限界を打ち破るための力を。
そして、カウントダウンが聞こえないほどのスピードで、ヴァージンはゴールラインを割った。
14分14秒22 WR
わき上がる歓声。その声に、ヴァージンはタイムを見る前に「勝利」を確信した。タイムを見た瞬間、彼女はすぐさま計測器に手を掛け、思わず言葉をこぼした。
「私は……、勝った……!」
WRの表示を出したまま止まった計測器。わずか0秒07とは言え、「ヴァージン・グランフィールド」との勝負に打ち勝った何よりの証だった。ヴァージンは、新たな世界記録に体じゅうで喜んだ。
そのとき、ヴァージンの目に観客席に陣取った一角のグループの姿が飛び込んできた。双眼鏡を持って、ヴァージンの姿をはっきりと見つめていた。遠目では分からないものの、その集団は同じウェアを着て、大きくイーストブリッジと書いていた。
(……オメガにあるイーストブリッジ大学のサークルが、何故アロンゾのここに……?)
ヴァージンは、その集団に何かがあることを悟った。