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世界記録のヴァージン  作者: セフィ
新たなるステージの始まり
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第19話 いま再びの陸上部へ(2)

 アロンゾ選手権が近づくにつれて、ヴァージンのもとに届くメールの数も落ち着くようになり、いつの間にか彼女のもとにイーストブリッジ大学の陸上部から勧誘が来ていないことすら忘れるようになった。ヴァージンはこの時、普段以上に来たるべきレースに集中するようになっていた。

「最近絶好調だな。今日も14分21秒じゃないか!」

「えぇ……。最近、ものすごく手応えを感じています」

 他のアカデミー生が同時に同じ距離を走ることは、滅多にない。言い方を変えれば、最後まで競い合う相手がいないということであり、相手がいなければペースを極限まで上げられないということである。そういう中で、ここ数日のヴァージンは自らの世界記録に近いタイムで5000mを走りきるのである。

「本番は、ペースに流されなければ、間違いなく記録は出る。何度も記録を出してきたお前なら、そう感じていることだろう」

「はい。当日は何秒でゴールできるか楽しみです」

「そうか。期待しているからな」

 そう言うと、マゼラウスはヴァージンの肩をポンと叩き、笑顔を見せた。たった一度叩かれただけだが、疲れ切ったはずのヴァージンの全身は、一気に楽になるような感じがした。


 大会の二日前に、アロンゾ共和国入りしたヴァージンのもとにニュースが流れてきた。それは、ヴァージンにとってこの先もライバルであり続けるだろうウォーレットが、アロンゾ選手権を回避するというものだった。

(ウォーレットさん、この大会に出ると言われていたのに……)

「私は、必然だと思っているよ。ウォーレットの欠席は」

 たまたま同じ飛行機に乗り合わせていた代理人、ガルディエールがヴァージンに声を掛ける。

「ガルディエールさんは知っているんですか……?」

「だって、同じ代理人事務所の仲だからさ、私は知っているんだ。ストレームから全部聞いてる」

 ガルディエールは、やや笑うようにしてヴァージンを見る。ヴァージンとマゼラウスは次にガルディエールが何を言い出すのか、ホテルへと足を進めながら横目で彼を見た。

「どうして、ウォーレットさんは今回回避したんですか?」

「それはね……。戦術を変えるんだ。戦術というか、彼女自身のペース配分を」

「ペース配分……ですか。ウォーレットさんは、ただでさえタイムがいいはずなのに……」

 ヴァージンがそう返すと、ウォーレットは首を力なく横に振ってこう告げた。

「そこが、違うんだよ。ウォーレットが言ってたんだ。今の戦術じゃ、ヴァージンの記録を破れない、と」

「私を破れない……。たしか、室外だとあと11秒とかそこまで記録伸ばしていたし、インドアはウォーレットさんが世界記録持っているじゃないですか」

 ヴァージンは思い出せる限りウォーレットのタイムを思い出してみた。パーソナルベストが、オリンピック出場を決めたスタイン選手権の14分25秒32で、以来タイムは伸びていないはずだった。

「たしかに、ウォーレットは君と肩を並べることができるライバルだと思う。だけど、今シーズンに入ってからウォーレットは優勝しても14分40秒とか50秒とか、タイムだけを見ても悪くなっている」

「なるほど。だから戦術変更するというわけですね」

 ヴァージンは大きくうなずきながら、ガルディエールに言った。すると、ガルディエールはこれまでとは一転、やや低い声に変わってヴァージンに言った。

「私も、ストレームも、危険な賭けだと思っているけどさ……。ウォーレットを完全に中距離走者に叩き上げるつもりだそうだ。今まで、女子の長距離選手が誰も試したことのない練習メニューだ」

「中距離走者……って、明らかに今までと違う走り方をするじゃないですか」

「そういうことになる。ただ、もう男子のほうは5000mと言えば長距離走の走り方では通用しなくなっているのは事実だ。君は、その話を知っているかどうか分からないけど」

「あまり男子のほうは意識してこなかったです……」

 ヴァージンはそう返すと、かつて男子長距離走で活躍したマゼラウスの表情をかすかに見た。

「私のいた頃とは、全然違う。いまの男子5000mは、最初からハイスピードだからな」

「やっぱり、マゼラウスさんはご存じだったようですね」

「やはり、自分がいた世界だからな。いま男子の長距離走を目指す人が入ってきても、教えられる自信がない」

「なるほど……」


 女子5000mの世界記録はヴァージンの持つ14分14秒29だが、男子のそれは今や12分台後半まで伸びてきている。トラックを12周半するということを考えると、世界記録を叩き出すためには終始一貫して一周1分のペースで走り続けなければならない。ヴァージンですら、一周60秒を切る走りを見せるのはラストスパートぐらいなので、同じ距離でも男子と女子ではラップライムに雲泥の差が生じているのである。

 男子のレースは、最初からスピードとそれに耐えられるほどの持久力が求められる。初めて12分台で走りきった選手が現れた15年前から、男子5000mの選手は一気に戦術を変えるようになり、見るからに肉体まで変えてしまう者まで現れるほどだった。そして、旧来の走り方を続ける者は彼らに追いつけなくなった。


「ヴァージンは、さっきのウォーレットの話を聞いてどう思ったか?」

 夕方、有名なアロンゾ料理屋で食事をとっている最中に、マゼラウスはヴァージンに不意に尋ねた。

「ウォーレットさんが、中距離走の走り方をするという話ですか」

「そう。君なら、できないこともないだろう。実力的には、ペース配分を均等にすれば、今よりタイムを上げられるかもしれないが……、問題はヴァージンがどう思っているかだ」

 そう言うと、マゼラウスは水を軽く口に含み、ヴァージンの表情を見つめた。ヴァージンは少し考えて、マゼラウスにゆっくりとした口調で返した。

「私には、私なりの戦い方があると思っています」

「ヴァージンにしては、珍しく弱気だな」

 軽く息を飲み込んで、マゼラウスは目を白くさせた。

「いえ、今のところは別に変えるつもりはないと思っています。ライバルに食らいつき、最後は実力で前に出る。それは、私が長いことやってきた戦術だし、コーチも私の走りをずっと信じていたと思うのです」

「けれど、時代が変わるかもしれない。女子5000mに、スパートという武器は通用しないのかもしれない」

「やってみなきゃ、分かりません。それに、私はいま、誰よりも速い足を持っているんですから」

 ヴァージンは、力強くそう言った。マゼラウスはしばらく考えた後、腕を組み始めた。

「どうなんだかな……。まぁ、お前が必要ないと言っているなら、今まで通りのやり方でお前を叩き上げる」

「えぇ」

「ただ、一言だけ言いたい。前にも言ったが、ヴァージンはもはや追われる立場だ。それだけは意識しろ」

「はい、分かりました」

 ヴァージンがそう言うと、マゼラウスは先程の堅い口調から一転、軽く笑ってみせた。

「ヴァージンとこういう戦術的な話をするのは、久しぶりだ。ウォーレットはいい材料をくれたと思っている」

「そうですね。私も、ウォーレットさんがそう変えるとは思っていませんでした」

「なるほどな。まぁ、8月の世界競技会で、新生ウォーレットには負けるなよ」

「分かりました!ウォーレットさんだけには、絶対に負けはしません」


 ホテルに着いたヴァージンは、椅子に座り迫ってきたレースのイメージトレーニングをしようとした。しかし、この日ガルディエールとマゼラウスに言われた言葉を突然のように思い出した。

(たしかに、ウォーレットさんが成功すれば、女子5000mの全てを組み立て直さなければならない……)

 男子5000mの全てが変わってしまったのに続き、女子も変わってしまうのだろうか。少なくとも、二人はそう言っていた。だが、いままさにトラックで戦い続けているヴァージンに、その実感はなかった。15年前は、情報もほとんど入ってこない世界一貧しい国の中で、物心つくかつかないかの頃だったからである。

(でも、ウォーレットさんが成功するかどうか、そして私がそれを追って今以上の実力が出せるかは、誰にも分からない。なら、私は今のベストの状態で、勝負した方がいい。それでダメなら、私は一から組み立て直す)

 ヴァージンは、右手をギュッと握りしめた。レースで駆使する足と同じくらい、右手に暖かみを感じた。


 そして、アロンゾ選手権当日。ヴァージンは普段のようにレースの何時間も前にアロンゾ国営スタジアムへと入った。世界最速の女子アスリートを目掛けて、これまでと同様に取材のカメラが周りを囲む中で、ヴァージンは選手受付へと急いだ。

 すると、そこにはヴァージンよりの濃い金髪の女性の姿があった。彼女は、ヴァージンの姿に気づき、微笑む。

(……もしかして、メドゥさんと久しぶりに戦う……!)

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