第3話 たった一度きりの世界への挑戦(1)
陸上少女ヴァージンが夢にまで見た、超先進国オメガでのジュニア大会。
お金だけ先に集まってからが大変だった。何しろ、アメジスタ国民が国外に出るということ自体、貧しいことが災いして極端に少なかったので、「外へ出る方法」については知識が全くなかった。
グリンシュタイン国際空港には、週1便だけオメガからの中型機がやってくる。これまで家で得た知識がそれくらいのものだったことに、ヴァージンは嫌な予感すらした。
「たしか、パスポートが必要じゃなかったかな。あと、ビザ」
「……知らない」
ヴァージンが国外の大会に出場することを半分妬んでいるような陸上部の同期にその話を言うと、ヴァージンの耳に聞き慣れないカタカナ言葉が入ってきたので、ヴァージンは顔の動きすら止めてしまった。
「ほら、よその国に行ったら、その国の人か外から来た人なのか分からなきゃ。これ、外国に行くときのルールというかマナーというか」
「そうなんだ……。どこで作ってもらえるの?」
「グリンシュタインの……外務省?かなぁ」
「外務省……!」
自分の夢を叶えるためとは言え、外務省に行って、あの広場で叫んだ言葉をまた言う勇気はなかった。そもそも国は、アスリートたちに何も手助けをしないということを知ってしまっている。
「ヴァージンさ、そんな深く考えることないよ。出たい、って言ったら何と言われるか分からないけど、見たい、だったらすんなり許してくれるんじゃない」
「それ言うくらいなら、出たいって言う」
ヴァージンには、その後しばらく非日常的なことがいくつも続いた。外務省に行って渡航の許可を取り、空港のカウンターに行って大会3日前のオメガ行きのチケットを取り、1週間にわたって家を離れることになるため旅行用カバンやトレーニングウェアを特注で作ってもらうことになった。
仕立て屋に入って、ヴァージンがそのことを伝えると、真っ先に言葉が返ってきた。
「アメジスタを背負って大会に出るのかい?」
「はい。他の国からきた選手たちがたくさんいるところに、私も出るんです」
「そう……。じゃあ」
仕立て屋は、一枚の紙を取り出し、筆ペンで袖なしのウェアを紙の上に書いた。そこに、色鉛筆を取り出してそのウェアに色を塗っていく。上に赤、下にダークブルー、そして2色の間にわずかに開いた隙間に金色の色鉛筆を立てようとしたとき、ヴァージンははっとした。
「それって、アメジスタの……」
「国旗だ。これを着て、アメジスタのアスリートたちは、世界に立ち向かっていった」
「うわぁ……!」
国際大会で勝負に挑むアスリートたちは、ほとんどが自分の国の国旗を彩ったウェアに包まれているのを、ヴァージンは雑誌で何度となく見ている。その輝かしい誇りを身に纏うことに気が付いたヴァージンは、両手を丸めてグッと力を入れた。
これまで何度となくその夢を否定し、最後の最後に手を差し伸べてくれたアメジスタ。この国から成功したアスリートは未だいないものの、その姿を見るにつれ、ヴァージンに力を湧かせていた。
「父さん。国外に行くって、やっぱり大変って……」
「……だろ?それくらい、世界の常識にこの国は達していない」
ライ麦のパンと豚肉のソテー、それに野菜たっぷりのスープだけの夕食を囲みながら、ヴァージンは思わず苦笑いをした。この日も陸上部が終わってから渡航の支度に追われていたので、父の作った温かいスープが疲れた体に安らぎを与える。
「世界の常識……、かぁ。例えば、いま私が食べているご飯とかも、オメガではもっと立派なのかな……」
「間違いなく、立派だと思うぞ」
ジョージは、そう言いながらも片手にパンを持って、それを何度か口にくわえ、飲み込むように食べていた。グランフィールド家では見慣れたこの光景すら、ヴァージンは思わず疑ってしまう。
やがて、ジョージは一個のパンを飲み込むと、思いついたかのように言った。
「ヴァージン。お前の晩御飯に、いつも何かしら肉類をつけてると思わないか」
「……たしかに」
「たぶん、友達に聞いてるんじゃないかと思うけど、アメジスタではそこまで肉が食べられているわけじゃない」
「……野菜とかしか食べない友達もいます。あと、お昼はご飯だけとか」
「それが、残念ながらアメジスタの常識だ。でも、そんな中でお前はずっと世界を目指して、練習をしている」
ヴァージンは、食事の手を止めて、思わず首を縦に振った。
「そんなお前に、力をつけてあげなきゃいけないと思うんだ。だから、お前にどんな強く当たったとしても、夕食に肉類だけは必ず入れるようにしてるんだ」
「たしかに……。授業でそう言ってたような気がします」
「そう。でもな、世界でアスリートとして頑張ってる人は、その何倍も肉だけは食べるんだよ」
「この何倍も?なんか、野生の猿みたい」
目の前には、薄っぺらい豚肉が皿に盛られているが、ジョージの話を聞いているうちに、ヴァージンにはそれが骨のついた分厚い肉であるかのように思えた。両手で骨の端を持って、頭からガブリと食べてしまいそうなことを、雑誌で見る憧れの選手たちはやっているのだと。
「野生ではないけどな……、本物のアスリートは、トレーニングの中身ばかりか、食事から睡眠まである程度決められていると聞く。強くなるためにな。だから、ひたすらパワーのつくものばかり食べている」
「逆に羨ましい……」
「ヴァージン。お前は、そういう奴らと勝負するんだからな。父さんが、こうしてお前になけなしの食事を作るのも、ギリギリのところなんだからな」
「父さん……、ありがとう……」
そこまで言うと、ヴァージンは思わず椅子を立った。そしてジョージの座っている椅子の裏に回り込んで、彼の右肩に左手を優しく乗せた。
「今は、まだ早いよ。ヴァージンが、今度の大会で世界に認められて、やがて世界中で名前の知られるアスリートになったら、その時に感謝の言葉をもらうから」
「うん……。でも、本当に今までありがとう……」
ジョージは、ゆっくりとヴァージンが差し出した手を握りしめた。ジョージには、ヴァージンの手がこれまでにないほど温かくなっているように思えた。
やがて、オメガに向けて旅立つ日となった。一人で生活をしたことのないヴァージンにとって、日を追うごとに新たな不安材料が頭をかすめていたが、カバンにたくさんの荷物が入り、仕立て屋からウェアが届くにつれ、それがワクワク感で押し流されているかのようだった。
既に、ヴァージンの通う中等学校の4年生は、ほとんどが卒業後の進路を決めており、あとは10日後の卒業式を迎えるだけだった。一方、その夢に2000リアの大金をさしのべられたヴァージンは、その日から全く就職活動をしてこなかった。彼女の部屋の机の隅には、「ワールド・ウィメンズ・アスリート」に押しつぶされるように、就職情報のチラシが置かれている。
(もう、後には引けない……)
一度きりの挑戦を前提に、たくさんの優しさをもらえた以上、ジュニア大会での失敗は絶対に許されない。中等学校のグラウンドではほぼ毎日のように自己ベストに迫るタイムを出し続けていることが、今の彼女にとって数少ない追い風だ。
(オメガのグラウンドは、もしかして走りやすくなっているのかも知れない……)
既に彼女の目には雑誌で見るような茶色や水色の立派なトラックが焼き付いていた。土で踏み固められた場所とは、おそらく走り心地が違うと確信し始めていた。
「そろそろ家を出ないと、飛行機に乗り遅れるぞ」
「分かった」
ジョージが玄関でヴァージンを必死に手招いていることに気が付き、ヴァージンは軽く走るかのように玄関まで駆け抜けた。
玄関の前には、重いバッグを荷台に乗せた水色の自転車が、何やら苦しそうに止まっていた。
「……車とか、呼ばないの?」
「呼べないよ」
グリンシュタインの中心部なら歩いて数時間、ヴァージンが本気で走れば1時間とかからない場所ではあるが、空港までとなると、自転車をこぐにしても相当な時間がかかってしまう。この日のために、街から車を用意しているものと思っていたヴァージンは、思わずがっかりした。
「てか、飛行機に間に合うの?」
「間に合うさ。6時間後だもの。ギリギリ」
「父さん、ギリギリじゃダメって、クラスの子が言ってたよ。私がこぐから」
そう言うと、ヴァージンはサドルに座り、ジョージを補助席に乗せた。そして、普段とは足の裏の感覚が明らかに異なるものの、ヴァージンは大きく息を吸い込み、小刻みに呼吸を繰り返しながら自転車をこぎ出した。人を一人後ろに乗せ、彼女自身がこれから1週間使うことになる多くの荷物を前に乗せているが、その時から普段とは全く違う世界であるかのように思えた。
(私は、アメジスタの全ての期待を背負っている……。初めて、この国からアスリートが生まれるという期待を……)