第19話 いま再びの陸上部へ(1)
イーストブリッジ大学への入学が決まったその日、ヴァージンのもとには大会直後に匹敵するくらいの数のメールが届いた。セントリック・アカデミーでのトレーニングを終えてロビーの端末に向かったヴァージンが、悲鳴を上げかけるほどだった。
「こんなにきて、大丈夫なのかな……」
ヴァージンは軽く息を飲み込みながら次々とメールに目を通していく。その大半が、スタジアムやテレビを通じてヴァージンの走りを一度は目にした人々からのメッセージだったが、読み進めていくうちにヴァージンは思わずメールを読む目を止めた。
――イーストブリッジ大学、合格おめでとうございます!
入学式を終えたら、ぜひ楽しい一時を私たちとシェアしましょう!
レースとはまた違う情熱と、ゆったりとした音楽がお待ちしています。
「何これ……」
ヴァージンは思わずそう呟き、差出人の名前に目をやった。そこには「イーストブリッジ大学ジャズ同好会」と書かれていた。オメガに移ってから、時々街中でジャズという名の曲を耳にする機会はあるが、ヴァージンには曲名とメロディーが全く一致しなかった。
「ジャズを勉強するいい機会にはなるけど……、私の生活に似合わない」
それに続くように、イーストブリッジ大学のサークルの勧誘だけでメールが十数件も連なっていた。テニスやスキーと言ったスポーツ系のものもあれば、外国留学やボランティアなどの社会に役立つもの、音楽やマンガなどの趣味に没頭するものもあった。
「大学のサークルと言っても、いろいろなものがあるのか……。どれも興味を引くような言葉だけど……」
そこまで言って、ヴァージンは軽くため息をついた。大学に進学することをアカデミー生に打ち明けたとき、実際に大学に通っていたアカデミー生が言っていた言葉が、授業や研究ではなくサークルこそが大学生活だ、ということだった。しかし、ヴァージンは大学生になるとは言え、この時既に陸上界のトップアスリートとしての生活をしていた。
ヴァージンは、もう一度差出人の名前を確かめた。そこには、一つもなかった。陸上という名のついたサークルが。
「どうしたんだ、ヴァージン」
これまでにないほど長い時間端末と向き合っていたヴァージンの真横に、マゼラウスが立った。
「コーチ。……すいません。長いことこの場所を占領してしまって」
「それが気になっているわけじゃない。ヴァージンが、大学のサークルのことを気にしてたからな」
「そう……ですね」
メールを開けば、サークル紹介の画像が溢れかえるほどで、遠くからマゼラウスにも見つかってしまったのだ。ヴァージンは、思わず金髪を軽く手で撫でながら、マゼラウスに笑顔を見せた。
「気に入ったサークルは見つかったのかね」
「いいえ。陸上以外は、今のところとくに考えていません。アカデミーでのトレーニングもありますし」
「そうか……。やっぱり、トレーニングがお前の生活の中心にあるわけだな」
そう言うと、マゼラウスは軽く唸った。その後何度か首を横に振りながら、こう続けた。
「ヴァージン、お前の人生だ。行きたいなら、サークルに行けばいい。そして、トレーニングと大学をどう両立すればいいかは、お前の納得する方法で決めていいからな」
「えぇ……」
ヴァージンは、マゼラウスの目をじっと見た。マゼラウスの目の奥には、普段のトレーニングとはどこかが違う輝きが満ちあふれていた。
「正直なところ、16歳でここに入って4年間、アカデミーから一歩も外に出なかったお前は、本当に陸上一筋でここまで突っ走ってきたからな。普通の人が見るとかわいそうだと思う」
「かわいそう……、というのはいったいどういうことですか?」
「世の中には、青春という言葉がある。ヴァージンも聞いたことはあるだろ」
「えぇ。言葉としては……たしかに聞いたことはあります」
ヴァージンの脳裏には、ただ桃色のモンモンとした空間が広がり始めていた。だが、ヴァージンはそれをかき消すかのように軽く首を横に振った。
「そういう仕草をするということは、あまりよくは分かっていないようだな」
「実感が湧きません」
「いろいろなものに打ち込んだり、冒険してみたり、恋愛したり、若いうちにしかできない体験のことを、人は青春と言ったりする」
「いろいろなものがあるんですね……」
ヴァージンがそう返し終えたその時、思わず息を飲み込んだ。
(私って……)
ヴァージンは、これまでの全てを思い返した。まず、祖国の人々から止められてもなおアスリートとして生きていこうと冒険に出た。アカデミーではレースに勝つためにトレーニングに打ち込んだ。そして、時々アルデモードに声をかけられ、路上でキスをしたり……。
マゼラウスの言った「青春」の全ての要素を、知らないうちに彼女は経験していたのだった。
「私は、その全てを経験していますね」
「だろう。ここでの生活も、立派な青春だ。大学生も、その延長として、トレーニングに支障が出ないように頑張ればいい。お前自身の、大学生活だからな」
「分かりました。大学生活、どうすればいいか自分で考えてみます!」
ヴァージンはそう教えてくれたコーチに、大きくうなずいた。
しかし、その時にはもうヴァージンの想いは一つに固まっていた。後は、その門を叩くだけだった。
翌日、ヴァージンのトレーニングは、これまでほとんど感じたことがないほどパフォーマンスが完璧だった。体が軽いというだけではなく、走りに力強さが溢れていた。午前中の400m✕10で、ほぼ全て50秒以内で駆け抜けることができたのは序の口だった。本当の事件は、夕方の5000mタイムトライアルで起きた。
「4000m、11分36秒29!」
(……っ!)
普段はペースのことなど背後からエールを飛ばしてくるマゼラウスの声が、かつてないほど生き生きとしていた。そして、そのタイムを耳にした瞬間全身が震え上がるほどだった。トレーニングはおろか本番でも、このタイムで4000mをクリアできたことはこれまでほとんどと言っていいほどない。
「公式じゃないけど、記録狙えるぞ!あと少し、前に!前に!」
ヴァージンは、マゼラウスの力強い言葉に、かすかに首を振った。これまで4年間走り慣れたトラックを蹴り上げる足に、一気に力を入れる。ストライドを小さく取り、ヴァージンは一気に加速していく。
(65秒・33秒・57秒ぐらいで走れば、私は……)
――その記録を打ち立てた者の力を上回れば、その記録を破ることができる。
ヴァージンの脳裏にフッとこの言葉が浮かんだ。その瞬間、ヴァージンの足は最後の一周となる白いラインを踏みしめた。
「あと56秒!行けるっ!」
ヴァージンは、これまで何度もライバルたちに見せつけてきたスパートを、競争相手の見えぬ練習場で見せた。軽く息を吸い込みながら、ヴァージンは前へ前へ体を伸ばしていく。アカデミーのトラックでここまで本気を出したことなど、崖っぷちの状態でグラティシモに挑んだ3年前のあの日を除けば、ほとんどない。
最終コーナーを回る。マゼラウスの声が大きくなる。全てを決する白いラインが、ヴァージンの目に飛び込んできた。
「3……、2……、1……!」
ヴァージンは、マゼラウスの「1」という声と同時にゴールラインを割ったように思えた。
タイムを告げられるまでの間、ヴァージンは一瞬だけ呼吸を止めた。
「やはり、トレーニングというのを意識したな、ヴァージン」
マゼラウスがやや笑いながらヴァージンのもとに近づいてくる。ヴァージンはそれに合わせて笑おうとしたが、走りきった直後なだけにうまく表現できなかった。
「こんなところでワールドレコードを出しても、認められないもんな」
「私は、今日はどうだったんでしょうか」
これまでと全く同じように、ヴァージンはマゼラウスに結果を尋ねる。そうすると、マゼラウスは首を軽く縦に振った。
「ここでの最高タイムだ。14分16秒28」
(16秒……)
ヴァージンは、マゼラウスの目を見つめたまま軽く息を吐いた。この日の自分は、あと2秒だけ前を行く、5000m世界最速のアスリート、ヴァージン・グランフィールドを超えることができなかった。
「本当にしびれたよ。ここで世界記録を出されたら、本番でお前が余計プレッシャーになってしまうからな」
「たしかに……。それは間違いないかもしれませんね」
マゼラウスが笑いながらそう言うと、いよいよヴァージンも普段のトレーニングではあまり見せない笑顔をマゼラウスの目に響かせるようになった。
「今日は、本当に素晴らしかった。ただし、明日はこのタイムを大きく割らないこと。いいな」
「はい!」
アロンゾ選手権まで、あと10日あまり。14分14秒29という世界最速の自分を上回るチャンスは、この瞬間までに取っておこうと、この時ヴァージンは決めた。