第18話 もうアスリートではいられない(6)
エクスタリアが、集まったエンブレア人の大歓声に包まれながら大きく手を振るその姿を遠目に、ヴァージンはその場に立ち尽くした。前回より順位こそ上げたものの、タイムは32分27秒37と、昨年のレースより39秒も遅くなっていた。
(レースの展開のせいにしてはいけない……)
ヴァージンは、観客席の一番前に座っていたマゼラウスに向かって、ゆっくりと歩き出した。だが、すぐに立ち止まった。真横に、座り込んだままのバルーナがヴァージンを見上げていた。
「バルーナさん……」
レースの展開のせいにしてはいけないはずなのに、全ての展開が狂った瞬間をヴァージンははっきりと覚えていた。「心ない」横断幕が、その場で勝負に挑む者すべてに深い傷を与えたのは言うまでもない。
ヴァージンは、あの時横断幕の見えた方向に目をやったが、もはやそれを掲げた者も見えなくなっていた。警備員に取り押さえられたのだろうか。ヴァージンは、軽く首を横に振りつつ、今度はバルーナと目線が合うように座り込んだ。
「バルーナさん。バルーナさんは、何も悪くないはずなのに……」
「ヴァージン……。そう言ってくれるの、今のところヴァージンだけ……」
バルーナは、そう言いかけると、再び涙を目に浮かべた。途中でリタイアしてしまったバルーナのその体は、既に汗が引き、レーシングトップスが見るからに寒そうに、ヴァージンには思えた。
「そうじゃないと思います。みんなだって、どうしてあんな横断幕を……人を傷つける横断幕を、レース中に大きく出してしまうのか……、って思っているはずです」
「そう……」
バルーナは、一度小さく首を振った。その後、ヴァージンに目線を合わせたままゆっくりと立ち上がり、横断幕の掲げられた方をじっと見つめた。それを追いかけるように、ヴァージンも立ち上がる。
「言ってることは、間違いないのかもしれない……。ヴァージンの言ってることも、そして横断幕の言ってることも……」
「横断幕の言ってることも……、って、あれはアンドロ・ホレスキンさんのことじゃないですか……。全く無関係のエンジェル・ホレスキンさんが過剰に反応するかもしれないけど……、バルーナさんまでそんなショックを受ける必要なんてありません」
ヴァージンは、バルーナにだけ聞こえるように、しかし力強くそう言った。だが、バルーナはその声に力なくこう答えた。
「それが真実だった。この前のアンドロ・ホレスキンの公判で……、それが全て明るみになったの」
「どういうこと……ですか……」
「アンドロ・ホレスキンは、私の母親の兄なの……。私のライバルたちを、ことごとく傷つけてきた人が……、私の親戚ということを……」
「そうなんですか……」
バルーナが泣きながらそう言葉を連ねる中、ヴァージンも思わず涙を目に浮かべた。
「それだけでも世間からしたら許されないはずなのに……、私の母親は、私が得た賞金を……兄のアンドロ・ホレスキンに渡していた。報奨金とか言って……」
「報奨金……」
「そう、報奨金なの。私のライバルを傷つけることによって、私をレースで有利にさせようと……、アンドロ・ホレスキンはそう思っていた。もちろん、実行犯にもそのお金の一部が渡っていた。でも、私はそんなことになっているなんて、この前の公判の日まで知らなかった……」
ヴァージンのゼッケンを焦がすなど、アスリートたちに行ってきたいくつもの犯罪の全てが、この時明らかになってしまった。バルーナの母親の兄であるアンドロ・ホレスキンが、バルーナのライバルへの攻撃を次々に企てて、実行犯たちに依頼する。そして、それによって有利になったバルーナが得た賞金の一部を、彼女の母親が住宅ローンの返済と言いつつバルーナの口座から引出し、報奨金としてアンドロ・ホレスキンに渡していた。
つまり、バルーナそのものも、事件の輪の中に絡んでしまっていた。
(ホレスキンの家族は……、ここから出ていけ……)
ヴァージンは、あの横断幕をもう一度目に思い浮かべた。その真実の意味を知った時にはもう、ヴァージンもトラックの横で涙を拭ってしまっていた。
しかし、呆然と立ち尽くすヴァージンの耳に、その静寂を切り裂くかのように、バルーナの細々とした声が響いた。
「私、もうダメかもしれない……」
「バルーナさん……。もうダメって……、どういうことですか」
「もう……、トラックの上なんて走れない……」
バルーナは、時折咽び声をヴァージンに向ける。ヴァージンがバルーナの顔を見る限り、今にもその場で崩れてしまいそうな勢いだった。
「私はもう、犯罪者。アスリートではいられない……」
「そんなことないはずです!バルーナさんは……」
ヴァージンは、思わず涙を止めてバルーナの崩れ落ちる感情を止めようとした。しかし、バルーナの表情は全く変わる気配などなかった。
「私だって、同罪だと思う。真剣に戦っていたはずなのに、それがいろんな不正によって成り立っていたなんて、もう誰も許してくれない……」
「違うと思います。バルーナさんは、私が見たって、どのライバルが見たって、本気で走っていました。バルーナさんは、何も悪くなんかないし……、悪いのは少なくともバルーナさんのお母さん……」
しかし、バルーナはそこで首を力強く横に振った。
「ヴァージンは……、社会を分かってないっ!何も分かってないっ!」
「バルーナさん……」
「勝負の世界で真剣に生きているアスリートだって、立派な社会人よ。そこには、信頼とか責任とか、人間でしか作り出せないものが、深く関わっている……」
「信頼、責任……」
ヴァージンは、バルーナの言った言葉を繰り返した。バルーナは、さらに言葉を続ける。
「そう。そして、今の私は、信頼が大きく崩れてしまった……。私を応援してくれたはずの人たちから、不正で賞金を得たとか、言われ続けなければならない……」
「それは、考えすぎです」
ヴァージンは、そう言い切って一度唇を噛みしめる。バルーナが一度軽くうなずいたのを見て、ヴァージンはさらに言葉を続けた。
「また走ればいいじゃないですか。今度は、自分の実力で。それができるのが、私たちアスリートだと思います」
「ヴァージン……」
バルーナは、この数分口にすることのなかった小さな声で、呟いた。スタジアムの歓声に呑み込まれそうな細々とした声だったが、その小さな声ははっきりとヴァージンの耳に響いていた。
「気にしない方がいいです。むしろ、跳ね返した方が楽になると思いますよ」
「ありがとう……」
バルーナは、そう言うとゆっくりとダッグアウトに向かった。ヴァージンは、バルーナの後ろ姿を目で追った。
――それは、ヴァージンが引き継いでほしい、私の想いだと思う。
(……っ!)
今度こそ、歓声に呑まれて聞こえなかったが、ヴァージンの目から見えたバルーナの口は、はっきりとそう言っているように見えた。嫌な予感しか、ヴァージンにはしなかった。
ようやくダッグアウトにたどり着いたバルーナは、いそいそとウォームアップシャツを上に羽織り、まだその姿を見つめ続けているヴァージンに振り返った。そして、ヴァージンの目にはっきりと見えるようにウォームアップシャツの下にあるレーシングトップスをつまみ上げる。
そして、1秒の間も与えないまま、バルーナはレーシングトップスを両手で力いっぱい引き裂いた。
「バルーナさん!」
ビリビリという、濁ったような音がヴァージンの耳にはっきりと聞こえた。背中からひらひらと落ちていく、これまでバルーナの競技生活を支えてきたウェアは、今にも風に吹かれて飛んでいきそうに震えていた。
それは、エリシア・バルーナが、二度とこの場所に帰ってこないことを意味していた。
翌日、バルーナは引退を正式に表明した。本人の不正が認定されるかどうかは現時点ではわからないが、ただ一言「もう走れない」という言葉を、引退会見の中で何度も口にしていた。
(止められなかった……)
翌日、オメガ国に戻ってきたヴァージンが、空港のテレビで最初に見たのがそのニュースだった。嫌な予感は的中してしまった。そして、止めるはずの一言が、逆にバルーナをその先へと進めてしまったことを思い知った。
(責任……、そして信頼……。普段は気にする必要はないはずなのに……、いざ事が起きると付いて回ってくるもの……)
ヴァージンは、下を向いて一度だけため息をつき、再び首を戻した。
その後、アンドロ・ホレスキンは有罪が決まり、ヴァージンも「ワールド・ナンバーワン入試」でイーストブリッジ大学への進学が決まった。だが、環境がどれだけ動いたところで、一度失われた信頼と、仲間は帰ってこなかった。
「バルーナさん……」
ヴァージンは、バルーナの悲痛な表情をしばらく忘れることはできなかった。