第18話 もうアスリートではいられない(5)
(ヴァージン……・キラー……。キラーって、どういうこと……)
自らの名前が大きく書かれたその横断幕を、目にはっきりと焼き付けたヴァージンのペースが、ほんの少しだけ落ちた。後ろにぴったりとついているエンジェル・ホレスキンの息遣いが少しだけ大きくなってくるのを、ヴァージンは感じた。
(レースに集中しないといけない……)
この瞬間のために、懸命にトレーニングを重ねたアスリートとして、横断幕に書かれたその言葉の意味を気にするのは最低の行為だ。それ以前に、アスリートの気を惑わすような横断幕を掲げること自体、レースではあってはいけないはずのものだ。ヴァージンは二度、首を横に振り、ペースを戻した。
勿論、この横断幕がその後の大事件をもたらすとは、誰もが気が付いていなかった。
10周を終えたところでいよいよレースが動く。ヴァージンの耳に届くエンジェル・ホレスキンの息遣いが、一段と大きくなってくる。それどころか、もう一人のライバルも背後に迫っていることにヴァージンは気が付いた。
(まさか……)
コーナーの途中で、ヴァージンは横目で後ろを見た。バルーナがエンジェル・ホレスキンの真後ろにぴったりと付き、今にも二人を抜いてトップに躍り出ようとするような勢いだった。見る限り、バルーナには体力が有り余っているようだった。
(バルーナさんが、本気を見せる……!)
ヴァージンは、視線を正面に戻した。すると、これまで真後ろから聞こえてきた息遣いの向きが、突然変わった。ヴァージンの右の頬に、はっきりと吹き付ける呼吸が、その合図だった。
その息のする方に、ヴァージンは目線をやった。その目線の先を、バルーナが猛スピードで過ぎ去っていった。そのままヴァージンをかわし、1周74秒程度と思われるペースでヴァージンを引き離していく。その後を追うように、これまでヴァージンの出方を伺っていたエンジェル・ホレスキンも、すぐにヴァージンを横から抜き去っていった。
(これが……、10000mのプロの実力……)
ほんの10秒程度の出来事に、ヴァージンの口元が少しだけ引き締まった。これまで観客席だけが見えていたはずの目に、二人のライバルの姿が見え、少しずつ引き離されていく。
(どうすればいい……)
ヴァージンは、この状況でスピードを上げるかどうか決断を迫られていた。トレーニングは、ほぼ一人で行われていたため、10000mで他人のペースを意識することはほとんどなかった。序盤こそスローペースだったので30分台で走りきるためのハードルは高くなったが、中盤のペースはトレーニングとほとんど変わっていない。むしろ、中盤で見せた目の前のライバルのペースがトレーニングよりも速いのだ。
だが、ヴァージンはそこで一度うなずいた。得意としている5000mでは、最後は自らのペースで勝負してきたはずだった。それは10000mでも何一つ変わらない。勝負に出るときは、ヴァージン自身が決めるはずだ。
短時間に次々と思考を巡らせたヴァージンは、ここでスパートをかけないことに決めた。
しかし、14周目に差し掛かった瞬間、二つ目の横断幕がレースの緊張を打ち破った。
(……っ!)
ヴァージンは息を呑み込みそうになった。数十メートル先で、何やら不穏な動きを感じた。見る見るうちに、一人のアスリートの背中が、ヴァージンの目に大きく飛び込んでくる。
(止まっている……!)
つい数秒前まで懸命に走っていたはずのライバルが、コーナー上で突然走ることを止めた。ヴァージンは、その者を追い抜く2秒前に、はっきりと思い知った。そして、勝負を諦めたアスリートとの距離がゼロになった瞬間、ヴァージンはその目から僅かな涙をこぼした。
(バルーナさん……。どうして……)
ヴァージンがほんの一瞬で追い抜いたバルーナの表情は、もはや勝負に挑む者と思えないほど震え上がっていた。顔色が悪そうにも見えた。そして、涙のにおいさえ、ヴァージンは感じた。
そしてそれは、エリシア・バルーナの普段着の姿のようにも見えた。勝負師から、何もかもを取り払われた、一人の女性の姿だった。
(どうして……!)
トップに立ってレースを引っ張っていたはずのバルーナが、ほんの数秒で走ることを諦めてしまうとすれば、体調不良のレベルではない大きなアクシデントがあったとしか思えない。いつかのシェターラのような、しばらく走れないほどの重い怪我、あるいは……。
そう考えているうちに、ヴァージンの目は、もう一人のライバルの姿を捕えていた。目の前でバルーナが立ち止まり、ペースが鈍ってしまったエンジェル・ホレスキンの姿だった。14周目の最終コーナーを回った時、ヴァージンはエンジェル・ホレスキンの真横に立ち、その後の直線でたやすく抜き去った。エンジェル・ホレスキンも、止まってこそいないものの、もはやレースに集中できていないようだ。
(何が起こっているの……)
一度は二人に追い越されたはずのヴァージンが、何も状況を呑み込めないまま、再びトップに躍り出ている。そのことを、ヴァージンは気にせざるを得なかった。何かのいたずらなのか。
(あと10周近く残っているはずなのに……)
その時、ヴァージンの目の前に再び横断幕が飛び込んできた。ヴァージンは、大きな目でそれを見た。
――ヴァージンを傷つけた野郎、ホレスキンの娘はここから出ていけ!
――この場所で勝負する資格なんてない!
(まさか……)
その瞬間、ヴァージンはアンドロ・ホレスキンの真実の姿を思い知った。エンジェル・ホレスキンが気にしてしまうのも、この横断幕の書き方では無理はない。だが、問題はもう一人のライバルが、アンドロ・ホレスキンと深く関わっていたことだった。
全てが、分かりかけた。
(バルーナさん……)
16周を走り終えたとき、トラックの中で力なくしゃがみこんでいるバルーナの姿が、ヴァージンの目に飛び込んできた。もはや、挑むことを知らないバルーナの表情に、ヴァージンは一度首を縦に振った。
(私まで……いま、この瞬間を捨ててはいけない……!)
深い「傷」を与えた横断幕によって、走ることを止めざるを得なくなった一人のライバルの想いを、ヴァージンは背負うことに決めた。再び意識をレースに戻し、ヴァージンはトラックを力強く蹴り始めた。
(私は……、この場所で戦うために……!)
ヴァージンは、残り3000m以上残っているにもかかわらず、ペースを上げた。一度はレースの集中力を乱されたエンジェル・ホレスキンも、徐々にペースを上げて、再びヴァージンの耳元にその鼓動をしっかりと響かせているのも、ヴァージンの気を奮い立たせる。しかし、それ以上にこれまでの走りがヴァージンにとってスローペースだったことが、この段階からのペースアップを導いている。
一度は衝撃の走ったトラックが、勝負の感覚を取り戻し始めた。ヴァージンの脳裏にあったはずの、バルーナの残像は、その横を何度も通り過ぎているにもかかわらず、目に飛び込むことはなかった。
(……!)
残り4周、1600mを抜かれずに走りきればヴァージンの優勝が決まる。少しだけそう確信した時、レースは大きく動き出した。エンジェル・ホレスキンの鼓動が、再びヴァージンの真横に届いたのだ。1周73秒程度でレースを引っ張ってきたヴァージンの真横に、ライバルの姿がはっきりと映る。
(ホレスキンさんは、まだ本気……)
ヴァージンは、エンジェル・ホレスキンの目を横目で見て、ややストライドを大きくし始めた。今のヴァージンにできることは、10000mのエキスパートから逃げ切ること。5000mで何度となく見せつけた圧倒的なラストスパートを持つヴァージンには、1年前とは比べ物にならないほど力が残されている。最後に萎まないために、何度となくトレーニングを重ねてきた。
そう、ヴァージンは言い聞かせた。
しかし、勝負はついに仕掛けられた。突然の歓声が、ヴァージンの耳に飛び込む。
(誰……!)
エンブレア出身の小柄な選手、サンドラ・エクスタリアが、オレンジに近い赤い長髪をなびかせながらヴァージンの真横を駆け抜ける。これまでトップ集団の近くで様子をうかがっていたのだろう。残り2周に入るか入らないかのところで、ついにエンジェル・ホレスキンとヴァージンを一気に抜き去ったのだ。
(スパートを……、かけるしかない)
ヴァージンの右足は、早くもスピードを上げようと力強い一歩を踏み出そうとしていた。その時、さらに彼女の横をエンジェル・ホレスキンが颯爽と抜き去っていき、エクスタリアを懸命にとらえようとしていた。
ヴァージンもスピードを上げたが、スピードが何度も目まぐるしく変わる展開に、残っているはずの力が足に響いてこない。目の前で繰り広げられる、ホレスキンとエクスタリアの一騎打ちを追いかけている程度のスパートにしかならない。
(抜きたいのに……!バルーナさんのためにも!)
最後の1周、エクスタリアはヴァージンが5000mで見せるような力強い走りで、ラップ65秒を叩きだし、そのままゴールテープを割った。最後までその背中を追ったヴァージンは、結局ホレスキンすらかわすことができず、3位で終わってしまった。
その時見えた、バルーナの横顔が寂しかった。