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世界記録のヴァージン  作者: セフィ
新たなるステージの始まり
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第18話 もうアスリートではいられない(4)

 その後、アンドロ・ホレスキンの裁判は回数を重ね、4月の初め頃、最終公判が行われた。判決は、翌週の月曜日に言い渡される。奇しくも、その間にヴァージンの今シーズン初めてのアウトドアでのレースになるエンブレイム選手権が行われるのだった。

 ヴァージンは、公判が行われるたびにガルディエールからその日の裁判で明かされた内容などが電話で受けていたが、大会が近づくにつれてあの事件のことについてはあまり気にならなくなっていた。ガルディエールから「気にするな」と言われていたこともあるが、日に日にアンドロ・ホレスキンが実刑を受けることが確実になっていったのがより大きな理由だった。少なくとも、本業が検察官や弁護士ではないヴァージンにとっては、トレーニングを重ねることがより重要なはずで、あの本を読んだ時のような熱狂的な探究心は薄れていた。

 ところが、その最終公判の夜、ガルディエールからは電話がなかった。最終公判の日程まではっきりと覚えているわけではなかったが、判決が大会の直後に言い渡されるということもあって、最終公判が行われることだけは頭の片隅に覚えていたのだった。

(特に、何の進展もなかったから、ガルディエールさんから何もかかってこなかったのかな……)

 ヴァージンは、あくびとともにそう思いながら、普段通り23時頃に部屋の電気を消し、ベッドに入った。そして、頭の中をすぐにエンブレイム選手権に切り替える。

(そう言えば、バルーナさんと久しぶりに同じレースに出る……)

 エリシア・バルーナの名が、ヴァージンの脳裏にこだまする。昨年から、勝負の舞台を5000mから10000mに移したことで、ヴァージンとはほとんど同じレースに出ることがなくなった彼女が、既にエンブレイム選手権の出場を表明している。久しぶりに顔を合わせることになるからだ。前回10000mで勝負した時は、最後のスパートが思うように伸びず、終わってみれば2位と6位で、ヴァージンがかなり水をあけられてしまっていた。

(今度こそ、表彰台に立つ。そして、10000mでもその力を見せつけたい……!)

 ヴァージンは、ゆっくりと目を閉じた。数日後に訪れる悲劇を知ることもなく。


 エンブレア共和国の緑豊かな大地に、戦いの時を告げる一陣の風が吹いた。エンブレイムシティスタジアムで開催されるエンブレイム選手権の会場に、ヴァージンは普段と同じような堂々とした足取りで入っていった。時折聞こえる、時間的に男子800m決勝と思われる歓声に、ヴァージンは数時間後の自らの姿を重ねたのだった。

「今日は、私は特等席でお前を待っているからな」

「はい!必ず、自分の満足のいく結果を出します」

 選手受付の前でマゼラウスと別れたヴァージンは、一度だけマゼラウスに振り返った。すると、マゼラウスの背後からゆっくりと近づいてくる、見慣れたライバルの姿がいることにヴァージンは気が付いた。

(バルーナさん……!)

 アドモンド出身の選手の特徴とも言うべき有色肌を、春の眩しい陽の光に輝かせて、ショルダーバッグの中に手を伸ばしながら歩いてくる一人の女性の姿。それがエリシア・バルーナだった。5000mのレースで繰り返し同じ場所を競っていた頃には感じなかった、バルーナのこれまでの素顔が、この時何故がヴァージンの脳裏に思い浮かんだ。

(あれから4年近く経つのか……)

 そうヴァージンが思っていると、バルーナはヴァージンの正面で立ち止まった。

「今日はよろしく、ヴァージン」

「えぇ……。こちらこそ、よろしくお願いします」

 少しおどけた表情を見せるヴァージンだったが、すぐに何度かうなずいてみせた。そのうなずきが始まると同時に、バルーナはヴァージンの目を見つめてこう言った。

「ヴァージン、5000mで去年もまた記録出したみたいね。なんか、その舞台を離れても気になってしまう」

「ありがとうございます。バルーナさんも、10000mで記録伸ばしているじゃないですか」

「そうね。5000mの時よりも伸びたという実感がする。ヴァージンはどうなの?」

 昨年のリングフォレスト選手権でバルーナが出したタイムが、あの時の彼女のパーソナルレコードだった。だが、バルーナが半年後のレースで出したタイムはそれより30秒近く縮まっており、ヴァージンが先日トレーニングで出した30分台を、バルーナはその段階で達成しているのだった。

「私も、あの時は31分48秒とか出しちゃったけど、今は30分台を出せるようになってます」

「じゃあ、期待してる」

 そう言うと、バルーナはヴァージンを回り込むように選手受付の列に急いだ。ヴァージンもその後を追うように列に並んだ。

(勝負は、30分台で決まる……!)

 すぐ目の前に立つバルーナの背中は、ヴァージンの目からは普段より大きく映った。


 サブトラックで最終調整を済ませ、ヴァージンは集合時間の10分前にトラックに出た。集合場所に向かうライバルたちの姿は、昨年のリングフォレストで10000mと戦った相手とほぼ同じ顔ぶれだった。「世界記録コレクション」の写真や、雑誌のグラビアで何度もその表情を記憶してきた、メルティナ・サウスベストの姿は今回もなかった。その代わり、エンジェル・ホレスキンの姿が真っ先にヴァージンの目に飛び込んできた。

(ホレスキンさん……)

 あの事件の黒幕とされた容疑者とは全く血のつながりがないと、ガルディエールから告げられていても、その名前にはどこか引っかかる。しかし、エンジェル・ホレスキンの顔を横目で見る限り、心配そうな表情は何一つ浮かべていない様子だった。前回と全く同じ、ただトラックの先を見つめるようなしぐさを見せる。ホレスキンの揺れる茶髪に、ヴァージンは一度うなずいた。

(やはり、アスリートは本番で勝負のこと以外、何も意識しない。私も、何考えているんだろ……)

 ヴァージンは、トラックの上で珍しく首を横に振り、スタートの瞬間を待った。


「On Your Marks……」

 2ヵ所に分かれたスタートラインに、15人の選手が並んだ。女子10000mの始まりの時だ。

 ヴァージンの立った外側のスタートラインに、バルーナとエンジェル・ホレスキンの姿があった。ヴァージンは、最後にその二人の姿を同時に見て、目を細めた。

(30分台……!)

 数秒後、号砲が鳴る。5000mに挑むときには考えられないほど、ヴァージンはゆったりとしたストライドの第一歩を踏み出した。すると、エンジェル・ホレスキンがヴァージンの数歩前に立ち、昨年のリングフォレストと同じようなポジションを最初の1周で確保した。一方、バルーナはヴァージンの右にぴったりとついて、全体のペース次第でスピードを上げようという作戦だ。

(とりあえず、私もホレスキンさんのペースが上がったら勝負を仕掛けよう)

 しかし、そう決めたヴァージンは、そこでスピードが遅いことに気が付いた。2周、3周とレースが進んでいくが、1周のラップが80秒から82秒を行ったり来たりしているようにヴァージンには思えた。

(トレーニングでは、私はこんなゆったり走っていない……)

 昨年の大会では、ヴァージンが最初に飛び出したことでレースの展開も速くなっていたが、今回は全体的にゆったりと走っている。もしかしたら、これはトレーニング中の自分のペースで走れば、簡単にホレスキンより前に出ることができるのかもしれない。

(私が、ペースを作った方がいい)

 ヴァージンは、4周が終了したと同時に、カーブでややスピードを上げた。インドア向けにトレーニングした時のように、カーブでもスピードを上げていく。そして、コーナーから直線に差し掛かった時、ヴァージンはホレスキンの真横に立ち、やや広めのストライドでそのまま前に出た。それに刺激されたのか、ホレスキンも、バルーナも、そして2位集団を作っていた他のライバルたちの中からも、ペースを上げ始めた。ヴァージンの耳に、少なくともホレスキンの軽い息遣いが流れてくる。それは途切れることがなかった。

(後ろで、ぴったりついている……)

 6周、7周とレースが進んでいくが、ヴァージンもホレスキンも1周76秒程度で走っている。5000mではなく10000mである以上、ヴァージンはこの距離でスパートをかけて引き離すわけにもいかず、かたやホレスキンもヴァージンの出方を伺っているように思えた。


 しかし、8周目の第1コーナーを回った時、スタジアムが異様な空気に包まれた。その視線の先にどのライバルも見ることのないヴァージンの目に、突然はっきりと見える横断幕が飛び込んできた。観客の何人かが共同で、広い横断幕を左手に持ち、右腕を高く上げながら、何やら主張しているようだった。

 その横断幕に、書かれていた言葉は、ヴァージンにとってはあまりにも衝撃的なものだった。


 ――ヴァージン・キラーはスタジアムから去れ!

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