第18話 もうアスリートではいられない(3)
「パフォーマンスはその時止まった――陸上選手を襲った凶悪な事件――」という長いタイトルに負けないほど、その本自体が厚かった。ヴァージンは、ワンルームマンションに戻ってきて、机に向かって読み始めたが、どれほどの時間が経っているかも分からなくなってしまった。
この本には、過去に選手を襲った様々な事件簿が書かれており、全てがヴァージンの興味を引くものだった。
大会に向かう選手を乗せた車に当て逃げし、軽い打撲状態のまま大会にでなければならなくなった。
大会に向かう選手を路地裏に連れて行き暴行、そのまま警察沙汰になりレースに出られなくなった。
偽の契約書を使って、選手個人の家や競技用シューズを差し押さえて、借金を返せない場合には売却した。
トレーニング中のアスリートを遠方から銃で撃って……。
勿論、どれも選手本人に何の非がないものであるし、その容疑者は現行犯、またはその数日後には何かしらの形で逮捕されている。そのため、この世界に入ってわずか4年にすぎないヴァージンが、常日頃からそのような暴力に怯えることなどなかった。むしろ、そのこと自体知らなかった。そして、同時にヴァージンのゼッケンを狙った事件も、その氷山の一角に過ぎないことも分かった。
(これは酷い……。直前とかそんなことされたら……、とてもじゃないけどレースに出られなくなる)
1章が終わるたびに、ヴァージンは深いため息を吐き出した。しかし、一度そのような「闇」の世界を知ってしまった彼女に、その本を最後まで閉じることはできなかった。
「あ……、もう日付も変わってしまう……」
アメジスタで生活していた頃はどんなに遅くても23時には就寝していたので、オメガで今の生活を始めてからも極力それを維持してきたのだが、こんな「どうでもいい」ことでヴァージンがこの時間まで起きていることはあまりに珍しかった。
そして、「選手を無理やり詐欺容疑で捕まえる」の章を読み終えたヴァージンは、最後まで読み切ってしまった。本を閉じるヴァージンの額に、大量の汗が流れていることに気付くのは、その時だった。
(どうして、私たちはこんな苦しいことをされなきゃいけない……)
ヴァージンは、一度右手の人差し指を動かして、もう一度本の最初の方のページを開こうとした。しかし、それはすんでのところで踏みとどまった。
(私たちは……、本番で最高の成果を残すために頑張っているのに……)
ほぼ活字と写真だけだったはずのこの本に登場した残虐なシーンが、時折ヴァージンの中で数秒程度の動画になって甦ってきそうだった。その度に、ヴァージンは軽く首を横に振って、それを否定した。
「もう寝たほうがいい……」
ヴァージンはゆっくりと立ち上がろうとした。しかし、立ち上がりかけた姿勢のまま、彼女は止まった。
(なんか、容疑者の中にあの名前がなかったような気がする……)
ヴァージンが予感した通り、その本に「アンドロ・ホレスキン」の文字はどこにもなかった。本に紹介されている事件の全てが、無事に解決を見せており、そのほとんどが裁判も終結して実行犯が何かしらの罰を受けている。ホレスキンが先日初めて捕まったのであれば、この本に実行犯として挙がってくるはずもない。
しかし、ヴァージンの身に直接降りかかった事件も、ホレスキンが実行犯でなかった。そのことがヴァージンを躊躇させたのである。
「おはようございます」
「ヴァージン、どうした。珍しく寝不足そうな顔じゃないか」
翌朝、普段通りの時間にアカデミーに入ったヴァージンは、ロビーを通り過ぎるなりマゼラウスに顔色を窺われてしまった。
「ちょっと……、昨日本を見過ぎてしまったものですから……」
「お前らしくないな。まぁ、大学に進学するから、本を読む癖はつけたほうがいいかも知れんけどな」
「そうですね……」
ヴァージンは、見えない程度にうなずいて、ロッカーに向かった。しかし、普段のようにロッカーでトレーニングシャツに着替えている時でさえ、ヴァージンの脳裏には普段と全く違う意識が浮かんでしまっていた。
(私は……、あんなひどいことをする容疑者を許しておくわけにはいかない……。でも……、私たちにできることって何なんだろう……)
そう、頭の中で呟いた瞬間、ヴァージンはその場に呆然と立ち尽くしそうになった。
(たしかに、私はこの足で、どんな女性よりも速く5000mを走りきることができる。けれど、ああいうことをする人たちは、それとは違う強さを持っている。暴力で対抗されたら、いくら体力のある私でも苦しいし、頭のずる賢さで攻められたら、私たちはもっと立ち向かえない)
ヴァージンは、深いため息をついた。そこに、他のアカデミー生がロッカーに入ってきてしまったので、ヴァージンは慌ててロッカーを飛び出した。
結局、この日のトレーニングは、ここ1週間の中でも最悪のパフォーマンスしか発揮できなかった。
「また31分台後半に戻ってしまったじゃないか」
「すいません……」
その日、ワンルームマンションに戻ると、ヴァージンは真っ先にあの本の置かれている机に向かった。本を開くことはせずに、ただぼんやりと昨日知ってしまった世界を思い浮かべるだけだった。
(何が……できるんだろう……)
ため息を何度つきたくなったか分からないほど、ヴァージンは机に向かって数十分、ほぼ同じ体勢を撮り続けていた。その先に進みたくても、進めなかった。本のページすらめくらない、静寂な時間だけが過ぎていく。
その時、静寂を裂くように電話が鳴った。ガルディエールからだった。
発信者の名前を見た瞬間に、ヴァージンの二言目が決まりかけていた。
「ちょっと今日は、あの事件の進捗を君に伝えようと思うんだ」
「ガルディエールさん……。私……」
ヴァージンに直接相手の表情など見えないにもかかわらず、その目にはうっすらと涙を浮かべていた。
「どうしたんだ、急に泣きそうな顔を浮かべて。トレーニングで怪我でもしたのかい?」
「違います……。なんか、アスリートたちが受けたいろんな出来事を知ってしまうと……、自分でもどうしたらいいのか分からなくなってしまいました……。私、どうすればいいんでしょう……」
そこまで一気に言い切って、ヴァージンは深いため息を電話のマイクに乗せてしまった。そのため息が消えるか否かのタイミングで、ガルディエールは優しく言葉を返した。
「それは、ありのままの君自身を見せることじゃないかな」
「えっ……。それだけでいいんですか?」
「だって、どんなにあんな連中と張り合ったって、勝てるわけないよ。でも、君には素晴らしい力がある」
「素晴らしい力……」
ヴァージンは、そこで口ごもった。数秒の間が開いて、ガルディエールはさらに言葉を続ける。
「君は、世界中の人を感動させることができるじゃないか。その足で、次はどんな走りを見せてくれるのか……、それを見たくてスタジアムに足を運んだり、メディアを通じて世界中でその姿を見ていたりしているよ」
「それで……、いいんですか」
「だって、君自身が言ったじゃないか。君自身が狙われたあの時。忘れたとは言わせないよ」
――私を快く思わない人から浴びせられた傷を、すぐにでも治す!必ずこの場所に戻ってくる!そして……、私は走ることで、みんなに勇気を与える!
「言いました……」
「だろ。それが、ヴァージン・グランフィールドの素直な、本当の想いだと、私は思っているよ」
ヴァージンの目には、あの時あそこまで言い切った自分自身の姿がはっきりと思い浮かべていた。ほんの数分前に、全てを奪うような残虐な行為が降り注いでもなお、その場所にいることを決意した、力強い言葉だった。
「だから、君はそんなことに怯える必要なんてない。怯えたら、力なんて出なくなる」
「分かりました……」
ヴァージンは、電話を手に持ったまま軽くうなずいてみせた。すると、それと入れ替わるようにガルディエールのトーンが大きくなった。
「というより、君の話を聞いていると、もしかして君もホレスキンのことを調べているんじゃないでしょうね」
普段は甘いトーンで語りかけるガルディエールの声が、急にとがり始めた。ヴァージンは思わず息を呑み込んだ。
「はい……、それに近いことはしていました」
「過去の残虐な事件を、いろいろと調べたわけだね」
「本で調べました……」
一度、ガルディエールがため息をつく音が、電話の向こうから流れてきた。
「君は、そんなことをする必要なんてないよ。アスリートにかける負担を減らすために、私がいるんだから」
「そうでしたよね……」
「だから、あとのことは私に任せてくれ。進捗だけは、伝えていくつもりだけどね」
「分かりました!」
ヴァージンは、その後裁判の進捗だけを確認して、電話を切った。
しかし、その時はまだホレスキンの真実の姿に、ヴァージン自身が衝撃を覚えるとは思っていなかった。