第18話 もうアスリートではいられない(2)
ガルディエールは、電話口で戸惑うヴァージンをよそに、さらに言葉を続けた。
「その名前をニュースで聞いたかどうかは分からないが、君に対する嫌がらせ行為の黒幕ということで逮捕されたのは、アンドロ・ホレスキンという男だ」
「ホレスキン……、って女子10000mにも出ているあの……」
その名を聞いた瞬間、ヴァージンの口元が緩んだ。一昨年の世界競技会を制するなど10000mのトップとして君臨する、エンジェル・ホレスキンを連想したからだった。
だが、ガルディエールはあっさりそれを否定する。
「そのホレスキンじゃないよ。同じ名前だけど、血はつながっていないみたいだし、そもそも逮捕された方は、アドモンド人の男だからね」
「あの世界競技会でやられたから、てっきり、オメガの人だと思っていました」
ヴァージンは軽い口調でそう言った。だが、そんなヴァージンの離し方に対して、ガルディエールの言葉は一向に明るくなるきざしを見せない。
「君は、もうすっかり立ち直ってそうだからそう言えるかもしれないけど、これがなかなかの問題人物なんだよ」
「どれくらいの問題人物ですか?」
映像がない状態で、ヴァージンはホレスキンと名乗る「容疑者」の想像をしなければならなかった。一般的にアドモンド出身の人は有色肌が多いというイメージだけが、ヴァージンのこれまでの競技生活の中で分かっていたことだった。
「どれくらいって……、奴は俗に言う、レースクラッシャーだ。小耳にはさんだ話だが、奴はこれまで女子選手の間で起きた不可解な事件を、裏から指示しているらしい」
「そんな悪い人なんですか。聞いたことありません」
「そうか……」
ヴァージンは、アメジスタにいる頃はほとんど国外のニュースが入ってこない環境で生活していた上、オメガでアスリートとしての道を歩み始めてからは、ひたすらトレーニングに明け暮れていた。彼女の愛読書とも言うべき存在と化した雑誌「ワールド・ウィメンズ・アスリート」で、このような自分たちの「闇」を扱うことはまずないため、ヴァージンはこれまで何一つ、痛ましい事件を知ることはなかったのだ。
「アンドロ・ホレスキンの存在は、本当によろしくなかった。だから、今回彼が逮捕されたことで、これまで真犯人が分からず捜査が難航していた事件が、一気に進みだす。それは大きな一歩だ」
「大きな一歩」
ヴァージンは、電話を手に持ったまま大きくうなずく。
「だから、もう安心してほしい。君の本当の敵は、これで走りのライバルだけになったんだよ」
「分かりました」
やがて電話は途切れ、普段通りの独りぼっちのワンルームマンションでの生活が、再び回り始めた。
数日後、アカデミーでのトレーニングがオフとなったヴァージンの姿は、珍しくオメガセントラルの図書館にあった。数ヵ月後には大学生の仲間入りをするかもしれないということで、アメジスタではほぼ無縁だった図書館という場所の雰囲気に慣れるのが一つ。そしてもう一つは、ガルディエールに告げられた事件の内容を確かめるためだった。
ヴァージンの、完全なる興味本位だったことは言うまでもない。
(図書館……、広すぎる……)
ワンフロアだけで、インドアトラックが一つ分入ってしまいそうな広さのフロアには、所狭しと本の詰まった棚が立ち並ぶ。文学書、歴史書、科学や生物、そして産業や技術に関するジャンルの本が並び、普段は薄青のトラックの先を見つめるヴァージンの目は、一瞬方向感覚を失いかけた。
(どうやって……、調べればいいんだろう……)
棚と棚の間を何列か通り抜けて、そこに並んでいる本のタイトルをいろいろ見るものの、どれもヴァージンの探しているようなものではなかった。ピンとくるような言葉がない。
「はぁ……」
五つ目の棚をくまなく探した後、ヴァージンは図書館の真ん中で足を止め、ため息をついた。すると、すぐ目の前の椅子に座っていた一人の青年が、彼女のため息に気が付いたのか、勢いよく顔を上げてヴァージンを見た。
(気づかれたかもしれない……)
ヴァージンは、慌てて顔を背けようとするが、それ以上動きはなかった。図書館までそう近い距離ではなかったので、来るのもトレーニングウェアではなく普段着だったことが功を奏した形になったのだろう。
しかし、数秒後にその青年は再び顔を上げた。
「間違いならいいんだけど、もしかして、君は世界的トップアスリート?」
(バレた……)
ヴァージンは静寂な空気を壊さないように、軽くうなずきながら青年に近づいた。容姿から見て、アルデモードではなさそうだったが、ヴァージンの目は、青い髪を左右に揺らすその青年に引かれてしまう。
「えぇ……。ちょっと、調べものをしていて……」
ヴァージンは、少し語尾を下げるように青年にそう告げた。しかし、探し物をしようにも、これ以上どうすることもできず、ヴァージンはその場に立ち竦むだけだった。
「もしかして、図書館の使い方が……分からない?」
「はい……。全く入ったことがなかったので……」
ヴァージンは、やや言葉を詰まらせながらもそう言った。すると、青い髪の青年は立ち上がり、ヴァージンの手を取るように、右手を差し伸べた。
「俺が、教えてやるさ!」
「本当ですか!……こ、こんな初対面なのに……」
「ほら。だって、君がこんなところで立ち止まってちゃ……」
ヴァージンの耳には、その後に「いけないんだからさ」という言葉がはっきりと聞こえた。
「ありがとうございます」
「お礼はいらないさ。どういった本を、調べてみたいんだい?スポーツの歴史とか、走り方のフォームとか、メンタルトレーニングの本とか……」
その青年は、次々とジャンルを並べてみるが、ヴァージンには、それらすらどこにあるのかも分からない。そこで、ヴァージンは青年の口が小さくなると同時に、こう言った。
「アンドロ・ホレスキンさん、という人に関係する本です」
「それ、この前捕まった……」
「そうです。その人が、今までどんなことをしてきたのか……、ちょっと調べたくなったんです」
「そうか……」
青年は、何かを思い出したかのようにヴァージンに向けてうなずいた。そして、ヴァージンの右腕の袖を引っ張りながら、軽く微笑んだ。
「検索システムで調べるといいよ」
「検索システムですか?ネットとかそういうものがあるんですか?」
「ほら、ネットとかそういうのじゃなくて、この図書館とか、周りの図書館にどういった本があるのか、そういうのを調べる機械のことだよ」
青年がそう言う間に、ヴァージンの小さなモニターの前に立っていた。そこには、オメガ語の全ての文字が並んでいて、キーに手を触れて下さい、などと言う言葉が書いてあった。
「じゃあ、俺が見本を見せるから」
青年の手が、素早くそのモニターに伸びる。すると青年は、ヴァージンがその動きを追うこともできないほどのスピードで、いくつかのキーを立て続けに押した。
「陸上選手……?事件……?」
二つ並んだ言葉を、ヴァージンはその場で棒読みした。その瞬間に、ヴァージンの目にいくつかの書籍のタイトルが飛び込んできた。
「もしかして、君が探しているのは、こういった本なんじゃないかな」
「そ、そんな感じの本です」
モニタの画面が真っ先に告げたタイトルは「パフォーマンスはその時止まった――陸上選手を襲った凶悪な事件――」と書かれていた。発行年が3年前のもので、自らが目の当たりにした痛ましい事件が掲載されていない本だが、ヴァージンの目は真っ先にそれに食らいついた。
「すいません……。この本のタイトルに、さっきと同じように指を乗せると、本が目の前に出てくるとかそういう感じですか?」
「さすがに、そこまで便利なものじゃないよ」
そう言いながら、青年はそのタイトルの上に指を重ね、次の画面をモニターに映した。
「ほら、ここにG12ってあるだろ。この図書館の、G12っていう棚に、いまその本があることになっている、ということなんだ。もちろん、誰かが読んでいたらその場所にはないんだけど、とりあえずG12の棚に行ってみるといいよ。俺がついて行ってもいいんだけどさ」
「ありがとうございます。ぜひお願いします」
ヴァージンが軽く笑みを浮かべて言葉を返すと、青年はすぐにうなずいてヴァージンに軽く振り返りながら足を動かし始めた。
「ついて行くよ」
このようにして、ようやく目的の本にヴァージンはたどり着くことができた。図書館に所蔵されているだけでまだほとんど読まれた形跡のないこの本を、ヴァージンは手にしたのだった。
だが、それを手に取った時、ヴァージンは身震いすらした。
「この本、少しボリュームありますね」
「ちょっと量が多いかもね」
普段は、雑誌しか読むことのないヴァージンが、ここまで分厚い本を手にすることなどこれまでになかった。ヴァージンはその本を手に抱えたまま、青年に尋ねた。
「これ、借りることはできますよね」
「できるさ。2週間ぐらいね」
「じゃあ、借ります。今日は、本当にありがとうございました」
ヴァージンは、そこまで言って青年に背を向けようとした。しかし、ヴァージンの目が青年から離れることをなかなか許さなかった。
(なんか……、運命の糸に引っ張られているのかもしれない)
その青年と、すぐに再会する。ヴァージンは、この時はっきりと感じたのだった。