第18話 もうアスリートではいられない(1)
春、心地よい風がオメガ国じゅうを吹き抜ける中、セントリック・アカデミーのトラックを力強く駆けるヴァージンを、時折追い風が後押しした。4月のエンブレイム選手権で久々の10000mに挑むこともあり、ヴァージンはこれまで以上に10000mのペース配分を意識しながら日々トレーニングを行っていた。
10000mへと進出してからこれまでの間に、単純に5000m2本ではないことははっきりと分かった。下手にペースを「普段」通りにすれば、最後に力が爆発できない。力を極端に余らせず、かつ足りなくさせずに走ることは、想像以上に難しく、ヴァージンのタイムは春先まで相当差ができていた。
それが、大会1ヵ月前になり状況が変わった。
「すごいじゃないか!ついに壁を破ったじゃないか!」
「壁ですか……?」
肩で激しく呼吸しながら金髪に手を触れていたヴァージンは、その言葉を聞くなりマゼラウスの右手に潜めたストップウォッチに急いだ。そして、左から順番に、黒い線が示すものを読みかけて、思わず口を開いた。
「30分台……!」
「そう、これまで2年間私が見ていて、最速が31分03秒20だったはずだからな」
マゼラウスに誘われるように、ヴァージンはさらにストップウォッチに目を近づける。30分54秒28というタイムは、何度見ても変わらなかった。幻となったオリンピックの直前に叩きだしたタイムからは約半年で9秒ほどしか向上していないものの、31分台と30分台ではあまりにも大きな違いだった。
――31分を切れるレベルでも、十分トップを狙えるかもしれない。5000mと違って、もっと差が出てくるだろうからな。
(……っ!)
ヴァージンは、大きく息を呑み込み、思わずマゼラウスの顔を覗き込んだ。
「どうした、ヴァージンよ」
「コーチ!なんか、昔コーチが言ってたことを思い出したんです。31分を切れるタイムでも、トップを狙えるかもしれないって言ってました」
ヴァージンは何度もうなずきながら得意げにそう言った。その言葉に、マゼラウスはかすかに苦笑いを浮かべながら返す。
「お前の目指すところは、そこではないだろ。5000mであれだけの実力があるんだから」
「それは分かっています。けれど、それは最終目標です」
「最終目標……か。お前らしくないな」
マゼラウスは苦笑いを続ける。その言葉のトーンからは、決してその言葉を正そうとしているものではないように、ヴァージンは聞こえた。
ヴァージンは、一度うなずきながら、強い口調でこう言った。
「目標は、二つ持ってはいけないと思うんです」
「二つ……。世界記録と優勝か」
「そうです。優勝のその先に、自分の記録があるのですから」
ヴァージンは絶えずマゼラウスの表情を伺っていた。マゼラウスは納得したかのように何度もうなずきつつ、ヴァージンの言葉を聞いていた。
「私のいまの目標は、女子10000mで表彰台のトップに立つことだと思っています。5000mだけのヴァージンって言われないようにするのが、次の大会での目標です」
「そうか……。まぁ、無理な目標を立てないのも人間だよな」
「ありがとうございます。でも……、なんか言い過ぎたような気がします」
ヴァージンは、堂々とした口調で言い続けた反動で、わずかながら息苦しさを感じた。それを見せないように軽く笑ってみせた。
「ヴァージン、お前は別に言い過ぎてなんかない。トーンダウンだとも思ってない」
「本当ですか?」
「長いことお前を指導していて、ずっと気になっていたことだ」
マゼラウスは深く息をついて、その息を追いかけるようにこう告げた。
「お前は、二つの目標を追い続けていると、力が分散してしまうからな」
「はい」
ヴァージンは、マゼラウスの指摘に大きくうなずいた。様々な分野で心当たりがある。
(一つのことに集中しすぎて、何もできなくなってしまう癖は、私にはたしかにある……)
相手の走りに意識して自分の走りができなかったことなど、これまで何度もヴァージンにはあった。それだけにとどまらず、そのような癖が事あるたびに出ていたのだった。
ヴァージンが納得したようにうなずくと、マゼラウスはさらに言葉を続けた。
「だからこそ、お前の決めた目標で突き進んでみるのが重要だ。もう、お前は20歳。一人前の人間だからな」
「はい」
「お前がゴーと言えばゴー、ストップと言えばストップ。それが重要だ。お前は、普段のトレーニングとか、レース中とか、絶えず意識しているように見える」
「そうですね。たしかに、レース中でも意識することはあります」
ヴァージンの脳裏には、最後に世界記録を叩きだしたウォーレットとの一戦が浮かんでいた。最後の一周でタイムを見て、記録を狙えると確信した。そして、全身が動いたのだった。
「……だろ。だからお前で道を決めるのが重要だ。私はもう、間違った道に進まないように後ろから支えているだけなのだからな」
その瞬間、マゼラウスの顔がほほ笑んだ。ヴァージンも、一緒になってほほ笑んだ。
「とりあえず、30分台の世界をお前の足は知った。その感覚を忘れないようにな。分かったな」
「分かりました」
ヴァージンが、唯一公式に叩きだしたタイムが、前年のリングフォレストでのレース。あの時は31分48秒29で、トレーニングを始めた頃と比べて結果的にあまり伸びていなかった。しかし、今であればこのタイムを大幅に上回ることができる。
(私は、10000mでもやっていけそうな気がする……!)
マゼラウスに言われた言葉を何度も思い出しながら、ヴァージンはワンルームマンションに戻った。そして、そのまま本棚から「世界記録コレクション」の最新版を取り出した。勿論、ヴァージンの記録も更新されているのだが、ヴァージンはその先にある「女子10000m」の記録を見た。
(サウスベストさん……)
昼間マゼラウスから言われたにもかかわらず、ヴァージンは「もう一つの目標」を意識していた。「世界記録コレクション」で見た、メルティナ・サウスベストの記録は、約1年前に見た時と変わらず29分57秒29で変わっていなかった。
(やっぱり、あと1分差にまで迫っていた……!)
32歳になった、未だその姿を間近で見たことがないサウスベストに、世界記録を懸けて挑もうとしている20歳のヴァージン。その目は獲物を捕らえる生命体のように、徐々に細くなっていった。
(たしかに、私はコーチの前であんなこと言っちゃったけど……、次のレースでサウスベストさんを追い越せば世界記録も同時に見えてくる……)
ヴァージンは、ギュッと右手を握りしめた。
(だからこそ……、私はサウスベストさんを破って表彰台の頂点に立ちたい)
「あれ……?」
ヴァージンがようやく「世界記録コレクション」を本棚にしまいかけたとき、電話の着信音がけたたましく鳴り響いた。
(誰だろう……?)
ヴァージンは一度首を横に振って、電話へと急いだ。そして、一度深呼吸して電話を取った。
「もしもし」
「いま、電話して大丈夫だったかい?」
「ガルディエールさん……」
電話の相手は、聞き慣れた声の代理人のディオ・ガルディエールだった。ヴァージンは、心の中でほっと息をついた。だが、普段スケジュールのやり取りなどをするときにはメールが中心だったにもかかわらず、若干夜も遅い時間に電話をすることの意味が、ヴァージンは少しだけ戸惑った。
「最近は、10000mのタイムが上がってきているかな?」
「えぇ……。今日初めて30分台を叩きだして、コーチから褒められました」
「そうか……。じゃあ、エンブレイム選手権は問題ないな。なら、ちょっと君に知らせなければいけないニュースがあるんだ……。今日電話したのも、それを伝えるためだ」
「ニュース……」
ガルディエールが珍しく使ったこの言葉に、ヴァージンは電話を手に持ったまま息を呑み込んだ。嫌な予感しかしなかった。
「いや、君が別に気にするようなことじゃないんだ。ちょっと、一昨年君の身に起きた事件を思い出してほしい」
「一昨年、私に起きた事件ですか?……もしかして、世界競技会でゼッケンが燃えたやつですか?」
「いろんなことに熱中する君にしては、よく覚えているね。言う通り、世界競技会での妨害事件だよ」
電話口の向こうで、ガルディエールが薄笑いを浮かべているようだ。顔を見ることができない状況下でも、声のトーンでヴァージンには分かった。
ガルディエールは、さらに言葉を続ける。
「で、君に火をつけた首謀者がヒューレットだということは知っているはずなんだ。でも、どうもそれだけじゃない。裏で糸を引いていた人がいて、昨日その人が逮捕されて、裁判が新たなステージに入ったんだ……」
「そうですか……」
ヴァージンは、ゆっくりと言葉を返した。ガルディエールの口調があまりにも重いことに、ヴァージンはその先に待ち受ける嫌な予感を薄々感じ始めていた。