第17話 インドア・ナンバーワン(5)
14分31秒27 WIR
その輝かしいタイムが室内競技場に集う人々の目をくぎ付けにした数十秒後には、新たな室内世界記録を叩きだした本人が、そのタイムを見て喜びの表情を浮かべていた。
会場のモニターに映ったのは、ウォーレットの雄叫びだった。
ヴァージンは、そのタイムを横目でかすめるように見て、素直にウォーレットを抱きしめるだけだった。
(14分31秒27、プラス0コンマ……か。私にしては、かなりの出来だった。だけど……)
昨年、陸上長距離界に躍り出たあのタイムよりは、おそらくヴァージンの記録は上回っていたはずだった。しかし、室内記録を持つ本人の力が、それを上回る新たな世界記録を叩きだした。そして何より、ヴァージンの目の前で世界記録を叩きつけ「られる」のは、これが初めてのことだった。
インドアのワールドレコードか、インドアのパーソナルレコードか。それの違いだけで、カメラや取材陣の対応も全く違う。ヴァージンにとって、普段の敗北と何一つ変わらない時間が、歓喜の中で過ぎていった。
しかし、ヴァージンがコーチのもとに歩こうとしたそのとき、ようやく記録計の横での記念撮影を終えたウォーレットがヴァージンに向けて駆け寄ってくるのが分かった。
「グランフィールド!すごかったじゃない!」
(えっ……)
ヴァージンが振り向きざまに見たウォーレットの表情は、誇らしげに語るように見えてくるのではなく、まるで疲れ果てたようにヴァージンには見えた。
「私の……、タイムですか……」
「そう。5000m屈指のライバルが、二人そろってワールドレコードを取ったとかでカメラの人が騒いでた。ヴァージンだって、14分31秒38とか……」
「14分31秒38……」
0コンマ11の差だった。ヴァージンは少しだけウォーレットに苦笑いを浮かべた。その様子を見て、ウォーレットがさらに口を開く。
「すごい瞬間だった。だって、私がいなければ、ヴァージンはインドアとアウトドアのダブルでワールドレコードだったじゃない」
ウォーレットの表情が一瞬緩む。ヴァージンも表情を緩めようとしたが、唇をギュッと噛みしめる力の方が勝っていた。ヴァージンは、ウォーレットの表情をじっと見つめて、きっぱりとこう返した。
「そんなことないと思っています」
「グラン……フィールド……?」
覚めやらぬ興奮が包み込んだスタジアムの空気をほんの数センチだけ切り裂くような、沈黙の数秒間が過ぎる。ウォーレットの唇が、軽く上下に振れるのをヴァージンははっきりと見た。
「ウォーレットさんがいなければ、私はここまで速いペースで走れなかったです。だって、屋外と違って、インドアの私は、まだ成長の途中ですから」
その言葉を言ったはずのヴァージンの耳にも、「成長の途中」という言葉が繰り返し聞こえてくるような気がした。ほとんど考える時間がなかったにも関わらず、ヴァージンは自分の言った言葉をもう一度口にするほどその言葉を噛みしめていた。
「つまり、グランフィールドのあのタイムは……、私と戦って成長した証……というわけね」
「そうです。私は、ずっと室内に関してはウォーレットさんの背中を意識して練習してきました。ウォーレットさんを追い越せなければ、本当の意味で室内の世界記録を誇ることなんてできないのですから」
「世界記録……」
ちょうどその時、一台のカメラが偶然にもそのシーンを捕えていた。しかも音声まではっきりと。そして、その様子が会場のモニターをはじめ、オメガ国内外に同時に流れていることに、少なくともヴァージンは気が付かなかった。
そんなことに構わず、ヴァージンはさらに言葉を続けた。
「私、世界記録を何度も破るうちに気が付いたんです。その記録を打ち立てた者の力を上回れば、その記録を破ることができるということに。そう考えると、インドアでは、まだウォーレットさんの本気の力すら上回っていないって答えに、自然に行き着くんです」
ヴァージンは、はっきりとそう言った。その言葉が終わるや否や、ウォーレットは突然よろけるように、ヴァージンの胸に飛び込んできた。その体にこもった熱は、思ってもいないほど熱かった。
「グランフィールド……。あなたのほうが、ワールドレコードを持つにふさわしいアスリート……」
「ウォーレットさん……、私、負けたのに……」
「レースではあなたに勝ったけど、なんか今回初めてグランフィールドに意識で負けたような気がするし、いろんなことを教えてもらったような気がするの」
ウォーレットの熱いその体からは、時折汗とも涙とも言えぬような不思議な滴がスタジアムの床をぐっしょりと濡らしていた。ヴァージンの、全てを出し尽くしたその右足にも、床からわずかに反射した滴をはっきりと感じることができた。
「ウォーレットさん……。私、そんな大したこと言ってないのに……」
「いいの。グランフィールドのほうが十分大人なんだから」
そこまで言うと、ウォーレットは一歩、二歩とヴァージンの横を過ぎ去り、コーチと思しき人物の方へと向かっていった。最後に、こう言い捨てながら……。
「少なくとも、私は世界記録に懸ける想いで、グランフィールドと勝負はできないって思った」
それが、何を意味するか、ヴァージンははっきりと分からなかった。むろん、それは数ヵ月後のイーストブリッジ大学の入試会場で気が付くことになるものであったが。
翌日、セントリック・アカデミーにやってきたヴァージンを見た途端、マゼラウスが控室から駆け寄ってきた。
「ヴァージン、お前、ニュースを見たか!」
「見てないです……」
「なら、ネットでもいいからニュースを見ろ。お前の一言に、世界中から賞賛の声が上がってるぞ」
「称賛の声……、ですか……」
一瞬、言ってしまったと思ったヴァージンだったが、すぐに首を上げてロビーにあるパソコンへと急いだ。はやる気持ちを押え、ネットのニュースサイトへのボタンをヴァージンはクリックした。
――世界記録保持者、ヴァージン・グランフィールドに称賛の声!
世界記録は打ち立てた者の実力を上回ったときに、手にすることができる!
そう静かに言い切った、女子5000mの女王。
そこに、生涯世界記録を打ち破っていかんとする勇ましさを見た。
「ヴァージン、インタビューとかなかったはずなのに……、どこでそんな言葉が出てきた?」
モニターをじっと見つめるヴァージンを覗き込むように、マゼラウスが言った。するとヴァージンは、何度か首を横に振りながら、それでも何かを思い出すかのように言った。
「フッと、出てきただけです。あくまでも……、あれは……」
「あれは、どうしたんだ?」
「悔しかっただけです。あんな形で、自分もワールドレコードって言われるのが、悲しかったから……私は、自分の思う、世界記録とは何か、ということを言っちゃったんじゃないかなって思います」
ヴァージンは、時々声を詰まらせながらも、はっきりとした口調でマゼラウスに言った。
「そうか……。分かった。それが、お前の向上心だからな」
「そうですね」
「まだプロになって3年半。なのに、生涯記録を打ち破っていくと書かれるとは、お前ももう十分成長した証だ」
マゼラウスは、そう言うとヴァージンの手を握りしめて、大きくうなずいた。
「はい。私も、心の奥ではそう思ってます」
「なら、次の大会に向けて特訓だ!ウォーレットだって、お前の世界記録をいつ狙いに来るか分からないから、今のうちにアウトドアの記録をどんどん伸ばしてしまおうじゃないか!」
「もちろんです」
毎回、大会明けのトレーニングでは使い切った体力を回復するために軽めのトレーニングを心掛けていたが、この日のヴァージンは違った。インドアでの記録に手ごたえを感じた彼女は、この日からでも普段通りのトレーニングができるとさえ思っていたのだった。
「ただ、さすがに今日アウトドアのタイムトライアルをやるのはやめよう。さすがに、いくらお前の体力が有り余っていると言っても、体のリズムを崩しては元も子もないからな」
「コーチ……、やっぱり私が言い過ぎました」
「ははは」
ヴァージンの次の大会が4月のエンブレイム選手権での10000m走であり、その後「ワールド・ナンバーワン入試」があり、6月のアロンゾ選手権、そして世界競技会に挑んでいくスケジュールであることを、ヴァージンはその日のうちに代理人のガルディエールから電話で告げられた。ガルディエールからも、世界中で賞賛を浴びていることを褒められたヴァージンは、電話口で思わず声が裏返りかけるほどだった。
ウォーレットに目の前でインドアの世界記録を出されたとは言え、今や世界中にその名を知られることになった女子長距離走のスターは、いま輝きに満ちていた。