第17話 インドア・ナンバーワン(4)
アカデミーからそう遠くないこともあり、ヴァージンは1ヵ月余りの間にオメガセントラルの総合室内競技場に15回以上通っては、インドアでのタイムトライアルと、一度はその苦しみを味わったスピードアップトレーニングを集中的に行った。ヴァージンのタイムこそ、トレーニングでインドア自己ベストを更新するには至らなかったが、スピードアップトレーニングでのやり直しになる回数はみるみる減少していったのだ。
「まぁ、あのトレーニングは意識の問題だから、必ずしも毎回クリアすることもないけどな」
その場所での大会が明後日に迫った日、トレーニングが終わり、マゼラウスはヴァージンにやや小さい声で言った。
「それは、コーチの雰囲気で何となく分かりました」
ヴァージンは、大きく腕を上に伸ばし、両手を頭の上でがっしりと組み、再び口を開いた。
「でも、残りの距離と、自分のベストなスピードが、体で計算できるようになってきて、嬉しいです」
「そうか……。まぁ、レースの流れもあるだろうが、一番いいのはそれだからな」
「はい」
ヴァージンがそう大きくうなずくと、マゼラウスも首を縦に振る。
「いよいよ明後日、またウォーレットとの勝負だからな。期待しているぞ」
「はい。室内記録、絶対狙います」
真の「ワールド・ナンバーワン」になるためには、アウトドアだけではなくインドアでの世界記録もこの手に収めたい。ヴァージンは、右手の拳を力強く握りしめた。
「女子5000m、昨年来の宿命の対決が再びよみがえります!室内レコードのウォーレットと、ワールドレコードのグランフィールド、オメガセントラル室内選手権を制するのはどっちでしょう!」
会場の入り口に設置された巨大なビジョンでは、オメガ国内の大会ということもあり、盛大に二人のライバルを盛り立てていた。ロッカールームから集合場所へと向かうヴァージンの目にも、その映像がほんの少しだけ映り、二つ並んだ「女子長距離走のスター」の姿に、自然と目を細めた。
しかし、再び目を大きくしたとき、巨大ビジョンに映っていたはずの人物の姿が、真横から飛び込んできた。
「ウォーレットさん……!」
「グランフィールド。まさにビジョンから出てきたかのようなタイミングね」
一般入場者が立入可能なエリアで、まさに対峙した二人。一斉にカメラが向けられるが、二人とも全く気にせずに手をつないだ。
しかし、手をつないだ直後に、ウォーレットは小さな声でヴァージンに告げた。
「今年の夏、同じ大学に、同じ方法で入ろうとしているようね。グランフィールド」
(うそ……)
どこからその情報がチュータニア出身のウォーレットに漏れたのか、ヴァージンには心当たりがない。可能性としてあるのはフェアラン・スポーツエージェント内部で漏れた程度だ。しかし、それ以上にヴァージンが面食らったのは、同じイーストブリッジ大学に、全く同じ「ワールド・ナンバーワン入試」で入ろうとしていることだった。
勿論、同じ大学に入れば、ヴァージンとウォーレットはそこでも「宿敵」どうしの関係になる。だが、それ以前に、同じアピールポイントをひっさげてイーストブリッジ大学の入試に挑むことになるとは、少なくともヴァージンには全く想定外の展開と言ってよかった。
女子5000mで、ヴァージンとウォーレットが一つずつ手にしている、二つの世界記録。
ワールド・ナンバーワンを誇るには、双方ともにこのままでいいわけがなかった。
(この大会は、私のほうが記録へのチャレンジャーになる……)
ヴァージンは、ウォーレットの表情を見つめた。ヴァージンも気が付かないうちに、歯を食いしばっていた。
(この場所で、私はインドア記録を、ウォーレットさんから奪わなければいけない……!)
「ワールド・ナンバーワンを言うのなら、真のインドアのナンバーワンを決めようじゃない」
「えぇ……。今日、私は本気ですから」
やや遅れて、口に出して言ったウォーレットに対して、ヴァージンは短く言葉を返すだけだった。
やがて、直前の種目が終わり、一発勝負の女子5000mのライバルたちが200mトラックのスタートラインに並ぶ。ヴァージンとウォーレットは、ここでも隣同士のレーンに並ぶことになった。
(ウォーレットさんだって、本気そのもの。私と同じ入試を使うということを知って、先に本気になってるはず)
ヴァージンは意識して、最大のライバルの顔はその場所から見ないことにした。代わりに、自らの前に立ったカメラに向かって、両手を大きく振り、自らがアウトドアでの世界記録を持っていることを力強くアピールした。
アメジスタカラーのレーシングトップスが、盛り上がる競技場の歓声でかすかに揺れる。
(ここで、私は何度もタイムとスピードをトレーニングしてきた。ここで、負けるわけにはいかない……!)
「On Your Marks……」
トレーニングの時のような、マゼラウスの強い口調ではなく、短く滑らかなスターターの声が耳に響く。そこで初めて、ヴァージンはウォーレットの表情を見て、すぐに顔を正面に戻した。
(よし……!)
スタートを告げる号砲が鳴る。ヴァージンの足が、トレーニングで慣らしたように、ややゆったりとしたスピードで前に出る。200mトラック1周を38秒で回りきるテンポが、彼女の最初のスピードだった。
しかし、その横をウォーレットは残像すら残さず、一気にヴァージンの前に立った。すぐに迫ってきたカーブでも、ウォーレットは一気にスピードを上げていく。
(これは、1周35~36秒ぐらいのペースかも知れない……)
ヴァージンは、一気に背中が小さくなるウォーレットをじっと睨み、最初の1周が終わりを告げる直線へと入った途端、体の重心を前に傾けようとした。
――ペースを乱すな!だから、タイムを維持できなくなったんだろ。
マゼラウスが、何度目かの失敗の時にヴァージンに告げた言葉が、脳裏に浮かんできた。テンポを急激にあげそうになったヴァージンは、ほんの少しテンポを速くしただけで、思いとどまったように気持ちを落ち着かせた。200mトラックでは、すぐコーナーに入りスピードを維持させなければならないということもあったが、ヴァージンの意識は、イレギュラーな勝負よりも自分自身の走りを優先することに傾いていた。
(意識してスピードを上げていけば、私は最後にはライバル全てを追い抜くだけの自信がある!)
ヴァージンは、そう誓った。
10周が過ぎ、ヴァージンはゴールライン真横にある記録計に目をやった。6分08秒と表示されているように見えた。スピードアップトレーニングの時、詳細なタイムまで何度かヴァージンは見てきたが、それよりもやや速いペースだった。
(本番になると、意識してもタイムはやっぱりよくなってくる……)
スタートダッシュで先頭に立ったウォーレットは、依然としてヴァージンの前に立ってレースを引っ張っている。だが、少しずつヴァージンがスピードを上げているため、徐々にではあるがその差が詰まってきているように見える。最も広がった時にはコーナーの両端まで差をつけていたのが、この時には30m程度の差だった。
(タイムにして、だいたい5秒ぐらい……。2000m~4000mを、1周34秒くらいのペースで維持してみよう)
ヴァージンは、スピードを意識しながらも、ここから少しずつウォーレットとの差を狭めようとした。トレーニングではギアを上げるのはスパートの時だけにしていたが、ここで一度だけギアチェンジをし、一気に加速してそこからスピードを維持する作戦だ。そうすれば、次の5周、3000m経過までにウォーレットの背後にぴったりとつくことができれば、最後は得意のスパートで余裕をもって打ち勝つことができるはず。ヴァージンは、そう計算した。
だが、ギアチェンジの鼓動は、ウォーレットにもはっきりと伝わった。ヴァージンとの差が10mを切るまでに迫ってくると、ウォーレットのストライドが途端に大きくなった。ヴァージンが見た感じ、一周34秒前後のスピードまで加速している。こうなると、1周34秒ほどに設定したヴァージンのスピードでは、なかなか差が縮まらない。
(相手も、完全に私を意識している。最後の勝負に賭けるしかない)
一度上げたギアを、ヴァージンは維持しようと意識してしまう。コーナーの度に体をひねらせ、できるだけペースを乱さないように意識する。だが、彼女の目から見えるウォーレットの走りは、至って自然で、何も気にせず、自在にスピードを操っているように見える。
そして、4000mを11分57秒ほどで駆け抜けた後、ヴァージンはもう一度徐々にスピードを上げ、最後1周の勝負までに差を詰めようとする。だが、そこでもウォーレットの行動が同じで、33秒、32秒と1周のペースが上がっていく。
(もう、リミットを外すしかない!)
普段は23周目を過ぎ、残り400mを切ったところでかけているスパートを、ヴァージンは残り700mほどのところからかけた。10~15mほど離れたライバルの背中を、ヴァージンの力強い足は懸命に追いかけた。
屋内よりも速い、ワールドレコードを持つ身として……。
だが、ヴァージンがウォーレットを抜き去ろうとしたとき、ヴァージンの目の前に飛び込んできたのは、ライバルの横顔ではなく、ゴールテープを通り過ぎようとするウォーレットの姿だった。
「……っ!」




