第17話 インドア・ナンバーワン(3)
これまで何度となく力強い走りを見せてきたはずのトラックの上で、世界記録をその足に輝かせるヴァージンは力尽き、倒れていた。12回の「挑戦」でヴァージンが走り続けてきた距離は、トラック163周。距離にして32.6kmになり、インターバルこそあったが、ともすればフルマラソンに匹敵するエネルギーを使い果たしたことになる。
そんな距離を1日で走ったことは、トップアスリートのヴァージンであったとしても、あるはずがなかった。
しかし、コーチのマゼラウスは、ぐったりと倒れこむヴァージンを真上から見下ろす位置に立ち、言った。
「本当に、ギブアップか?」
「……はい」
「ギブアップ……。ヴァージン・グランフィールドは、その程度の力だったのか……」
(コーチ……)
これまで、叱られた時以外にほとんど聞いたことのないセリフが、ヴァージンの耳をうるさいほど叩き付ける。彼女のその目には、汗でぐっしょりとなった額を洗い流すかのような大粒の涙が、一滴零れ落ちた。
「立て。そして、泣くな。私は怒ってなんかいない」
「本当ですか……?」
フラフラになったその足で、ヴァージンはトラックを再び踏みしめた。彼女の痛む両足に、これ以上地面を蹴る力はなかった。
「ヴァージン」
立ち尽くすヴァージンの肩を、マゼラウスは両手で持った。二人の目線が、ちょうど一直線になる。
「はい……」
「まだお前は、終わってなんかない。このトレーニングを終わりにしては、いけない。分かってるか」
「分かってます……」
「なら、ギブアップよりも、いい言葉があるはずだ!人間として成長したお前なら、きっと言えるはずだ」
マゼラウスは、そこまできっぱりと言い切った。これまで3年半の間で、この時マゼラウスが何と言ったのか、ヴァージンはその目の先に何度となく思い浮かべてみせた。
そして、一度だけうなずいて、弱弱しい声で言った。
「明日、もう一度挑戦させてください。できるまで……、何度でも……」
ヴァージンは、マゼラウスの目をじっと見る。あの時のように、拳で殴ろうとしてはいないことだけは、彼の潤んだ目からはっきりと分かった。
(まだ……、25周……、5000mを走りきれてない!)
必要もなく祈るような時間が、しばらくの間続いた。全ての音が壁や天井に反射しなくなったとき、マゼラウスの口がようやく沈黙を破った。笑った。
「お前の意志がそう言うのなら、明日もこのメニューを続けよう」
「コーチ……。さっきは、すいませんでした……」
「そんなことない。私だって……、時には本気でお前を鍛えたいからな」
そう言うと、マゼラウスはヴァージンの手を握り、ゆっくりと出口に向けて歩き出し、再び口を開いた。
「私もな、インドアでのタイムに苦しんでいた。そういうとき、当時私のコーチをしていたジェームズが、お前に課したような5000mのスピードアップトレーニングを、私に教えてくれた」
「コーチは、どうだったんですか?」
「私か?挑戦30回以上したと思う……。しかも、最後は最初の1周が40秒すれすれで、タイムが15分台という男子にしてはひどいタイムでクリアしたからな……」
「そうだったんですか……」
ヴァージンは、マゼラウスの目を見る。おそらく、この「死の」トレーニングからもう何十年も経過している体には、それでもその時に叩き込まれた記憶が刻み込まれていた。彼の目が、その光景を思い出そうとしている。
「だからな、1回とか2回とかでクリアされたら、もうヴァージンの手には負えないと思っていた。ただ……」
「ただ……、どうしたんですか?」
「ただな……、これまで何人か教え子にこれを試してみたが、初日で22周目までクリアできたのは、ヴァージンが初めてだ。ただでさえ、私の教え子で最も実力のあるお前に、私の挑戦回数30回は軽く破られそうな気がしていた」
そう言うと、マゼラウスは深いため息をついた。ヴァージンもその横で一緒になって、ため息をついた。そのため息には、不思議と力がこもっていた。
大会やその他のイベントなどで、オメガセントラル市内の総合室内競技場を毎日借りるわけにはいなかったが、幸いにしてあと2日はヴァージンのために使わせてくれることになった。
(今日こそ……!)
翌日、5000mのスピードアップトレーニングが始まる前、ヴァージンの表情には適度な緊張と、前日の自らの全ての走りを叩きこんでいるかのような自信に満ち溢れていた。
「挑戦13回目!On Your Marks……」
号砲を手に持ったマゼラウスが、祈るような表情でヴァージンを見つめている。それを横目で見たヴァージンの手が、熱くなる。
(よし!)
号砲が鳴る。ヴァージンは、まず思い切り足を伸ばさず、普段意識している「400m75~76秒のペース」を意識しながら適度なスピードでコーナーに差し掛かる。
その時、ヴァージンは自らの体に力が入っていることに気が付いた。
(……なんか、コーナーを意識できるようになった気がする!)
スピードが緩やかに落ちていかない。意識したスピードで、自然とコーナーをクリアできるようになっていた。前日、300回以上もコーナーに挑んだその体の感触は、1日経ってもはっきりと刻み込まれていた。
「1周目、38秒24!まずまずのスタートじゃないか!」
マゼラウスの声援が、ヴァージンの耳に届く。その時には、既に新たなるコーナーに差し掛かっていたヴァージンは、そこで再びスピードを落とさぬように体に重心をかけた。
コーナーではスピードを維持し、直線に入ったら少しだけスピードを上げる。コーナーで無理してスピードを調節する走りでもなく、そしてこれまでの数多くのレースで見せてきたパフォーマンスとも違う、新たな走り方が、徐々にその威力を発揮してきたようにヴァージンには思えた。
「10周目、36秒29!いいぞいいぞ!」
だが、この頃にはマゼラウスの声もタイム以外はほとんどヴァージンの耳に届かなくなっていた。ヴァージンは、自らのパフォーマンスだけに集中していた。あまりスピードを上げすぎず、そうかと言ってコーナーでスピードを落とすことなく、1周、また1周と周回を重ねていった。
目の前にライバルがいようが、この状態のヴァージンにはほとんど眼中になかった。真剣に走るのみだ。
「15周目、35秒38!」
「20周目、34秒12!」
ここでヴァージンは首を軽く横に振った。いける、と思った。まだ足は全力で走れるだけの余力を残している。
(あと少しで、いつものように勝負を懸ける……!)
もう何度クリアしたか分からないコーナーを通り抜け、ヴァージンは徐々にペースを上げていく。
「23周目、33秒49!」
(スパート!)
これまでヴァージンを締め付けていた「ルールという名のリミッター」は、残り400mで何事もなかったかのように外れた。レースで何度も見せつけたトップスピードを、四方を壁に閉ざされたインドアトラックの中でも、ヴァージンは存分に見せつける。
無我夢中でスパートするヴァージンに、きついコーナーなど敵ではなかった。
そして……。
「25周目、29秒28!クリア!」
(やった……!)
ヴァージンは、全力を出し切ったかのようにその場で倒れた。倒れ方は、前日ギブアップを告げた時と全く同じだったが、彼女のその表情はすがすがしさに満ちていた。
「ハァッ……、ハァツ……。コーチ、何とかやってみせました……!」
「よかったじゃないか、ヴァージン!13回目でクリアなんて、私をはるかに上回っているじゃないか」
「ありがとうございます……。こんな試練を、私に……」
ヴァージンの右手が、彼女を見下ろすマゼラウスのほうにゆっくりと伸びていく。マゼラウスは、その汗だくの手を優しく握りしめ、そのまま中腰になり、まるで世界記録を出した後のように優しい表情で見つめた。
「ヴァージン、よくやった。本当によくやった……」
「ありがとうございます……。ちなみに、タイムは……どんな感じですか?」
いつものように、ヴァージンはマゼラウスにタイムを聞き出す。すると、マゼラウスはストップウォッチを見せて、優しい表情を変えることなく言った。
「14分45秒27。去年のインドアから比べたら、上出来だよ」
「……まだ、世界記録には届かないのですね」
「まだ取り入れたばかりのトレーニングだ。本番じゃない。ただ、この走りを意識すれば、きっとタイムは安定してくるはずだ」
やや残念がる表情を浮かべたヴァージンに、マゼラウスはこう告げた。その言葉で、ヴァージンは一度だけ首を縦に振った。
「勿論、アウトドアのトレーニングでもこれを意識します」
「そうそう、それが重要だ。一度ついてしまった癖を直すのは、はっきりとした意識がない限り難しいからな」
二人はやがて、トラックの上で手をつなぎ、遠くにいるウォーレットの姿を想像した。
インドアでの頂点を懸けた戦いの日まで、あと少しだった。
しかし、本番を前にして、またしてもウォーレットから重大な言葉が告げられるとは、この時のヴァージンは思っていなかった。