第2話 誰もヴァージンの未来に力を貸さない(4)
「渡航費用……、行くだけで600リア?」
ヴァージンは、ジョージの口から告げられた金額に唖然とした。600リアと言えば、先程路地裏でもらいかけた札束の額をゆうに超えている。
「そうだ。オメガに行くだけで、それだけのお金がかかってしまう」
「そんな……」
ヴァージンは、大の苦手な数学力を駆使して、自分の夢を叶えるために必要な金額を計算した。ジュニア大会に参加するための費用が200リアと雑誌に書いてあったので、たった1回の大会に出るために1400リアも持って行かなきゃいけないという事実に、少し考えて気が付いた。
「行って、走って、帰ってくるまでに、少なくとも1400リア……。きっと、向こうでの生活を考えたら2000リアぐらい持っていかないといけない……」
「だから言ったんだよ。そんな大金がどこにあるのかと」
ヴァージンは、「ワールド・ウィメンズ・アスリート」を父の手に戻して、ジョージに背を向けた。背筋を伸ばし、お金を貸してくれそうな心の優しい人を全くの一般人から探そうとした。しかし、全くの無名の小さいアスリートに、手を差し伸べようとする人はいなかった。
「もういいだろ、ヴァージン。2000リアなんてお金は、誰も出してくれない」
「……違う。……こんなの違う」
ヴァージンは、通りの真ん中まで出て、ブライトンハウスの会社案内の余白ページにサインペンで文字を書き殴った。
――私を、オメガの陸上大会に出させてください!2000リア!
「バカッ!恥ずかしいだろ!」
ヴァージンが、道の真ん中で右手を高く上げた瞬間、ジョージは彼女の右手を激しくつかみ取り、愚行とも言える娘の行為を厳しく律した。
「何をするの、父さん!」
「こっちが言いたい!」
ジョージは、ヴァージンの腕を引っ張り、彼女の体を通りから路地裏へと引き込ませた。ヴァージンは、プラカードを手にしたまま、お願いします、と叫ぶしかなかった。
「アメジスタで普通に働く人の年収以上のお金を、しかもアスリートになろうというお前に出す奴なんていない!何という諦めの悪い娘だ!」
「……ごめんなさい」
「何がごめんなさいだ?16歳にもなって、それが迷惑なことと分からないって、私はどうお前を育てたんだ」
「……はい」
ヴァージンは、ガックリと首を垂れたままジョージの表情を見ることができなかった。しかし、しばらく沈黙の時間が続いたその時、ジョージの真後ろで、路地裏に住む一人の青年が立ち上がり、頬に手を当てて力強く言った。
「今日、その夢をみんなの前で言えばいいじゃん!夢語りの広場!勇気を出して、その夢を言えば、同じアメジスタの誰かが、きっと手を差し伸べてくれるよ」
(……えっ?)
ヴァージンは、落ち込んだ表情のまま青年の顔を見た。先程出会ったバスケットの青年とは違い、彼は見た感じ元アスリートとは思えない弱々しい体つきだった。
「ほら、たぶん時間的に、いま聖堂前で夢語りの広場が開かれてるって!」
「……ありがとう」
そう言うと、ヴァージンは冷え切った心のフィールドに再び熱い火を灯しかけた。一度うなずくと、ジョージの吊り上った目をまじまじと見つめた。
「私、アメジスタのみんなに、夢を信じてもらう」
「……行くのか?」
「行く。誰かきっと、信じてくれるから」
ヴァージンはそう言うと、ジョージの視線を振り切るように体を後ろに向けて、大股で通りに出た。そして、数年前の記憶を辿って、聖堂を目指した。
夢語りの広場。それは、毎週日曜日の午後に開かれている、全てのアメジスタ国民に開かれた助け合いの場だ。貧しい国で、そしてほとんどの人が生活も貧しいからこそ、どんな些細な夢や希望を持っている人を称え、助け合っていく。そんな場である。
勿論、この場所から希望を叶えた人は少ない。毎週のように非現実的な夢を語っては「またお前かよ」と突っ返される人もいる。けれど、人は貧しいアメジスタ国民に自分の夢を信じてもらうために、そこに立つのである。
「続いて、この場所に立ちたい人はいるかな?」
眼鏡をかけた小太りの紳士が右手を高く上げて、夢や希望を持っている人を探す。会も終わりに近づいたのか、手を挙げる人はいない。その声と同時に広場に辿り着いたヴァージンは、初めてのイベントに何が起こっているのか全く分からず、ただ前の老婆と同じように右手を高く振り上げた。
「お、今日は珍しく少女もこの場所に来てくれてるんだ。じゃあ、君の夢を語ってもらおう」
「はい」
ヴァージンは、人々の輪の外を小走りに回り込んで、駆け上がるように壇上に登った。学校でクラスの生徒を前に発表するときよりもはるかに多い人数がヴァージンの顔を真剣に見つめていた。
遠くには、険しい表情で見つめる父の姿があった。ヴァージンは、息を飲み込む。
(よし……)
「私は、ヴァージン・グランフィールドと言います。田舎暮らしの16歳、夢は陸上の選手です」
そこまで言って、ヴァージンは思わず視線を左下に移した。生い立ちやら陸上部の成績を抜きにして、このタイミングで夢を言い切ってしまったことに、恥ずかしささえ感じた。
ほぼ同時に、前側で膝を抱えて彼女の声を聞いていた観客たちが、口々に声を上げる。
「陸上?バカか!」
「帰れ、帰れ!」
ジョージの口から何度となく聞かされた言葉が、次々とヴァージンを襲う。それでも、ヴァージンは軽くうなずいて、再び観客に語りかけた。
「私は、学校の陸上部で、もう誰も相手にならないくらい、5000mを走るのが速いんです。そして、私の自己ベスト、15分15秒は世界の同年代のライバルの中でも、かなり速い方だって、雑誌に……、書いてあったんです」
ヴァージンの声は、徐々に深みを増していく。目の前から飛び出すヤジに聞こえないふりをして、彼女はさらに言葉を続けた。
「だから私は、今年の7月に開かれる、世界ジュニア陸上大会で、自分の力を試したいんです!そのためには、オメガに行って、走って、そして帰ってくるまでの間に……2000リア必要なんです」
ヴァージンは、首を下に垂れ、先程急いで書いたプラカードを前に突き出した。
「世界を相手に戦いたいんです!お願いします!」
(……2000リア!)
しかし、次に彼女の前に現れたのは、札束ではなく、さらに輪をかけた冷たい言葉だった。
「くだらねぇ!アスリートなんて」
「この国で、これまで何百人もの選手が恥をかいたか分かってるんか!」
「お前な、アメジスタでアスリートを目指すことそのものが、恥なんだよ!」
「世界で戦うなんて!君にアメジスタの国旗は重すぎる!きっと、世界に行って沈むだけだ!」
(怖い……。こんなの初めて……)
ヴァージンは、何度となく耳を塞ぎかけようとした。これまで、同じ自然や同じ環境の中で共に一日一日を過ごしてきたアメジスタの人々が、自分のアスリートになりたい夢を語っただけで、一人残らず反旗を翻す光景を彼女は信じることができなかった。
夢が、風に乗ってどこかに飛んでいく。ヴァージンの脳裏に、一瞬だけその幻覚が見えた。
「……っ!」
ヴァージンの目の前が、突然真っ白になった。プラカードを掲げたまま首を垂れているはずなのに、人もプラカードも見えない。無意識に目を閉じてしまったことに気が付くまでに、数十秒かかった。
(あれ……?)
意識を取り戻した瞬間、白い光の中から、彼女の見慣れた人物がたくさん飛び出してきた。それは、一度も生身の体を見たことのない、「ワールド・ウィメンズ・アスリート」で見かけるたくさんのライバルたちの写真だった。
時折、ヴァージンを手招きしている。自己ベストを考えれば、十分その世界で戦える、と。
(もし、私がここで何も返せなかったら……、みんなを打ち負かすことも……、できない)
「そんなのおかしい!単なる偏見だと思います!」
ヴァージンは、激しく首を横に振った。目を開くと、もはや言葉を言えなくなった観客たちの唖然とした表情が、彼女の視界に広がっていた。
「たしかに……、アメジスタから出たアスリートは、一人残らず、世界のレベルに遠く及ばず、散っていきました。アメジスタではアスリートは育たない、って何度も言われているし……、アスリートに希望を持てないって、みんな諦めているのも事実です」
ヴァージンは、いつの間にか右手で支えていたプラカードを下ろし、左手を右の胸に軽く当てた。遠くで揺れる、赤と金とダークブルーのラインで彩られたアメジスタ国旗が、まるでライバルたちの走りのように激しく舞っていた。
「……でも、私ならそれを覆すことができるかも知れない!アスリートが生まれないなんて現実を、跳ね返すことができるかも知れない!私は、常にそう思ってます」
ヴァージンの耳には、まだ冷たい言葉が返ってこない。代わって、温かみのある視線が彼女を見つめている。
「もうこれ以上、アメジスタを弱いなんて言わせない。……私は、世界一貧しいアメジスタの全てを背負って、世界を相手に戦いたいんです!」
そこまで強く言うつもりではなかったはずの言葉が、次々と締め付けられる胸から飛び出し、最後はヴァージンも自分の叫んだ言葉に涙を見せ始めた。体は震えていた。
(……お願いします!)
「1回だけなら、君の挑戦に力を貸すよ!」
「こんな意志の強い少女、もしかしたらやってくれるかもしれない!」
「そうだよ!一度も世界で戦えないまま、この子をアスリートの道から引き離すなんておかしいよ!」
最前列に座っていた何人かの青年が、狂ったように立ち上がった。そして、次々と1リア札を司会の抱える箱に入れていく。その様子に、最初にヤジを言い出した渋めの男性が一気に100リア束を中に入れていった。まだ目標額には程遠いが、次々と力を貸す人が増えていく。
そして、募金の列が絶えると司会は言った。
「2000リアの残り、私が出す」
「えっ……、本当ですか?」
「本当だ」
一人で1000リア程度の負担になりそうなことに罪悪感すら覚えたヴァージンは、思わず口を大きく開けて、笑みを見せた。これまでほとんどの人に、アスリートの夢を貶され続けたヴァージンを、今日だけは優しい太陽の光になってくれているアメジスタ国民が見つめていた。
「……ただし、その1回だけだ。もしジュニア大会で世界に認められなければ、アスリートの夢を捨てろ。それだけの覚悟を君が背負えるのなら、私は力を貸そう」
「……勿論です」
そう言うと、ヴァージンは思わず「夢語りの広場」の司会の手を取り、強く握手を交わした。
それは、ヴァージン・グランフィールドが世界のトップアスリートに成長する、最初の一歩だった。