雪の映画館
まばたきをしたら、自分がどこにいるのかわからなくなる。
そんな不思議な事が起こったとしたら、それはあっと驚く素敵なファンタジーの始まりであることもあるが、多くの場合いつの間にかうたた寝をしていた時だ。
焦点が定まり始め、天井の木目が質感を帯びてくる。美郷はゆっくりと身体を起こし、スローモーションのように首を回し辺りを見渡す。また、炬燵で寝入ってしまったようだ。窓の外は既に暗く、庭の木が暗闇にぼんやりと浮かんで見える。見慣れた栗の木だが、こうして暗闇に佇む姿は何か得体の知れない怪物のようで、気味が悪い、と思わず口に出しそうになった。
壁にかかっている時計を見上げれば、時刻は午後10時を少し過ぎた頃だった。
ふと自分の体に視線を落とし、部活のユニフォーム姿であったことを思い出す。思わず溜め息が漏れた。
今日は前日に降った雪の積もるグラウンドで練習をして、疲れきっている。その上帰りには2日ほど前から熱を出して寝込んでいる浩輝の見舞いに彼の自宅にも立ち寄った。まだ熱は下がらないらしく、こめかみに汗を滲ませる彼の姿はひどく弱々しく見えた。
炬燵で寝ていては自分まで風邪をひきそうだと思い、覚悟を決めて炬燵から出ると風呂場へ向かう。着ているものを荒っぽく脱ぎ捨ててシャワーを浴びる。疲れを癒すには湯船に浸かるのが一番と分かっていながら、ついつい億劫でシャワーだけで済ませてしまうのである。
「全く浩輝のやつ、こんなときに風邪なんか…。」
つい恨み言まで呟いた。
学校は冬休みに入り、体育会系の部活のほうも明日から1週間のオフになる。それを利用して、明日は浩輝と映画を観に行こうと約束していたのだが…。
どうやらあの様子では無理そうだ、と美郷は小さくかぶりを振った。また溜め息が出た。部活動に明け暮れる高校生にとって、デートの時間を確保することは一仕事だ。お互いの予定の調節ももちろんだが、次の日に部活のあるときなどは翌日に疲れを残さぬようなデートをしなくてはならない。ましてこのような田舎の町では近くに娯楽施設などなく、映画ですら山を降りて市の中心部まで出向かなくてはならないのだ。
両親が幼いときからあったというその映画館は、カップルのデートスポットとしても、また子供たちのエンターテイメントの場としても貴重な所で、この辺りの子供や若者は足繁く通う場所である。美郷が中学生の時に「しねまてぃっく・すてら」という名前に変わったが、高校生や大人たちは今でも「北陵劇場」というかつての名前で呼んでいる。
初めて北陵へ行ったのはいつだったか。
確か、浩輝と一緒に行ったのが小学校3年生の時で、おそらくそれが最初であったはずだ。
「美郷、ビーストハンター、見に行こうぜ!」小学校からの帰り道、浩輝はそう言ってポケットから映画のチケットを取り出した。
ビーストハンターというのは子供たちの間で絶大な人気を誇っているアニメで、毎週金曜日の夕方に放送されるのを、美郷もいつも楽しみにしている。主人公は世界中を旅しながらビーストと呼ばれる生き物を集め、他のハンターたちとビーストを闘わせ合って強くなっていく。カードゲームや家庭用ゲームにもなっていて、先月劇場版が公開されるや全国の映画館の観客動員記録を次々に更新して社会現象とまで言われるようになった。
美郷も映画の事が気になっていたので、二つ返事でOKした。
「よくチケット買えたなあ、すげー人気だろ。」
「母ちゃんの知り合いが北陵で働いててさ、くれたみたいなんだよね。で、母ちゃん、お前と行ってこいって。」
そう言って浩輝は手袋をはめた美郷の手にチケットを握らせた。
「さっすがおばちゃん、わかってる。」
美郷は目を輝かせた。
家に帰ってランドセルを置き、家を出ようとすると丁度母親が買い物から帰ってきたらしく、慌ただしく靴を履く美郷に言った。
「美郷、出かけるの。」
「浩輝とビーストハンター見てくる。」
「北陵まで行くの。今日は夕方から雪が降るっていうから、あんまり遅くならないように帰ってきなさいよ。」
ほーい、と適当に返事をし、美郷は自転車で浩輝の家へと向かった。
彼は丁度自転車を押して門を出てくるところだった。
「よーし、レッツ、ゴー!」
美郷が先を行き、浩輝が後からそれを追うようにして坂道を下っていく。
積もった雪が残る坂道を自転車で一気に下るのは、まるで悪路を走行するモトクロス競技のようでスリリングだ。冬の冷たい空気が頬を打ち、手袋をしていても手が凍り付くようである。途中何度もバランスを崩しそうになりながらも、二人は山の麓まで降りてきた。賑やかな市街地はもうすぐそこだ。
二人の住んでいる町内と比べると、ここはずいぶんと都会に見える。店は多いし、駅もあるし、一度だけ親に連れられて行ったことのあるボーリング場もここにある。
道に積もった雪は綺麗に除雪されていて、ずいぶん遠くへ来たような気になった。
北陵劇場は多くの人で賑わっていた。スクリーンは一つしかなく、日によって上映される映画は違う。つまり今日ここにいる人たちは、皆ビーストハンターを見に来ているということだ。
チケットを買い求める人々の列を横目に、浩輝と美郷は係の職員にチケットを見せ、一足早く館内に入った。少しばかりの優越感だ。「ひろーい。」
初めて入った北陵劇場の広さに、美郷は目を丸くした。テレビでしか見たことのない豪華なシャンデリアや、洋館風の造りが新鮮だった。
「浩輝は、ここ前もきたことある?」
「父ちゃんと車で来た。でも結構前。」
二人は劇場の奥へと歩いて向かった。
途中、ポップコーンと映画の案内パンフレットを買ってスクリーンのあるシアタールームへ入った。中は薄暗く、客席には既に何人かが座っていた。彼らのチケットにはG-7と書かれていて、二人は入り口で係員に言われた通りその番号の席に座った。
「まだ、30分以上あるぜ。」
客席後方にある時計を見て、浩輝が待ちきれないといった様子で言った。
「早く始まんねーかな。ポップコーン全部食っちゃうな。」
美郷もポップコーンを頬張りながら応える。
ひとつ、またひとつと席が埋まっていき、上演開始時間になる頃には立ち見の観客も合わせてシアタールームは満員になった。小学生くらいの子供の姿が目立つ。今日早帰りなのはうちの学校だけではなかったのか、などと考えているうちに、室内にブザーの音が鳴り響いたかと思うと照明がふっと消え、暗闇に包まれた。
辺りはしばらく人の話声でざわざわしていたが、映画が始まると一転して皆食い入るようにスクリーンを見つめていた。映画はとてもおもしろく、ビースト同士の戦闘シーンでは他の子どもたちと一緒になって贔屓のビーストを応援したりもした。映画がクライマックスを迎えた頃、美郷は隣の席に座っている中年の男性をちらりと見た。作業着姿で、見るからに腕っ節が強そうな男性は映画の間中ずっと煙草をふかしていたのだが、どうも映画を真剣に見ている様子はない。他の客席をチラチラと見渡しながら、時折美郷と浩輝の方を見たりもしていた。
美郷は、このおじさんもビーストハンター見るんだ、とは思ったが、特に気に留める事もなかった。映画がいいところだったので、他人などどうでもよかったのである。
映画が終わりエンディング・テーマが流れ始めると、観客たちは一斉に立ち上がり出口へ向かい始めた。
「俺たちも行こうか。」
そう言って立ち上がろうとした浩輝を、美郷は左手で制した。
「今行ってもめっちゃ混んでるぜ。エンディング見てからでいいよ。」
美郷がそう言うと、浩輝はそうだね、と言って再び腰を下ろした。隣の男性はいつの間にか席を立ったようで、彼らの席のある列に残っているのは美郷と浩輝の二人だけだった。
「いやー、リオン強かったなー!」
「だな!でもやっぱり最後に勝つのはエレキラットだよな。」
二人は出口が空くまで座席に座って話していた。やがてエンディングも終わり、照明が灯ると二人は頃合いを見計らって席を立った。
「うげっ!」
「やっべー!」
シアタールームを出た二人は、窓の外を見て思わず声を上げた。窓の外は一面の銀世界という陳腐な表現が嫌というほどしっくりくるような大雪になっていたのだ。吹雪と言った方が正しいかもしれない。
― 只今大雪となっておりますので、お帰りの際は十分ご注意を…
係員がメガホンで注意を促す中、人々は小走りでそれぞれの車を目指して駐車場へと向かっている。
「こりゃあ、当分止みそうにないな。」
窓の外の雪を見つめながら、美郷は呆然として呟くように言った。浩輝はそれには答えなかったが、同じように窓の外を見つめながら目を見開いている。
「雪になるってそういや母さん言ってたけど…」
まさかこんな吹雪になるとは。
時計は午後5時を指していた。6時の市の帰宅のチャイムが鳴るまでに止むとはとても思えなかった。
「そうだ、親に電話して迎えに来てもらおうぜ。」
浩輝が言った。
名案だ、と美郷は思った。二人は人混みをすり抜けるようにして公衆電話の案内表示に従い、映画館の一角へと急いだ。
しかし、一つしか設置されていない公衆電話の前には同じように迎えを呼ぶ人たちの長蛇の列ができ、それはどこまでも続いていた。
「こりゃ、ダメだ。」
二人はがっくりと肩を落とし、出口の方へと戻った。
吹き荒れる真っ白な雪を見ながらどうしようかとあれこれ考えていると、突然背後から声がかかった。
「ボウズたち、どうした、帰れねえのか。」
美郷と浩輝が同時に振り向くと、さっき隣の席で煙草を吸っていた男性が前かがみになってこちらを覗き込んでいた。
「あれ、おじさんさっきの…」
美郷が言うと、男性はおや、という表情をしてからはっと気づき、となりに座ってた子たちか、と言って姿勢を起こした。その身長は高く、美郷の父よりもいくぶんか背が高いように見えた。
「家は遠いんか。」
彼は優しい口調で、二人に尋ねた。
二人が無言でうなずき、山の方を指さして住んでいる町名を告げると、男性はおお、あのへんか、と言って二人にこんなことを言った。
「おじさん、これから仕事で東間の方まで行くんだ。途中で降ろしてあげるから、車に乗って行けよ。」
彼はそう言って車のキーを見せたが、明らかにためらっている様子の二人を見て、白髪の混じった頭を掻いた。
「ま、そりゃそうか。知らねえおじさんにいきなりそんな事言われてもなあ。」
どうする、と浩輝が美郷に耳打ちすると、彼女は
「でもこのままじゃどうせ帰れないぜ。」
と言った。どうやら彼女は男性の申し出を受けるつもりのようだ。浩輝はしばしの間考えていたようだったが、やがて男性の方を向いて、言った。
「じゃあ、乗せてってよ、おじさん。」
男性は嬉しそうに、そうか、と言って出口へ向かった。
「ついて来な。」
映画館の建物を一歩出ると、ものすごい寒さだった。数メートル先も見えないというのはまさにこういう状態である。美郷たちの身体では風に抗えず飛ばされかねないような猛吹雪だった。男性はジャケットの中に二人を包み込み、両脇に抱えるようにして車へと向かっていった。美郷も浩輝も、父親に寄り添われているような心強さを感じ、彼らの不安はいつの間にか吹雪に飛ばされて見えなくなっていた。
男性の車は大型のダンプトラックで、車体には様々な装飾が施され、荷台には深紅の昇り龍が描かれていた。
助手席に乗せられた浩輝が、あっ、と言って美郷の方を見た。
「ん、どうした。」
それに気付いた男性は何事かと手を止め、二人を見る。
「自転車…」
浩輝が指さす方を見ると、雪に半ば埋もれかかった二人の自転車が見えた。美郷もようやく気付き、男性にその事を伝えると、彼は
「よっしゃ、待っとけ。」
と言って再び吹雪の駐車場へと降りて行った。二人が車内から見守る中彼は自転車を軽々と抱え上げ、それをトラックの荷台に乗せると
「おー寒い。」
と言って運転席に飛び乗り、両手をこすり合わせた。二人のありがとう、という言葉に男性はニカっと笑って答えると、エンジンをかけた。
トラックは吹雪の中を山の中腹目指して走り出した。男性は慎重に運転しているようだったが、そのスピードは自転車とは比べ物にならない。つくづく運が良かったと、美郷たちは胸を撫で下ろした。雑音だらけのラジオを切って、男性が口を開いた。
「ボウズたちは、何年生だ。」
「3年です。もうすぐ、4年。」
「学校、楽しいか。」
二人と話しているあいだ、男性はとても楽しそうに見えた。その後も彼は二人にあれこれと、とても些細な質問を繰り返した。ワイパーが追いつかないほどの吹雪だが、車内は暖房が効いてとても暖かい。美郷は、今度は自分から男性に質問をぶつけた。
「おじさんは、子供いるの。」
男性は目を少し細めて、答えた。
「いるよ。でも、もういない。」
美郷は一瞬その意味が分からなかったが、小学校3年生くらいになればそういった言い回しにも少しずつ慣れてくる。彼女は、ああ、そういうことか、と思い、聞いてはいけない事を聞いてしまったような思いがして、身を縮めた。
「もういないって、どういうこと?」
浩輝がいぶかしげな表情で尋ねた。なんて無神経さだ、と美郷は無言で浩輝を睨みつけたが、浩輝はわけがわからないと言った様子で美郷と男性を交互に見る。
「わかんねえか。」
男性は笑いながら煙草に火をつけ、吸い込んだ煙をゆっくりと吐き出すと、先ほどよりも優しい、ゆっくりとした口調で言った。
「死んじまったんだ。小学校4年生だった。その時も大雪でなあ。早く帰って炬燵にでも入ろうと思ったんだろ。赤信号で横断歩道渡って、これよりずっと小さなトラックにはねられた。そのトラックの運転手ってのがいい人でな、すぐにそのまま病院まで運んで連絡してくれたんだが…。全く、トラック乗りの息子がトラックにひかれてちゃ洒落にもなりゃしねえ。」
浩輝もそこまで聞いてようやくすべてを悟ったらしく、暗い表情で俯いている。男性はスピードメーターを気にしながら煙草を口に運ぶ。
「それでまあ、同い年くらいの子どもを見ると、ついつい息子がその中に混じってるんじゃねえかって、ついついなあ。」
それでビーストハンターなんか一人で見に来ていたのか。
おじさんは、今でも、にぎやかに騒いでいる子供たちの中に紛れている自分の息子の姿を探しているのだ。
美郷は、いつかふざけて道路に飛び出し父に叱られた時のことを思い出した。
― もしお前が車に轢かれでもしたら、俺は、俺は…
あんなに怖い父の顔を見たのは初めてだった。怒鳴り声は震え、その目にはうっすらと涙が浮かんでいたように思う。おじさんも、このがっしりした、ものすごく強そうなおじさんも、泣いたのだろうか。息子の名を、震える声で呼んだのだろうか。
そう思うと、なんだか自分は父にもう一度謝らなければいけないような気がした。
「ボウズたちには、つまらねえ話だったかな。」
「美郷っていうんだ。美郷って呼んでよ、おじさん。こっちは浩輝。」
とっさに、そう口走っていた。
そう、名前で呼んでもらおう。おじさんは、息子の名前を呼ぶ機会を永遠に奪われたのだ。彼女自身も、名前で呼んでもらう事で少しでも男性を身近に感じようとしたのかもしれない。
「美郷に、浩輝か。元気そうだな。二人で山の上から自転車で来たのか。」
おじさんは優しく微笑んで、二人の頭を交互に撫でた。
「美郷、浩輝、立派になれよ。お前らなら大丈夫だ。ああ、いい目をしてる…」
おじさんはそう言うと、目のあたりを腕で拭った。
浩輝の家の前の細い道で、おじさんはトラックを停めた。
「おじさん、ありがとう!」
二人は礼を言ってトラックを降りた。雪はまだ降り続けていたが、風は次第におさまりつつあるようだった。おじさんが二人の自転車を荷台から降ろしていると、家の中から浩輝の母親が慌てて出てきた。
「浩輝!」
「母ちゃん!このおじさんが映画館から乗せてきてくれたんだよ。」
そう言われておじさんは恥ずかしそうに頭を掻いた。浩輝の母は彼に何度も丁寧に礼を言い、美郷ちゃんの家にも電話しなきゃ、と再び大急ぎで家の中へと駆けていった。
後に続いて家に入っていく浩輝を見届けると、おじさんは美郷の方を向き直り、
「それじゃあ、おじさん行くからな。」
と言って車に乗り込んだ。
「おじさん、お仕事、頑張ってね。」
美郷の言葉に照れくさそうに応え、トラックのエンジンをかけた時、浩輝が家の中から走り出てきた。
「待って、おじさん!」
息を切らしながら差し出したその手には、缶コーヒーが握られていた。
「母ちゃんが、持ってけって。まだ、いっぱい運転するんだろ。」
おじさんは窓から手を伸ばし、缶コーヒーを受け取ると、車の中でしたよりも荒っぽく浩輝の頭を撫でた。走り出したトラックに向かい、二人がありがとう、と声を張り上げると、おじさんは手にした缶コーヒーを振って合図し、角を曲がって走り去った。
その日の夜は、珍しく早い時間に帰宅した美郷の父も交えて二家族揃っての鍋パーティーが開かれた。大人たちが楽しげにビールを持ち、会話に花を咲かせている傍らで、美郷も、浩輝も、おじさんのことをいつまでも思い出していた。
シャワーを浴びながらぼんやりと昔のことを思い出していた美郷が寝間着に着替えて部屋に入ると、携帯のランプが点滅しているのが見えた。
浩輝からのメールだ。
― 熱、下がった。明日大丈夫そう。
美郷は大きく溜息をついて、冷蔵庫に入っていた缶コーヒーを開ける。散々面倒かけといて。
コーヒーを口に含むと、美郷は浩輝にメールを返す。
― よっしゃ、よくやった、浩輝。でも、無理はすんなよ。
外の雪はいつの間にか止んでいて、雲の陰からはうっすらと月明かりが見えている。光に照らされて、積もった雪が宝石のようにきらきらと光るのを、美郷は夜が更けるまで見つめていた。