とある日のフタコマ
*
「………」
庭園を歩きながら、ミリヤはそっと息を吐いた。あの女性が未来の女主。正直、やっていける気がしない。
もともと寛容なイオに仕えていて、傲慢な主というものをよく知らないミリヤ。雰囲気から威圧感満載のナタニアに圧倒された。怖かったし、何より世界が別の人間だと思い知らされた。
庭園は、先ほど見た通りだった。柔らかい芝生は短く刈られ、煉瓦で仕切られた花壇には良質の土と肥料によって守られた大輪の薔薇。他にもダップ伯爵邸とは違う配色で、花は庭園を彩っている。
ミリヤとイオは、ニナやアニスの言うような恋情によって結ばれた関係ではない。とは言え、イオと二人のようなただの主従関係かと言われれば少し違う。もっと親密な……奇妙な関係。
イオの婚約に傷つかないのがいい証拠だ。嫉妬はない。ただ、言葉に表せない落胆はある。
そう、たとえば、仲の良い友人が結婚してしまうような──。
誘われるように足を庭園の奥へ運んでも、屋敷から離れることはない。細心の注意を払って整えられていることがよく分かる植物が並んでいる。まるで整列した兵士のようにそろっているそれは、死んでいるようだ。
何故か美しいと思えなかった。もちろん美しいのだろうけど、ミリヤにはダップ伯爵家の少し大雑把な庭師の作る野生的な庭園のほうが合っている。
──あれは……。
そんな庭園に一本、流れる時間が違うかのようにそびえ立つ大木があった。太い幹や四方八方に伸びた枝は手入れが全くされていないようだ。庭園にある限り全く手入れをされていないということは無いだろうが、唯一ミリヤには生きているように見えた。
小走りで近づき、それに触れる。葉が影となって太陽の光をふせぎ、幹は冷たい。しっとりとしているそれに背中を預けて、ミリヤはその場に座り込んだ。誰かが探しにくるまで眠ってやろう。どうせ、ニナかアニスがミリヤを探しに来るだろう。
そう高をくくって、ミリヤはギュッと目を閉じた。
すぐに固く閉じられた瞼が緩み、ミリヤの唇から規則的な寝息が零れる。
***
「おい」
無防備に投げ出された下半身。スカートを通して足に衝撃が伝わり、ミリヤは目を覚ました。もともと曇天だった空は茜色に変わっても太陽を表に出していない。
ぐーっと伸びをして初めて、ミリヤは近くに転がる片方の靴に気がついた。見慣れた使用人用のものでもイオが履くような上等なものでもない、言ってしまえば最も一般的な安い靴だ。
ミリヤはそれを手にとり、様々な角度から観察してみた。
「……おい!」
「わっ、え!?」
自分一人だと信じていたミリヤは肩を跳ねさせ、面白いくらいに驚いた。
声は頭上からした。若い男の声で、ミリヤと同じ下町の訛りがある。
もう一度靴が降ってきて、それはミリヤの頭に当たる。それが偶然にしろ狙った結果にしろ、ミリヤは一度呆気にとられ、次第に怒りが沸き上がってきた。
「な……っにすんのよ!」
「どけ。下りらんないだろ」
見上げると、そこには木に相応しく太い枝が張り巡らされていて。「彼」はその内の一つに座っていた。両方の裸足だけが見えていて、顔や全体像は見えなかった。
足だけで想定するならば、イオよりは年下らしい。20歳はいってないだろう。
その傲慢な態度に頬を引き攣らせ、ミリヤは彼の靴を握りしめた。その靴は、あまり汚れていなかった。
「踏み潰されたいなら別だけど」
「……あんたねぇ、客人にはきちんと接待するよう教わらなかったわけ?」
高価とは言えない靴や下町の訛りやらを混ぜて考え、ミリヤは彼をこの屋敷の使用人だと判断した。きっと、若くして少しばかり偉い地位に就いた使用人だ。今のミリヤのように。
「は?客人?」
「そうよ!」
客人に対して傲慢な態度をとる使用人は罰せられるべき。ミリヤ自身そう教わったので、彼女はすでに密告する気満々だ。
下町娘をナメんじゃないわよ、と呟いて、スルスルと枝を上り始めた。顔を見て……もっと言えば首ねっこを掴んで突き出してやる。
──靴がぶつかったところ、まだ痛いんだからね!
「え、ちょ……」
彼の焦った声にほくそ笑む。クビになればいいわ。
メイドになる前は木に登って木の実をくすねたりしていたミリヤにとって、木登りなんて朝飯前のことである。
太めの枝に足をかけ、彼のいる枝近くの枝に手をかけて、グイッとミリヤは身体を上げた。
「わわ……!」
「……っ」
ミリヤが下から覗き込んだ形になったが、彼とはバッチリ目が合った。どうせ悪そうな顔をしているのだろう、と予想づけたミリヤを裏切り、彼は端正な顔立ちをしていた。ミリヤと同じ茶髪に、そこだけが異質な緑の瞳。確か、ナタニアもこのような緑の瞳をしていたはずだ。
その謎めいた緑の瞳以外にも不思議なことはあった。
彼の着ている服は、お仕着せなどではなかった。それよりももっと汚れた、下町の人のもの。
ただ、伯爵家のこんなにも奥まった場所に下町の少年が入れるわけがない。
数瞬、どちらも何も言わずに黙って見つめ合っていた。
……先に動いたのはミリヤだった。
持っていた靴を振りかぶると、思い切り彼の頭にたたき付けた。
「──っこの!」
「いっ!?」
反射的に頭を抑えようとして両手を枝から離し……しかし身体がぐらついたので慌てて片手を枝に押し付ける。
「何すんだよ!」
「仕返しよ。当たり前でしょ。私が黙って泣き寝入りでもすると思ったの!?」
彼の年は、ミリヤと大して変わらないものに見えた。ミリヤがメイドをしている前、下町にいた頃にみた少年と同じだ。
ミリヤの反撃に、彼は目を丸くした。まるで、言い返すわけがないと信じていた者が言い返したような、そんな表情。
「………」
「大体ね、私は客よ、客!イオ様の侍女なんですからね」
「イオ……様?」
彼は何だそれとでも言いたげである。忠誠心こそ爪の先ほどしか持ち合わせていないミリヤだったが、主が有名でないのは気に食わなかった。
「イオ様よ、イオ・ダップ様。知らないの?ナタニア様の婚約者じゃない。今日、モルト伯爵にご挨拶にきたのよ」
「……そういうことか」
「そういうことよ。ほらあんた、来なさい。突き出してやるわ。クビにされて路頭に迷えばいいのに」
まだ痛いのよ、頭。と怒りをあらわにするミリヤに、彼は穏やかな笑みを見せた。いきなりの笑いにミリヤはビクリと肩を揺らす。
「なに笑ってんの。気持ち悪い」
「いや……やっぱ人間こうじゃないとな。だよな、あんた!──そういや、名前は?」
名前を尋ねられ、ミリヤは不適な笑みを浮かべる。まだ怒りは収まっていないのだ。
「何で教えなきゃいけないのよ。自惚れんじゃないわよ。あんたは今からイオ様に突き出して、すぐにナタニア様にクビを言い渡されるんだから」
「ええ?いいだろ別に減るもんじゃなし。オレはカジュっていうんだけどさ」
狭い木の中で彼──カジュが身を乗り出してきた。それに合わせてミリヤは身を引く。
「ちょっと、危ないわよ、落ちるで……」
やや細めの枝に手をついたミリヤに、カジュは焦ったように手を伸ばした。
「その枝は……」
「え?大丈──ぎゃ、」
ミリヤが体重をかけた木の枝は、無情にも軽い音を立てて折れた。ミリヤにとってその音は、自分の命が折れた音である。
バランスを崩した身体はあっさり傾き、重力にしたがった。
「ちょ……あんたっ」
「カ、カジュ……っ!」
カジュに向かって伸ばされたミリヤの手は、ミリヤとは違う力強い手に握り込まれた。しかしまだ若いカジュに女性とはいえ人一人支えるほどの力はない。
「……ママ……」
幼子のような呟きが耳に入る。
ミリヤを胸元に引き寄せると同時に、クラリと襲う浮遊感に目を閉じた。ミリヤは枝が折れた時から目を閉じてこれから襲う痛みに備えている。
そのままカジュを巻き込んで、ミリヤは木から落下した。
「……っ…いた……大丈夫か?」
地面に薄い芝生が生えていて幸いだった。カジュを下にして落下したせいでカジュは肩から腰にかけてジンジンと鈍い痛みを感じていたが、ミリヤは芝生一つついていない無傷なままだ。
カジュはぼんやりと目を閉じているミリヤを見つめ、なんであんな失礼な奴を助けたんだろうと考えた。
「おい、起きろ。生きてんだろ?オレを下敷きにしたんだから」
やはりあの声だろうか。良いとも悪いとも思わないが、カジュだけを求めたあの声に、自分は動かされたのかもしれない。
そう思いながらカジュは身体を起こした。それに巻き込まれるように、もたれ掛かっていたミリヤの身体も起き上がる。
くったりと押し付けられる身体に、カジュは眉をひそめた。あの気の強そうな彼女なら、文句を言いながら跳ね起きそうなものだが。
「おい?……まさか、気絶してるのか!?」
カジュに返される声はない。しかし、カジュにとってはそれこそが返事のように思えた。
何となくぎゅっと抱き寄せたが、静かな相手に物足りなさを感じて。カジュは深いため息をついた。
「──まじかよ……」