とある日のヒトコマ
*
その日は、これといって特徴のない日だった。空は晴れても雨でもない、気の重くなるような曇天だったし、いつも通り道路には手紙を配達するための馬車が決まった時間に走っていた。
予定の5分遅くに、簡素な木のベッドから落ち、磨かれていない埃だらけの床でミリヤが目を覚ましたのもいつも通りだった。
ミリヤはいつも通りに冷たい水をたらいに溜めて顔を洗い、鏡に向かって髪を梳り、固く結ってメイドキャップをかぶった。
つがいの鳥が窓の近くで鳴き合うのまで、いつも通りだった。
カーテンを開くも部屋の明るさは変わらず、ミリヤは迷った末カーテンを閉じた。
支給されたお仕着せは着古されていて、ミリヤがこの屋敷で侍女として働いた年数を主張している。慣れた様子でお仕着せを身に着け、最後に鏡の前で一回転した。何もおかしなところはない。
急ぎ足で部屋を出て、ミリヤは階下に向かった。そこの、階段から一番近い部屋に入る。扉や、外観は他の部屋と何ら変わりはないものの、中は明らかに変わっている。ミリヤの部屋の3倍の広さが、そこにはある。
「……ミリヤ」
咎めるように鋭い声。ミリヤは肩を竦めた。ミリヤの3倍近い年齢の、古参の侍女だ。ミリヤの先輩にあたる。
「申し訳ありません、遅れました」
小声で謝罪すると、彼女はふんと鼻を鳴らす。
──どうせ、お気に入りだからって良い気になって…とか思ってるんでしょう。
心に浮かんだ悪態は吐かず、ミリヤはションボリとした姿を見せた。
「今日は、重大なお知らせがあります」
毎朝この部屋で開かれるのは、屋敷の全侍女を集めた集会だ。大体が、その日の主の予定を発表して終わる。しかし、今日は違うらしかった。
一瞬場がざわめいた。
「静かになさい!本日、兼ねてから検討されていた、イオ様の婚約が決定されました。お相手は、モルト伯爵のナタニア様です。本日、イオ様はモルト伯爵邸に向かわれます。連れる侍女は最低限で申されておりましたので、──アニス、ニナ、ミリヤ、貴女達3人がお仕えなさい」
はい、とミリヤ以外の2人が即座に返事をしたので、ミリヤも慌てて「はい」と返事をした。ミリヤをたしなめた古参の侍女は、選ばれていなかった。
「ふん……良い気になって」
ミリヤの予想通りのことを言い、彼女は嫌そうに身体を揺する。
「すみませんです、先輩」
謝られるのが一番プライドを傷つけると知っていて、ミリヤは謝った。
「やはりモルト伯爵邸に行くんですから、有能かどうかは見なかったのかもしれませんね」
──例えば、若さとか若さとか若さとか。あと、顔とか?
古参の侍女は一瞬だけポカンとしたが、次第に意味が分かったのか顔を真っ赤にした。
「……ミリヤッ!あんた、気に入られてるからって良い気になりやがって!」
「せんぱ~い。伯爵家の侍女たる者、常に上品に、ですよ。……行ってきます!」
集会には一番遅れて、しかし主の元には一番で行く。それも、いつも通り。
**
主はまだ眠っている。料理人の作ったマフィンと紅茶、砂糖にミルク、フルーツの乗ったワゴンを主のイオ・ダップ伯爵令息の部屋の前にとめた。そしてワゴンを放置したまま部屋に侵入する。
「おはようございます、イオ様」
「ぅ……ん」
カーテンを開ききる。晴れている日は目元に太陽の光があたって大変眩しい……が、今日のように曇天の日は、何の意味もない。
「イオ様。起きてください。今日は大事な日なのでしょう?イオ様、起きてください……」
「ちょ……まだ、無理無理無理……俺はまだ眠いから……」
なかなか起きようとしない主に、ミリヤはため息をついた。そして一度深呼吸し、柔らかい声をだす。
「──イオ。起きなさい」
「……っ!母さ……」
すると、ガバッとイオは起き上がる。目を見開いて手を伸ばし、ミリヤの腕を掴むんでいた。
「……ミリヤ」
「おはようございます、イオ様」
ニヤニヤと笑うミリヤをペチンと叩いて、イオは起き上がる。
……ミリヤがイオの特別だと言われている理由は、これだった。ミリヤの裏声は、イオの亡き母……今は亡きダップ伯爵夫人とそっくりの声色なのだ。
発覚したのはミリヤが仕事をサボって庭園で歌っていた時で、当時メイドだったミリヤは侍女に昇格した。お仕着せはあまり変わらないため同じものを使っているが、給金が二倍近く上がった。
『たまに、で良い。5日に1度で。歌ってくれ、母さんの声で』
それが、イオの願いであり、条件だった。ミリヤはすぐさまそれを呑み、侍女になった。知っている歌は、伯爵夫人ならまず歌わないような下町のものが多かったが、イオは嬉しそうにミリヤの歌声に耳を傾けた。
そして、ミリヤのこの声は侍女という仕事に遺憾無く発揮されることとなった。何かを頼みたい(といっても、些細なものだが)時に裏声を使えば100パーセントの確率で聞いてくれたし、毎朝寝起きの悪いイオも、ミリヤが侍女になってからは飛び起きる羽目になっている。
「今日は、歌う日だったか?」
シャツを羽織りながら、イオが尋ねる。着替えの手伝いをしながら、ミリヤは頷いた。
「ですね」
「今日は帰れそうにないからな。今歌ってくれないか?母さんの声で」
「はい」
下町の、恋の歌を歌ってみた。イオは嬉しそうで、ミリヤもニコニコと笑ってイオに歌を聞かせ続けた。
ミリヤが運んだ朝食を食べ終えると、イオはすぐに馬車の手配を指示した。
ミリヤの先輩の多くが、ミリヤはイオの愛人だと思っていた。だから、ミリヤがイオに気に入られるのは若い内だけだろうとも。
しかし実際にミリヤとイオの間に恋愛感情はなく、むしろ姉と弟のような関係に近い。…ミリヤのほうが年は下だが。
「イオ様がご結婚されたら、あんたは捨てられるのよ。可哀相に」
モルト伯爵邸に向かう途中の馬車で、ニナが言った。ニナとミリヤは同期だ。
「あら。私、イオ様のお子様の世話もするつもりなんだけど」
「ふん。よくやるわ」
「……ねぇ、本当のことだけど、私とイオ様の間には何もないのよ?本当に」
ニナとアニスは、ミリヤの言葉を取り合わなかった。
だって、とミリヤは考える。
主と関係を持った使用人は多々いるかもしれないけど、その内の何人が主と同じ墓で眠れただろう。愛人のまま、蔑まれながら死んでいくのだ。なんて虚しい人生だろう。
「着いたわよ」
ぼぅっとしていた時間はミリヤの想像以上に長く、気付いたら馬車が止まっていた。イオが降りたのを確認し、御者には戻るよう伝える。帰りはモルト伯爵の馬車を使わせてもらえるだろう。
「お待ちしておりました。こちらです」
モルト伯爵家のメイドが出迎えにきた。ナタニアは自室にいるので、客室で少しの間待っていてほしい、と言った。
「ああ、分かった。じゃあ、行こうか」
「「はい」」
主に声をかけられ、嬉しそうにニナとアニスが返事をした。ミリヤも遅れて頷く。キョロキョロと辺りを見回していたら再び遅れをとり、ミリヤは小走りで皆の後について行った。
通された客室には大きな窓が備え付けられていた。カーテンは開かれ、優雅な庭園が見える。ミリヤが大口を開けて庭園に目をくぎ付けにされていると、後ろでイオがクスリと笑った。
「ミリヤは、庭園が好きだな」
初めて会った時のことを言っているのだとわかり、頬に熱が集中した。
「はい。綺麗なものが好きなんですよ、私」
「庭園に出たいか?」
イオの言葉に、ミリヤは目を輝かせた。もちろん、出たかった。曇天の下でさえ、美しい庭園。どんな花が咲いているのだろう。噴水はあるのだろうか──全てのものが、ミリヤの興味をそそる。
「良いんですか!?」
「ナタニアに聞いてみよう。きっと大丈夫だろう」
「何かおっしゃって?」
イオが言い終わるのと同時に、扉が開いた。その威圧的な物言いと現れた上等なドレス……に身を包む妖精のような美女に、ミリヤは一瞬言葉を失う。ニナとアニスも、どこか夢を見るような目でその美女を見つめた。まるで、ミリヤと同じ人間ではないような美しさだった。
「ああ……ナタニア。お邪魔してるよ」
イオが立ち上がり、ナタニアの頬に口づける。ナタニアも同じことを返すと、優雅に微笑んだ。
「ええ。ごめんなさい、待たせたかしら」
この短い文章。ミリヤが言ってもこれほど上品に響かないだろう。彼女が、イオの婚約者のナタニア。イオも十分美形で遠い存在だったが、ナタニアに比べれば人間的だとさえ言える。
それくらい美しいのだ。王女様と言われても信じられたかもしれない。
さすが、恋愛を経ての婚約者。イオはナタニアの美しさに怯まない。
「ナタニア。侍女に庭を見せてもいいかい?案内などはつけなくていいから」
侍女、と言うときにイオがミリヤを見たのをナタニアは見逃さなかった。ナタニアはミリヤを見ると、にやりと唇を歪ませる。ミリヤは縫い付けられたようにその瞳を見返すことしかできなかった。
「構わないわよ。ただ──そうね、子犬がいたら連れてきてもらえるかしら。今、迷子なのよ」
女神のような容姿のナタニアが言うには少し庶民的な単語が連発した。ミリヤはその内容をあまり理解しないまま、何度も頷いて部屋から逃げるように退出した。
思い出されるのは冷たいナタニアの瞳。
──なんだか、睨まれていたように感じたのは気のせいなのかな。
ミリヤに答えを差し出す者は、その場にいなかった。