十年、あの人は凪を予報しなかった
港のバス停で降りると、潮の匂いより先に、チョークの粉の匂いがした。
父の店の前に、黒板が立っている。
釣具の「みずしろ」。看板の文字は半分はげて、「みず」しか残っていない。シャッターは下りたまま。けれど、黒板だけは今朝書かれたばかりの白さだった。
明日の海
北東の風 やや強く
波 二メートル
時化 出船注意
父の字ではない。父は「時化」の「化」を、いつも妙に右上がりに書いた。この字はまっすぐで、少し角ばっている。
黒板の右下の隅に、小さく、別の数字があった。
凪待ち 3,652日
わたしはキャリーケースの持ち手を握ったまま、しばらく動けなかった。
三千六百五十二日。
数えなくても分かる。十年だ。
*
十年前の三月、高校を出たばかりの十八で、わたしは港の突堤で湊に言われた。
「次に凪いだ日に、返事を聞かせてくれ」
湊は漁師の息子で、わたしは釣具屋の娘だった。小学校から同じ教室にいて、同じ黒板の前を毎朝通った。父が書く「明日の海」を、二人とも天気予報より信じていた。
翌朝は時化だった。
わたしは返事をしないまま、始発の船で島を出た。東京の大学に受かっていたのだ。湊はそれを知っていた。知っていて、凪の日を指定した。
逃げ道を、くれたのだと思う。
わたしはその逃げ道を、十年使った。
*
「売るんだって?」
振り向くと、湊がいた。
ゴム長に、首にタオル。日に焼けて、肩が厚くなっていた。十年分の海が、そのまま体になったみたいだった。
「……うん。春に父が死んで、四十九日も済んだし。店を続ける人がいないから」
「そっか」
湊はそれだけ言って、黒板の前にしゃがんだ。
ポケットから黒板消しを出して、「明日の海」の四行を消す。それから、新しいチョークで書き直した。北東の風、やや強く。波、二メートル。時化。
さっき書いてあったのと、同じ文字だった。
「同じこと書いてる」
「漁協の予報が夕方に変わるから。確かめて、書き直してる」
「それ、毎日?」
「おやじさんの目が悪くなってから。三年くらいかな」
知らなかった。父は電話で、そんなことは一言も言わなかった。
湊のチョークの先が、隅の数字の上で一瞬止まった。触れずに、離れた。
「それも、あんたが書いてるの」
「それはおやじさんが始めた。おれは引き継いだだけ」
湊は立ち上がって、膝の粉を払った。
「店、売るならさ。黒板だけおれにくれないか。漁協の倉庫の前に立てる」
「……返事は、訊かないの」
言ってから、しまったと思った。十年使った逃げ道を、自分で塞ぐような言い方だった。
湊は笑った。昔と同じ、目尻だけで笑う顔だった。
「もういいよ。十年前の話だろ」
それで、おしまいだった。湊はゴム長を鳴らして突堤のほうへ歩いていった。
わたしは黒板の前に残された。
もういい、と言われた。
楽になるはずだった。わたしが島に帰るのが十年も遅れたのは、この話を蒸し返されるのが怖かったからだ。怖いものが、向こうから消えてくれた。
なのに、胸の真ん中が冷えていた。
*
その夜、店の奥の座敷で、父の日誌を見つけた。
大学ノートで、四十冊を超えていた。毎日の海と、客と、売れた仕掛けの記録。父は字が汚くて、几帳面な人だった。
去年の秋のページに、こう書いてあった。
『湊が言うには、凪の日しか訊かんと約束したそうだ。だから湊は、凪を出さん。黒板の隅を数え始めたのはわしだが、あいつのほうがよっぽど頑固だ』
意味が分からなくて、もう一度読んだ。
凪を出さない。
わたしはノートをめくった。父が倒れてからの日付には、何も書いていない。代わりに、黒板を写したらしいメモが挟まっていた。父の字ではない。病院のベッドの父に、湊が毎日届けていたのかもしれない。
どの日も、「やや波あり」か「時化」だった。夏の日付にも、凪はなかった。
この島の夏に、凪の日がないはずがない。
*
翌朝、港へ出ると、海は鏡だった。
風がない。波もない。突堤の先に繋がれた漁船が、水面に逆さまに映っていた。空の雲まで、そのまま海の底にあった。
黒板には、こう書いてあった。
明日の海
風 弱い
波 〇・五メートル
やや波あり
漁協の前で網を繕っていたおじさんたちが、わたしに気づいて手を振った。
「汐里ちゃんか。大きくなって」
「その黒板な、湊が書くようになってから臆病でな」
「凪を出さんのよ。出しても罰は当たらんのに」
笑い声が上がった。笑えないのは、わたしだけだった。
湊は、船の上にいた。
わたしは突堤を歩いて、船のそばに立った。湊は網の手を止めなかった。
「凪だよ、今日」
「〇・五メートルはあるよ」
「ないよ。わたし、予報士だよ」
湊の手が止まった。
わたしは東京で、気象会社に勤めている。資格を取ったのは、子どものころ父の黒板を信じていたからだ。そのことを、湊は知っているはずだった。
「なんで凪って書かないの」
湊は網を置いた。しばらく海を見ていた。鏡みたいな海を。
「凪って書いたら、訊かなきゃならなくなるだろ」
「……」
「訊いたら、おまえ、答えなきゃならなくなる。おまえが困る顔、見たくなかったんだよ。十年前の朝、おまえ、港で泣きそうな顔してた。だから時化でよかったって、おれ、思ったんだ」
やさしい、と思った。
それから、臆病だ、とも思った。湊は「いいえ」を聞かないために、十年、凪を出さなかった。わたしは「いいえ」も「はい」も言わないために、十年、帰らなかった。
同じ嘘を、二人で分けて持っていた。
「もういいって言ったのは」
「おまえ、売るって言ったから。もう帰ってこないんだと思った」
*
月曜日の朝九時、東京で試験がある。
予報デスクへの異動試験だ。十年かけて、やっとそこまで来た。受かれば、テレビの天気予報の、あの画面の向こうで、毎日「明日の海」を書くことになる。年に一度しかない。
間に合うには、日曜の最終便で島を出るしかない。
夕方、不動産屋から電話があった。
「月曜の午後に、買い手さんと契約ということで。汐里さんは東京からオンラインで結構ですから」
わたしは「はい」と答えて、電話を切った。
それから、店の奥で、漁協の週間予報の紙を広げた。父の日誌の隣に。
日曜は南西の風、波二メートル半。午後から時化る。
月曜の朝は、高気圧が張り出す。風が落ちる。
わたしは等圧線の間隔を、指で何度も測った。十年、こればかり見てきた。間違えようがなかった。
月曜の朝、この島は凪ぐ。
試験と同じ朝に。
*
日曜の夕方、港には最終便が着いていた。
汽笛が一度鳴った。出航まで十五分。キャリーケースは、店の上がり框に置いたままだった。
わたしは店のシャッターを半分上げて、父のチョーク箱を出した。
黒板の前に立つ。
湊の字の「やや波あり」を、黒板消しで消した。チョークを持った手が、しばらく動かなかった。
凪と書けば、わたしはここに残る。月曜の朝、突堤に立って、答えなければならない。試験は来年まで待つことになる。三十を前にして、十年かけた一年を、一つ捨てる。
書かなければ、最終便に乗れる。湊はまた凪を出さず、わたしはまた答えない。きっと、うまくいく。十年うまくいったのだから。
二度目の汽笛が鳴った。
月曜の海
風 なし
波 なし
凪
「凪」の「几」の払いが、父と同じように右上がりになった。自分でも驚いた。
背中に足音がした。
「……おい。最終便、出るぞ」
「わたしの予報。外れたら、資格返す」
振り返ると、湊が黒板を見ていた。夕日で顔が赤いのか、そうでないのか、よく分からなかった。
「月曜の朝、訊いて」
わたしは言った。声が震えないように、腹に力を入れた。
「答え、まだ決まってない。でも、凪の日に訊かれたら、ちゃんと答える。逃げない。それだけは決めた」
「試験、月曜なんだろ。おやじさんの葬式のとき、おまえ、言ってた」
「来年も、ある」
三度目の汽笛が、港に長く響いた。船が岸を離れる音がした。
湊はしばらく黙っていた。それから、わたしの手からチョークを取って、隅の数字を消した。
何も書かなかった。
黒板の隅が、十年ぶりに空白になった。
*
月曜の朝、海は凪いでいた。
予報は当たった。わたしが出したのだから、当てなければ困る。
九時。東京の試験会場で、わたしの席が空いている時刻だった。
突堤の先で、湊は十年前と同じ場所に立っていた。違うのは、二人とも二十八になっていることと、湊の手がチョークの粉で白いことだった。
「返事を、聞かせてくれ」
十年前と同じ言葉だった。
凪の朝の空気は、潮の匂いさえ薄かった。
「はい」
それから、続けた。
「店は売らない。不動産屋には、さっき断った。わたしは東京に戻る。来年、もう一回試験を受ける。それまで毎朝、この島の予報を電話する。あんたが黒板に書いて。わたしの予報で、あんたが船を出して」
湊は、目尻だけで笑った。
「遠距離で、予報だけ届くのかよ」
「凪の日は、わたしが帰る」
「おまえが予報出すんだろ。いくらでも凪にできるじゃねえか」
「しないよ。外したら資格返すって言ったでしょ」
湊が笑い出した。わたしも笑った。笑い声は、波のない海を、どこまでも渡っていった。
*
今、港の黒板の右下の隅には、新しい数字がある。
凪 12日目
凪の日だけ、湊が一つ数を足す。
わたしは東京の会社の、窓のない席で、毎朝五時に島の海を読む。来年の試験の問題集を、机の端に置いたまま。そして電話をかける。
「明日の海。北の風、弱く。波、一メートル」
「時化か?」
「ううん。やや波あり。凪じゃないから、帰らない」
「正直だな」
「予報士だからね」
電話の向こうで、チョークの音がする。
次の凪まで、あと三日。




