初夏の送別
「初瀬、今日定時に上がれる? 帰りちょっと付き合って欲しいんだけど」
同じ営業部の二年先輩にあたる女子社員、染井由佳がそんなそんな風に持ちかけてきたのは、六月初めのからっとよく晴れた午後のことだ。
飲みの誘いだとちょっと嬉しいな、と思った。そろそろビールが美味い季節だ。先輩にその気がなくても、まあ誘ってみる余地はある。
「……いいですよ。今日予定してた先方との打ち合わせ、流れちゃいましたからね」
「そりゃ大変だ……君、なんかやらかした?」
「別に俺の落ち度じゃないです。お偉いさんの使い込みが発覚したとかで、取引どころじゃなくなったみたいですね。まあ災難ですよ」
「あー、なんかネットニュースででちらっとやってた気がする。君の商談相手だったか……じゃあそれも肴に一杯」
「いいですね。ちょうど飲みたい気分でした」
「なら話が早い。駅前からちょっと入ったとこの居酒屋ね。大分前にお昼一緒したとこ」
染井先輩はよしよしとうなずくと、残務を片づけに自分のデスクに戻って行った。
(どうやって誘おうかと思ったけど、何のことはなかったな……)
たぶん、先輩も飲みたい気分だったのだろう
染井先輩とは入社当時、配属先で教育係としてつけられて以来のつきあいになる。グラマラスな美人だが鼻っ柱が強すぎて、頼りにはしたが女性として意識することはほとんどなかった。
むしろそれがかえって幸いしたのか、現在までいい友人関係を維持できている。
東京近郊の地方都市に本社を構える、中堅どころの建機リース会社に就職してはや五年。お互い三十近く、そろそろ人生に何か転機があってもよさそうな頃だが――
駅前の繁華街を少し歩くと、指定の居酒屋はすぐに見つかった。店内を見廻すと染井先輩は既に注文を済ませたらしく、背の高いシリンダーグラスに注がれた薄いはちみつ色の液体と向き合っていた。
「きたきた。先にやってるよ」
「ビールじゃないんですね」
「あの酔い加減があまり好きじゃなくてさ。なわけで梅サワー」
「あー……」
シリンダーグラスに浮かぶ大玉の梅を見れば、どうしても言いたくなるギャグがある。
「……わしの梅サワー!」
だいぶ古いロボットアニメの珍セリフ。と言っても俺自身は切り抜き動画やMADと呼ばれる珍奇な編集をされた動画を通じて、断片的に知ってるくらいだが。
「やめなよ、地球が停まっちゃうでしょうが。あとが続くわけでもないし」
「そっすね」
こういうネタも通じるのが先輩のありがたいところ。俺たちはともに、同世代のいいオタク仲間でもあるのだ。
「それで……今日は何の話です? ただの飲みって訳じゃなさそうですよね?」
「ああ、うん。たまに勘がいいよな、君」
先輩は梅サワーを脇に置くと、居住まいを正してこちらへ向き直った。
「実は、九月からポーランドの提携先に出向することになった」
「へえ!? そりゃまた……でもなんで九月に?」
「知ってるかと思ったが……あのね、ヨーロッパやアメリカはじめ、海外では年度の切替わりが九月ってとこが多いのよ。小麦の収穫時期と関係あるらしいんだけど」
「あ、なるほど。そういえば昔読みました。クレメントの『二十億の針』で主人公の学校休みが……」
「渋いとこきたねぇ」
「子供向けのリライトですけどね。図書館で借りて、夢中になって読みましたよ」
「まあそれはさておき、ポーランドね。あそこ、お隣の復興に協力してて、重機いくらあっても追いつかないらしくてさ……二年くらいいることになるかな? それで、来月に送別会をやってもらうことになったんだけど――」
「ええ。それで……?」
先輩の話の引き方になぜか不穏なものを感じて、俺はわずかに身構えた。
「うん、どうしても君に、頼みたいことがあるんだ」
チャージマンネタまで挟みつつも、先輩は一呼吸おいて、この場ではひどく場違いに響く単語を吐きだした。
「……アンブロシア」
「げえッ?」
ギリシア神話の、神の食物とされる果物。だが、こと俺にとってはまた格別の、全く別の意味を持つ。
「間違ってないという自信はあるんだけど……君だよね? アンブロシアこと『観月灯』。十年前に動画サイト専門で鳴らしたネットアイドルユニット、『MYTH PRODUCE(神話の果物)』のセンター」
「な、なんで……何でそれを」
「しかしてその実体は、まさかまさかの『男の娘』。今は黒岸建機リース営業部員、初瀬明人」
「アイェエエ……アンブロシアナンデ!?」
重度のアンブロシア・リアリティショックを発症した俺は、ひとしきり座布団の上でもがいた後、眉間に先輩のもっちりした手刀を頂戴して正気に戻った。
「うう……そもそもの始まりは、小学校の家庭科実習なんです。調理のためにエプロンと三角巾をつけた自分の姿が鏡に映って、なんかすごく可愛いなって思って、それから……」
「あー、いいからそういうのは。まあわかる……っていうか、わからなくはないけど」
三杯目の梅サワーに口をつけ始めた先輩の前で、俺はしょんぼりとうなだれていた。高校を卒業すると同時に女装はやめて、「MYTH PRODUCE」も活動を停止した。足跡は徹底的に消したつもりだった。
「それが、何で……」
「何かゴメンね。世の中って結構狭いもんでさ。メンバーの面白枠で『ワクワク』って子がいたでしょ? あれ、私の従妹なんだわ」
「チキショーメー!」
なんてことだ。元メンバーの仲間に売られたとは。
「それにさ、私も大学いっぱいまではコスとかやってたから、君らの活動には注目してたのよね。ああいうボーイッシュというかスレンダーなキャラは、私には無理で羨ましかったしさ」
そういうこともあるのか、と俺はつい先輩の胸元をチラ見した。実際デカい。うんその身体でローティーンキャラは無理ですわ。
「つまり、その……まさか」
「うん。送別会で、アンブロシアをもう一度見たい、踊って欲しい」
「無理っすよ!!」
俺は流石に悲鳴を上げた。社会人、それも営業部での五年は男のフィジカルを大きく変える。昭和平成の頃程ではないにしろ、深更に及ぶ接待での飲みや寝不足。ストレスからの過食。
意識してジム通いなどしてフィットネスを保ってはいるが、その分筋量も増え体型も変わってしまった。たぶんダンスというより格闘技の演武になる。スリックバックの浮遊高は半分以下になる。
「今やったら、アンブロシアじゃなくてアンブロシウスになっちまう……」
「ねえ。ラテン語風人名の男性名になると、何でこうもおっさん味がでるのかしらね」
したり顔でうなずく先輩。
結局のところ、俺は先輩に押し切られて一ヶ月の間、非常に困難なダイエットというか役作りというか、人体改造に挑むことになったのだ――
* * * * *
「えー、本日はお日柄もよく、といってもう夜ですし屋内なので関係ないっちゃないんですが。これより我が社営業部の精鋭、染井由佳君を送る会を、盛大に執り行わせていただきます」
黒岸建機の二代目社長である長身の伊達男、黒岸榴一(41)が気さくすぎるトーンであいさつを終えると、万雷というほどでもないがまばらでもない、程よい感じの拍手が鳴り響いた。
知り合いの経営するホテルの小ホールを借り切って、ビュッフェボード・スタイルのパーティー。あいさつの後に乾杯が交わされ、皆が思い思いに食べて飲んで、談笑。
主役の染井先輩が重役たちに囲まれてお辞儀や握手を繰り返す中、俺は密かな自負と高揚感をもってその時を待っていた。
頑張ったのだ。体重は二十キログラム落した。筋力も落ちすぎない程度に保ちつつ、脱毛とスキンケアに勤しんできた。角栓取るのって、なんであんなに癖になるんだろうな――閑話休題。
いまなら往時のアンブロシアには遠くとも、「こんなコンパニオン呼んだっけ?」と幹事に怪訝な顔をさせるくらいの仕上がりにはできそうだ。
人の輪からそっと離れると、会場の袖に待機していたホテルの内務員のおっさんに、腰を低くして更衣室の場所を尋ねた。
「あー、更衣室はないけど、余興とかで着替えるってんならそこの用具室使っていいですよ。積んであるテーブルとか崩さないように気をつけてね」
「あざっす」
旅行トランクに忍ばせてきた衣装は、通販でかき集めた可能な限り当時の雰囲気によせた扮装。藤色のチェック柄を部分的にあしらった白いドレスに、丈の短いレース生地のボレロを羽織る。足はきっちり脱毛してあるが、念のため厚手の白ストッキングでラインだけを見せる布陣。
全身をチェックしたいが、ここには鏡が――
「ここにいたのね、そろそろ出番よ。詳細は伝えずに音楽と照明だけ指示してあるから、ぶっつけだけどよろしく」
用具室のドアを開けて入ってきた先輩が、手提げから少し大きめの鏡を出してこちらへ向けた。
「アンブロシア……」
若くて怖いもの知らずだったあの頃、いつも一緒だったヒロインがそこにいた――微妙に「シウス」によっているが、まあそれでも美女に見える。コーディネートはばっちり決まっている。嘘みたいだ。
驚いたことに、先輩もビジネススーツから着替えて、いかにもどこかのゲームかアニメにいそうな美少女キャラ風のコスチュームに身を包んでいた。
「呆けた顔しない。君一人に恥かかせる気はないんだって。まあ承諾させるには脅迫まがいのことも言ったけどさ……実のところ、私はアンブロシアと踊りたかったんだ。ずっと」
差し出してきた彼女の掌には、自信が髪に飾っているものと色違いの、大きなヘアピン付きリボンがのっていた。
「さ、これ付けて。仕上げよ」
「……はい」
先輩とどちらからともなく手を取り合って、俺たちはホールへと足を踏み入れた。戸惑ったようなどよめきと、面白半分の拍手が鳴り響く。
――さあ、これをいまから盛大な賞賛のアプローズに変えるからね。
耳打ちの後に頬に柔らかいものが触れた気がして、体温がカッと上がった。




