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鏡の囁き  作者: 都桜ゆう


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序章

 東京の郊外にある大学のキャンパスは、秋の終わり特有の、乾燥した冷たい空気に包まれていた。美咲は授業中も、薄いブラウスの下に感じる肋骨の感触に満足していた 。

 しかし、彼女の視線は常に、講義室の窓に映る自分の姿に向けられていた。蛍光灯の白い光の下、窓ガラスに映る美咲の輪郭は、確かに細かった。腕も足も、以前着ていた服がすべてブカブカになるほど痩せ細っている。だが、彼女の頭の中には、周囲から向けられる「痩せすぎだよ」「もっと食べなよ」という言葉とは全く別の、強固な認識が存在していた 。

(嘘よ。みんな嘘ついてる。このスカートの下、まだ肉がたるんでいるし、顔もパンパンに浮腫んでる。鏡を見れば一目瞭然なのに、どうして誰も分かってくれないの? こんな醜い自分、絶対に許せない。こんなにも醜くいのに、どうして誰もわかってくれないの)

 美咲の体重は、標準体重を優に下回っていたが、彼女の脳内にある自己像は、常にわずかに、あるいは大きく、膨らんでいた。彼女の毎日を支配しているのは、体重計と鏡だった 。


 夜、アパートの洗面所。美咲は、その日の最後の儀式を行うために、冷たいタイル床の上に立った 。

 カチッ。

 デジタル体重計のスイッチを入れ、ゆっくりと両足を乗せる。息を殺す。全身の神経を数字に集中させる。

「38.5kg」

 その数字を見た瞬間、美咲の胃の奥が冷たく締め付けられた。昨日から0.1kgも減っていない 。

(どうしてよ。嘘でしょ? まったく動いてないじゃない。この数字は、私の努力を裏切っている。

 昨夜のサラダチキン、あのたった二切れが多すぎたの? それとも、優子から勧められたカフェオレ、あの一口のせい? ……違う、全部私の努力不足だ。これじゃだめだ)

 体重計は、彼女にとって「自己評価の呪縛」そのものだった 。この冷たい機械が示す数字こそが、美咲という人間が社会から評価されるための唯一の指標だと、彼女は確信していた。どれほど友人が心配の声をかけても、両親が電話で泣き言を言っても、この数字が目標値に達していない限り、彼女の努力は不足しているのだ 。

 彼女は体重計を隅に追いやり、今度は大きな姿見の前に立った。鏡の中の美咲は、現実よりもずっと大きく見えた。

 実際には、鎖骨が鋭角に浮かび上がり、肩の骨が突き出ているのに、鏡の中の彼女は、腰周りには隠しきれない肉のたるみがあり、顔もパンと張って丸みを帯びているように感じられた。

 美咲は、自分の理想と現実の乖離に苛立ち、鏡に映る自分を睨みつけた。

(こんな醜い体、耐えられない。早くこの脂肪を削ぎ落とさなきゃ。こんな姿、誰にも見せられない。もっともっと細くならないと、私は存在価値がない)

 鏡は、彼女にとって「社会の視線」の象徴だった。この冷たいガラスに映る姿こそが、他者から向けられる真実の視線なのだ。だからこそ、美咲を心配する友人たちの言葉も、家族の忠告も、すべて彼女を油断させ努力を挫こうとする嘘だと、美咲は思い込んでいた。

 彼女はスマートフォンを取り出し、画面に表示されたカロリー計算アプリを再度確認する。今日の摂取カロリーは400kcal。これだけ徹底した制限を続けているのに、目標に一向に近づけない。その苛立ちから、彼女は壁に貼られた「目標:35kg」と書かれたメモを、指の腹で強く擦った。

 その日の夜も、美咲は空腹を紛らわすために、深夜まで大学の課題を続けた。キャンパスライフは、彼女にとって食事と自己評価の呪縛から逃れる唯一の「現実逃避」の場でもあった 。しかし、その生活はすでに破綻し始めていた。彼女の思考は、すべて「食べないこと」と「痩せること」に集中し、講義の内容は頭に入ってこない。

(明日は絶対にもっと絞る。水も飲むのを我慢しなくちゃ。そう、これできっと目標の姿になれるはず……)

 彼女は、自分を蝕む強迫観念とそれを否定する周囲の現実との間で、深く深く孤立し始めていた。そしてその乖離の隙間に、かすかな「声」が入り込む余地ができ始めていたのだ。


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