結:紙は噂より重い
木曜の朝。
NPOの会議机に紙が並び、端がそろえられていた。A4の苦情申出書は二枚組。成瀬の字で要点が端的に書かれ、右上には受付番号スタンプ。横には受付票(複写式)の控え。朱の受理印が少しだけにじみ、紙の角が柔らかく見える。
クリアファイルの見出しは「番号廃市/西域—02:07」。インデックスシールが一段増え、背表紙のラベルが読みやすくなった。
「一件目、正式に受理。番号はここ。差戻し条件は無し」
成瀬がクリアポケットに受理票を入れ、封筒の表へ小さく鉛筆で受理番号を書いた。
相沢はクラフト封筒の口を三角に折り、ラベルに「苦情申出—受理済/写し」を貼る。手早いが、乱れはない。
「次は広域交付。オンラインに頼らず、紙の住民票を取る」
「行こう。今日中に“紙の本人”を固める」
窓口が混む前に隣市へ向かう。
市民課のフロアは静かで、壁の番号札ディスプレイが白く光る。ベンチに座ると、A4の申請書と記載例が渡された。記入欄は四つ。氏名、生年月日、住所、必要部数。迷うところはない。
「本人確認書類のご提示をお願いします」
職員の声は落ち着いていた。
桂一は身分証の原本と、A4のコピーを一緒に差し出す。職員が目視で確認し、日付印を受付票に押す。
数分後、プリンターから住民票の写し(A4)が一枚、滑り出た。薄い地紋の上に、水野桂一の氏名と住所。下部には公印。紙はわずかに温かい。
「発行しました。こちらが正本。コピーは同封でよろしいですか」
「お願いします。助かります」
受け取ったA4は、すぐ透明ポケットへ入れた。角が潰れない。
相沢が笑う。ほっとした顔だった。
「これで“紙の桂一”は、ちゃんといる」
「次は銀行と会社。順番に、紙で通す」
昼前、銀行の窓口。
番号札を引いて数分。案内されたデスクの上には、本人確認再提出の案内(A4)が置かれていた。
担当者は書面を見て、住民票と身分証を照合し、本人確認記録票の□を一つずつ埋めていく。□氏名一致、□生年月日一致、□住所一致。最後に担当印が一つ。
「確認できました。オンライン側の履歴は時差がありますが、紙で運用を切らさないよう処理します」
「ありがとうございます」
担当者は**控え(A4半裁)**を出し、受領印を押した。紙が一枚増えるだけで、呼吸が深くなる。
午後は会社の人事へ。
受付で**来訪者記録(複写式)**に名前を書く。筆圧が二枚目へ沈む。
人事担当は事情を知っていて、在籍証明書(A4)をその場で作ってくれた。右下の角印が赤く押され、「本日付で有効」と手書きのメモ。
紙を渡された瞬間、体の芯がすっと軽くなった。
「今後しばらくは紙とオンライン併用で運用します。何かあればすぐ言ってください」
「助かります。ほんとうに」
建物を出た時、スマホが震えた。差出人は白鳥匡。件名は「運用変更について(西域帯)」。本文は短いが、語尾は硬すぎなかった。
「保守告知の出し方を変更します。西域帯でのメンテナンス作業は当面縮小し、事前の紙掲示も増やします。個別の影響が出た場合は連絡を」
“生活に支障は出ません”ではない文だ。少しだけ、人の言葉に寄っている。
相沢が画面を覗き込み、肩をすくめる。
「小さくても、ちゃんと動いた」
「紙で殴ったわけじゃない。紙で支えただけ」
「それが一番強いよ」
帰り道、商店街でたい焼きを三つ買った。紙袋の底がやさしく温かい。
公園のベンチで食べる。相沢はあんこ、成瀬はカスタード。桂一は焼き色の濃い端から。
甘さが広がったところで、三人とも同時に息を吐いた。
「次の動き、簡単に整理します」
成瀬が**メモパッド(A6)**を出し、さらさらと箇条書きする。
——苦情申出:受理済(番号◯◯)
——住民票写し:取得
——銀行:本人確認紙運用へ切替
——会社:在籍証明(角印)
——被害聞き取り:継続(同意書A4)
——次回検証:当面見合わせ(安全最優先)
「検証はお休みで賛成」
「うん。今夜は、家で寝る」
NPOへ戻ると、紙の整理をもう一度だけ丁寧にやった。
バインダーの背に「結—対応完了」と新しいインデックス。
L判の集合写真を取り出し、表の余白に油性ペンで一行、丁寧に書く。
「水野桂一」
手書きの名前は、写真用紙の上でくっきりしている。
アプリの顔タグはまだ戻らない。それでも、紙の写真は素直に受け入れてくれる。
相沢が笑って言う。
「これ、私の分。アルバムにも同じように書いたよ」
「ありがとう。助かる」
成瀬はホワイトボードに進行表を書いた。
□ 苦情申出:受理
□ 広域交付:取得
□ 在籍継続:紙で確認
□ 銀行:紙運用へ切替
□ 次回検証:見合わせ(安全優先)
□ まとめ資料:作成開始
「まとめは**“読める紙”で作ります。A4三枚以内。写真はL判コピー**を貼付。誰が読んでも動ける形で」
「任せて。見出しと図はこっちで作る」
机の端に置かれた付箋には「お茶を買う」「封筒(角2)追加」と走り書き。
こういう何でもないメモが、今日は特別に見えた。
夕方、四人の被害者へ電話を入れた。
Aさんには、簡易手順書(A5)を郵送することにした。表題は「紙で確認できること」。
Bさんには、会社へ提出する在籍確認の添書(A4)を作成。
Cさんには、店長向けの一言メモ(名刺サイズ)。「レジで表示が出ても、お客様の紙の身分証で確認可」。
Dさんには、L判写真の手書きタグの方法を送った。
「紙ばかり増やしてる気がする」
「いいんだよ。噂は軽い。軽いものは、重さで受け止める」
夜気が少し冷えてきた。
相沢はチェックリストの余白に、小さく笑顔マークを書いた。
成瀬は受領印の朱肉を閉じ、袖で机の粉を払う。
「今日はここまで」
「了解」
外へ出ると、高架は昼の顔に戻っていた。
二本の電柱の間を見上げても、何も起きない。
風が弱く、街灯の光はまっすぐだ。
帰り道、桂一のスマホに一通のメールが届いた。差出人は白鳥。本文は一行だけ付け足されていた。
「市内掲示の紙のチラシも、明日から文言をわかりやすく更新します」
短いけれど、良い方向だ。
信頼は、一気には戻らない。紙の一枚ずつで積むしかない。
家に着く。
テーブルの上にクリアファイルとクラフト封筒を縦に並べ、L判写真を一枚、横に置いた。
スマホのアルバムを開く。タグは空白のまま。
けれど、紙の写真には自分の字で名前がある。
はっきり、迷いのない線で。
「大丈夫。今日は、これでいい」
声に出すと、胸の固さがほどけた。
A6の単票メモに一行、ゆっくりと書く。
——おやすみ、火曜。おやすみ、02:07。
——紙は噂より重い。
部屋は静かだ。
窓の外の街も、静かだ。
次の火曜が来ても、今夜くらいは考えない。
必要な紙はそろっている。
それだけで、ちゃんと眠れる。