転:境界試験(2:07)
火曜、午前一時三十五分。
高架の柱が並ぶ。二本の電柱の間には、細い黄色のライン。街は眠っているが、風だけは起きている。
相沢由希はクリップボードを三枚、ベンチの上に並べた。
チェックリストの表紙には**『境界検証チェックリスト(2:07)』。□の枠が整然と並ぶ。
成瀬真はA4の連絡先一覧をラミネートして胸ポケットへ。上段に「110/救急」、下段にNPOの固定電話。
水野桂一はクラフト封筒(提出用)の口を一度閉じ、角を指で整えた。中には同意書の控えと相談票の写し**、チェックリストの予備。
「役割、最終確認」
成瀬が短く言う。
「僕は記録と通報。相沢さんは撮影。水野さんは被験者。危険を感じたら中止。録音・録画・紙の三本柱でいきます」
「了解」
「了解。録画準備、入ります」
相沢はスマホをジンバルに固定し、画面左上にRECの赤丸を点灯させた。
桂一はB7方眼メモに「02:05 設定確認/02:06 録画再開/02:07 認証」と箇条書きし、のり付きでボードに貼る。
ペン先が紙に沈み、少しだけ裏へ透けた。
午前一時五十分。
成瀬はICレコーダーをONにし、時刻を読み上げる。
「一時五十分、境界試験の準備を開始。環境音、風あり。人通りなし。照明は手持ちライト弱」
桂一はサブ端末のWi-Fi一覧を開いた。
強度の棒が五本。うち三本が安定、二本が揺れている。スクリーン録画を開始して、成瀬のA4メモ欄へ読み上げる。
「SSID三件:強。二件:弱。ログ開始」
午前二時。
踏切の音が一度だけ遠くで鳴る。
相沢はA4チェックリストの□01〜□04を埋めた。
□01 集合時刻/1:35 □02 役割確認/済 □03 周辺確認/済 □04 緊急連絡先/携行
「一度、予行いこう」
「はい」
桂一は黄色のラインの上へ立った。電柱の白い番号ラベルは並び番号。同じ番号が二連で続くのは少し珍しい。
胸ポケットに上級救命講習のカード。財布には身分証コピー。どちらもクリアポケットに入れてある。
「勤怠アプリ、ログイン済み。決済テストアプリ、残高あり」
「録画、OK。成瀬さん、レコーダー回ってます」
「回ってます」
午前二時五分。
ライトを弱に落とし、足元のラインだけが見える明るさにする。
風が少し強まる。高架の鉄が鳴る音。遠くの犬が一度吠えた。
「二時六分になったら、画面更新。そのまま二時七分で認証」
「了解」
成瀬が短く息を整え、A4の時刻欄に「02:05〜」と書いた。
相沢はジンバルの角度を少し下げ、画面→足元→電柱番号の順でフレーミングを確認する。
午前二時六分。
桂一が勤怠アプリを更新する。画面は落ち着いている。
風が一瞬止まった。音が消え、呼吸だけが残る。
「二時七分、入ります」
腕時計の秒針が十二を指す。
その瞬間、サブ端末のWi-Fi名が二つ、同時に消えた。
「消えた。二つ同時。戻り、一つだけ」
桂一が勤怠アプリをもう一度更新する。
接続中の表示。次に、見慣れた行。
——再認証に失敗しました。対象外です。
「対象外、出ました。二時七分、ジャスト」
「スクショ撮った。動画も入ってる」
成瀬はチェックリストの□05と□06に✔。
□05 画面記録/取得 □06 文言「対象外」/確認
「次、少額決済のテスト」
「いきます」
桂一はポータブルリーダーにスマホを近づけ、数百円の事前登録決済を実行する。
読み取りLEDが一瞬光り、すぐ消える。画面には同じ文字。
——対象外です。
「二件目も対象外。二時七分+十秒」
「録画続行。角度OK」
ここまで予定どおり。
その時、背後から声が落ちてきた。
「おい、こんな時間に何してるんだ」
ジャージ姿の男性が立っていた。寝起きの声。
眉間にしわ。足元のテープを見て、カメラを見て、こちらをまっすぐに。
「保守時間帯の検証です。住人の顔は——」
「夜中にカメラ向けるなよ。ここで何して——」
男性が一歩詰め、相沢の手首に触れた。掴むというほどではないが、レンズがぶれる。
相沢ははっきりと言った。
「住人の顔は映していません。画面と足元だけです。必要なら案内カードを——」
「やめろって言ってるだろ」
男性の指が強くなる。
桂一は半歩前へ出て、外側から手首を払った。角度は浅く、力は最小限。男性の腕が外れて、体が少し後ろへ。
バランスを崩し、尻もち。ズボンに土がつく。
「大丈夫ですか。痛いところはないですか」
成瀬は救急セットを開き、消毒綿を出した。
男性は手を振る。
「平気だ……眠れなくて散歩してただけだ。お前ら、どこの——」
「市民NPOと協力して、認証エラーの記録を取っています。これ、名刺サイズの案内カードです。顔は映しません。連絡先はこちら」
男性はカードを受け取り、表と裏を見た。薄い上質紙に黒インク。端に「夜間検証中」の一文。
相沢が頭を下げる。
「驚かせてすみません。今日はこれで終わりにします」
「……気をつけろよ」
男性はゆっくり立ち上がり、カードをポケットへ。
成瀬はICレコーダーに向かって短く言う。
「近隣対応、終了。怪我なし。案内カード配布」
「撤収しましょう。必要な記録は取れました」
「了解。録画、カット」
相沢がRECを止め、成瀬がチェックリストの□07へ✔。
□07 近隣対応/説明・謝罪・カード
落ちていたテープの切れ端と紙くずを拾い、ライトを消す。
高架の風の音が戻ってきた。時間は二時二十五分。
道路の角で、相沢が小声で言った。
「さっきの手、助かった。ありがとう」
「無理はしない。押し返すまで」
「うん。次は、もっと早くカードを出す」
交番に電話を入れ、簡単に状況を伝える。A4の連絡メモに「通報済・注意喚起のみ」と書き加えた。
NPOに戻ると、まず紙から片づけた。
チェックリストに日付印。スクショをA4に二面貼りで出力。L判プリントは一枚だけ、立ち位置のメモを余白に手書き。
バインダーの背に「境界試験—02:07」。インデックスシールを一段増やす。
覚書(水野桂一)
——02:07、勤怠・決済の二件で「対象外」。
——Wi-Fi二件同時消失→一件のみ復帰。
——近隣対応:手首振り解き・案内カード・交番へ連絡。
——紙:チェックリスト/スクショ貼付A4/L判一枚。二重保管。
朝。
メールが一通届いた。差出人は白鳥匡。
件名「昨夜の件について」。本文は丁寧な敬語だった。
「対象外の表示は一時的な同期遅延に伴うものです。生活に支障は出ません。匿名化の運用はございません」
「……言い切りだ」
桂一は小さくつぶやき、A6単票メモに三行。
——メール:支障なし、と明言。
——動画・紙:支障あり、を記録。
——言葉の差を保存。
スマホの写真アプリを開く。
集合写真を出し、顔タグを確認する。
**『水野桂一』**が、どこにもない。
昨日の二時七分以降、手動で付けたタグも薄い。別のフォルダに移しても戻らない。
「相沢にも見てもらおう」
送信してすぐに返事が来る。
「こっちも消えてる。コピーのL判には手で名前を書いておく」
午前。
成瀬はA4の『被害メモ』を新しいバインダーに追加した。
タイトルは「顔タグ消失(時刻相関あり)」。右上に受付番号スタンプ。下に□同意書有のチェック欄。
相沢はB5ノートの欄外に黄色の付箋を貼り、「顔タグ→紙で補助」と走り書き。
「次のステップは、制度側の紙です。保守契約書や入札資料の公開文書を見ます。並行して、被害の聞き取りを増やす」
「私、学童の保護者にも声をかけてみる。同意書(A4)、何枚かもらっていくね」
「どうぞ。複写式の受付票も一緒に」
昼過ぎ、二人が外へ出ていった。
桂一は一人、机にL判の集合写真を置いた。裏面のチェーン店ロゴ。手前に油性ペン。
表の余白に、ゆっくりと書く。
「水野桂一」
自分の字は、写真用紙にもはっきり残る。
アプリが認めなくても、紙は「人」を受け入れる。
夕方。
相沢が戻ってきた。B5の聞き取りメモが増えている。四人分。
Aさん:保険証読み取り不可(西域・02:05〜)。翌日回復。
Bさん:勤怠アプリ「存在しない」。手動修正。
Cさん:決済エラー→店長対応で現金。
Dさん:写真タグ消失。手動タグで暫定対応。
成瀬はA4の被害票に転記して受領印。L判は透明ポケットへ。
「制度側の窓口へ行く前に、紙の本人をもう一度固定しておきましょう。広域交付なら、オンラインに寄らずに住民票の写しが出ます」
「隣の市、だね」
「はい。明朝、一緒に」
その夜。
解散前の最後の作業として、**クラフト封筒(提出用)**の宛名を書いた。
「情報政策課 宛」。下に「苦情申出 同封(チェックリスト/被害票/スクショ貼付A4)」。
封をする前に、もう一度だけ中身を数える。A4が指先で音を立てた。
覚書(水野桂一)
——境界試験は予定どおり。対象外×2。
——顔タグ消失確認。
——明朝:隣市で住民票(紙)取得。
——紙は、噂より強い。
——次は「生活の顔」を紙で守る。
深夜の風は少し弱くなった。
高架の下を離れると、街はまた普通の顔に戻る。
黄色のラインは、ただのペンキに見える。
でも、二時七分に見たことは、紙に残った。
消えない形で。