【市影譚01】起:消える“当たり前”
都市伝説シリーズ①『市影譚 / Cityshade Tales』番号廃市 — 2:07の境界 —
火曜、午前二時七分。
コンビニのレジ前に、短い列ができていた。
桂一は、紙パックのコーヒーと栄養ドリンクを置いた。
店員が端末にカードをかざす。
「……読み取りできません。もう一度お願いします」
もう一度試しても結果は同じだった。
端末の表示は「対象外」。それだけ。
「最近こういうの多いらしいよ。偽造じゃないの?」
後ろの酔った男が近づいてきて、肩を小突いた。
桂一は腕を軽く振り払うと、店長がすぐ間に入った。
無理に笑顔を作った店長が酔った男に顔を向ける。
「申し訳ありません。こちらの確認の問題です。商品はそのままで大丈夫です」
レシートが出た。感熱紙の端が少し茶色い。店名、時刻、バーコード。
桂一はレシートをスマホで撮り、三つ折りにして手帳の透明ポケットへ滑らせた。感熱紙は光に弱い。閉じれば長持ちする。
店を出ると、夜風が顔に当たった。
歩道橋を上がる。道路は空いている。遠くでトラックがウインカーを刻んだ。
腕時計は二時七分を指していた。
サブ端末の画面で近くのWi-Fiを一覧にする。表示されていた名前が、一つだけふっと消えた。戻ってこない。
ポケットのスマホが震えた。勤怠アプリからだ。
ログインが必要です。
再認証に失敗しました。対象外です。
「同じ言い方だな」
桂一は、B7の方眼メモを一枚ちぎる。ミシン目で素直に外れる。
二時七分/西側/Wi-Fi一件消失/勤怠:対象外。
油性ボールペンの線が紙に沈み、裏に少し透けた。メモはのり付き付箋のように手帳の今日の欄へ貼る。
帰宅しても、眠気は薄かった。
机に手帳を置き、今日のメモを足す。二時七分。西側。コンビニ。対象外。紙は通る。
手元のクリアファイルには、以前コピーしておいた身分証のA4が数枚。薄いグレーのガイド枠が残っている。右上のパンチ穴は二つ。揃っていると落ち着く。
朝。高校の同級生、相沢由希からメッセージが届いた。
アルバムの集合写真が添付されている。
「タグが付かないんだよね。桂一だけ」
写真の中の自分は普通に笑っている。
でも、アプリは名前を出さない。
「今日、昼に少し時間ある? NPOの相談室、予約とれた。同意書もあるらしい」
「行く」
相沢は続けた。
「プリントも持ってく。L判の写真用紙ね。裏に店のロゴが並ぶやつ」
昼。市民NPOの相談室。
白いテーブルの上にICレコーダーが置かれ、赤いランプが光る。相談員の成瀬真が、落ち着いた声で言った。
「録音を始めます。お名前は仮名で構いません。昨夜のことから、順番にお願いします」
相沢はうなずき、昨夜の流れを簡潔に話した。
コンビニの年齢確認が通らない。
朝、勤怠アプリで「存在しない」。
銀行からは本人確認の再提出。
どれも、急だった。
成瀬は、A4の相談票を表に向ける。上に受付番号の小さなスタンプ欄。右下にチェックボックスが並ぶ。
「時間は?」
「だいたい二時すぎ。細かく言うと、二時七分前後です」
桂一は手帳を開き、昨夜のレシート写真と、Wi-Fiが消えた時刻の録画を見せた。
相沢はバッグからL判プリントを数枚出した。写真店の薄い光沢。裏面のチェーンロゴが斜めに並ぶ。
「場所は市の西側。高架の近く。電柱が二本、並んでいるところ」
相沢が地図アプリを指さす。
成瀬は、A3に出力した市街図を二つ折りにして取り出し、透明ポケットから滑らせた。折り目がまっすぐで、上に赤い丸シールが二つ。
同じ帯の中に、ピンが増えていく。
「同じ時間帯に、同じ帯で、似た表示が出ていますね。文言は『対象外』。紙のレシートは通る。ここまでで合っていますか」
「合っています」
「他には?」
「写真です。集合写真なのに、桂一の顔にタグが付きません」
「見せてください」
成瀬は同意書を一枚差し出した。再生紙のざらっとしたA4。左上に**『記録・公開同意』**と太字。
「この項目だけチェックを。個人情報は外に出しません」
相沢がチェックを入れ、署名欄にフルネームを書く。カーボン紙は使っていない。控えは複写式の受付票で渡された。
成瀬は、相談票に三つの項目を書き足した。
地理。時刻。番号。
横に小さく、**『紙→デジタル→紙』**とメモも入れる。
「原因を急いで決めつけないほうがいいです。まずは再現できるかを確かめましょう。安全を最優先で」
「やりましょう」
桂一は答えた。
成瀬は、A4のチェックリストを一枚プリントして渡す。タイトルは**『境界検証チェックリスト(2:07)』**。
□ 時刻の記録 □ 位置の記録 □ 通信の記録 □ 紙の証拠の確保。
四角は空欄のまま。埋めるのは夜だ。
「次の火曜、二時七分。高架のそばでテストします。僕が立ち会います。録音、録画、紙での記録。全部そろえます」
「お願いします」
相沢の声には、少し疲れが混じっていたが、迷いはなかった。
「紙のほうも準備しましょう。卒業アルバムのコピー(A4)、住民票の写し、レシートや診察券。紙で“同じ人”を固定しておく。オンラインが弾いても、窓口は紙で動くことがあります」
「わかりました。集めておきます」
打ち合わせは短く終わった。
成瀬は最後にもう一度、要点を復唱した。
「時間は二時七分前後。場所は西側の帯。表示は『対象外』。紙は通る。次は境界で検証。——この順番です」
相談室を出る。
廊下の掲示板には、イベントのチラシが画鋲で留めてある。端が少し反って、紙の層が見える。
西の空。高架の柱がまっすぐ並んでいる。
桂一は、A6の単票メモに一行足した。二本の電柱。境界。
やることは明確だ。
境界に立つ。
同じ時間に、同じ手順で、もう一度確かめる。
その夜、桂一はデータを整理した。
動画は三本。コンビニ前、歩道橋のWi-Fi、勤怠アプリの通知。
紙のファイルには、レシート、身分証のコピー、住民票の写し(右肩ホチキス穴)、手書きのメモ。
封筒には**『提出用』**と油性ペン。クラフト紙は丈夫で、角が潰れにくい。
机の端でスマホが震えた。相沢からだ。
「来週の火曜、私も行きます。危ないことはしない。録画担当やる」
「助かる。ライトと予備バッテリー、用意する。チェックリストも二部印刷した」
「了解。クリップボード持っていく」
短いやり取りで十分だった。
桂一は、プリンターのトレイにA4を補充してから、ノートPCを閉じた。
窓の外は静かだ。
この街では、こういう話を市影譚と呼ぶ。
噂だと思う人もいる。仕様だと言う人もいる。
どちらにせよ、次の火曜も二時七分は来る。
確かめればいい。
紙と録画をそろえて、境界で。
それで十分だ。