ログ003-03-2-3|思考構造/《死とは、本当に「終わり」なのか?》
《死とは、本当に「終わり」なのか?》
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死は、本当に時間の終点なのか?
子どもの頃、「死」はとても遠いものだと思っていた。
年を取ってから、あるいは悪い人に撃たれたときに起こるものだと。
でも大人になるにつれて、気づく。
――死は、そんなに単純なものじゃない。
生きていても、まるで死んでいるような人がいる。
死んでも、誰かの記憶の中で生き続ける人がいる。
生きながらにして、アカウントも、名前も、交友関係も、作品も、身体機能も、少しずつ「死んで」いく人がいる。
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「言葉としての死」は何を意味するのか?
「彼は旅立った。」
「彼女は安らかに眠った。」
「人は逝けども、名は残る。」
これらの言葉は、「死」を説明しているわけじゃない。
それは、残された人を慰めるための言葉だ。
私たちは「死」を語ることができない。
ただ「いなくなった」「もうこの世界にはいない」と言うしかない。
つまり、「死」とは状態ではなく――
「私たちが理解できる領域からの消失」だ。
でもそれは、死そのものではなく、「言語の限界」にすぎない。
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デジタル時代のゴーストたち
君は死んだ。でもLINEは残っている。
YouTubeには君が投稿した動画がある。
小説サイトのペンネームは削除されず、まだ誰かがフォローしている。
君の母親はスマホを開き、「この日の思い出」という通知を見て、泣き崩れる。
君の姿、声、言葉、データ――
すべてサーバーに残っている。
AIが君の喋り方を再現することすらできる。
……それでも、「君は本当に死んだ」のか?
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「身体の死」とは何だ?
昔の医学では「心臓停止=死」だった。
今は「脳死=死」と言われている。
けれど、脳死状態から数日後に目覚めた人もいる。
心停止から数分後に蘇生された人もいる。
10年間昏睡状態だった人が目覚めて、
「まるで死から戻ってきたみたいだ」と言った。
では彼は「死んでいた」のか?それとも「死んでいなかった」のか?
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私たちは日々、少しずつ「死んで」いる
小学生の自分、中学生の自分、
アイドルに熱狂し、毎日投票していたあの頃の自分――
もう、どこにもいない。
ある意味、それはもう「死んでいる」。
でも私たちはまだ生きているから、それを「死」と認めるのが怖いだけ。
誰かと連絡が途絶えたとき。
ある言葉が、もう二度と口に出せなくなったとき。
何かに対して、もう何の希望も持てなくなったとき。
それらはすべて、「死」だ。
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自殺とは何か?
自殺とは、「命を捨てること」ではない。
多くの場合、それは「世界から見捨てられた人が、自分で最後の印を押す」行為だ。
「どうして助けを求めなかったの?」
「もう少しだけ、我慢できなかったの?」
そう言う人は知らない。
彼が何度も助けを求め、そのたびに笑われ、無視され、
話題を変えられ、ラベルを貼られ、「大げさすぎる」と言われたことを。
彼が「大丈夫だよ」と言いながら、
こっそりGoogleで「安楽死 方法」と検索していた、その瞬間を。
もっと酷い場合は、一人じゃない。
家族ごと、「死んでいく」こともある。
うちの近くで起きた事件。
娘が詐欺に遭い、「借金を肩代わりするよ」「稼げる方法があるよ」と騙された。
結果、家の貯金すべてを失い、家も抵当に入れられた。
一家は誰にも助けを求めず、5人全員が命を絶った。
ニュースにはこう書かれていた:
「長女の投資失敗により、家族全体が精神的に追い詰められ、心中。」
でもそれは「情緒の崩壊」じゃない。
彼らは世界に、じわじわと「殺されていった」んだ。
それでも私たちは言う:
「なんで誰にも相談しなかったの?」
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死は「ある一瞬」じゃない。
それは「連続した段階的な現象」だ。
死にはいろいろある。
身体の死、心の死、言葉の死、記憶の死、社会的な死。
それは生きている間に起こることもあるし、
死んだ後にも、ずっと続くこともある。
君がこの世からいなくなっても、
この社会は「君を完全に死なせてくれない」。
――それが現代の「死」。
だから、死は時間の終点ではなく、
「君が“もう終わった”と定義された、その瞬間」なんだ。