2.恐怖と絶望
僕はぺたんと座り込んだまま動けなくなってしまった。
これからどうすればいいのかも分からないし、かわいそうな羊たちを見ていると胸が張り裂けるような苦痛に苛まれる。
必死に我慢していた涙が、ぽろぽろと溢れ出して止まらなくなってしまった。
メェとムゥも僕を見守るように静かに寄り添ってくれていたけれど、急に身体を離して僕の目の前に立ち塞がった。
「え……どうしたの……?」
僕はあまりの出来事に気を取られてばかりで、何も気付けなかった。
そっと顔をあげると、目の前には僕よりも何倍も身体の大きな熊が両腕を上げて僕たちを威嚇している。
僕の前に恐ろしい脅威が迫っていたのだ。
「く、熊……? 違う、ただの熊なんかじゃなくて魔物……」
情けないことに身体がガクガクと震えだす。僕には何の力もないし、恐怖で身体は固まってピクリとも動かない。
このままではいけないことは分かるのに……僕よりも何倍も怖い思いをしているはずのメェとムゥだけが恐ろしい大きな熊の魔物の前に僕を守るように立っていた。
「メェ、ムゥ! ぼ、僕のことはいいから、君たちだけでも逃げてっ! 僕はもう……」
悲しくて辛くて。もう、どうしていいか分からない。
だったら、可愛そうな羊たちと一緒に……そう思って全てを諦めた瞬間。
メェとムゥは大きな鳴き声をあげた。
まるで、僕に触るなと言わんばかりに熊の魔物へ突進していく。
「や、やめてっ!」
僕は叫ぶことしかできない。
熊は血のような赤い目と獰猛な牙が生えた口を大きく開けて吠えると、メェとムゥに向かって大きな腕を振り下ろす。
僕の目の前で、大好きな二匹の身体は熊によって無理やり地面へ転がされる。
傷ついても、メェとムゥは熊の魔物へ立ち向かうことをやめなかった。
「お願いだから……っ! もう、やめてっ!」
僕の声なんてお構いなしにメェとムゥは勇敢に戦い、そして……熊は再度大きく腕を振りかぶって二匹を地面に叩きつけた。
その身体が地へ叩きつけられるまで、僕は何もできなかった。
なんて、無力なのだろう? 悔しいし、本当に情けない。
羊飼いなのに、大切な羊を守ることもできないなんて……。
「嫌だ……そんな……っ」
涙は溢れ続けて止まらないけれど、僕は自分の両足を思い切り叩く。
情けなく震える足を無理やりに動かし、這いつくばるようにメェとムゥの側へなんとか駆け寄る。
二匹は血だらけになっても、それでも熊の魔物に立ち向かおうとしていた。
ぜぇぜぇと苦しそうな微かな息遣いだけが聞こえてくる。
「もういい……いいんだよ? 守ってくれてありがとう。僕は何もできないけれど……最後まで一緒だからね」
彼らの呼吸が細くなっていくのが分かり、悲しみで心が塗りつぶされていく。
それでも熊の魔物は、僕たちを襲うことを諦めてはいないようだった。
グオォォという恐ろしい雄叫びをあげて、また両腕を振り上げる。
僕は自慢の白い毛が真っ赤に染まり呼吸も感じることができなくなった二匹の身体をぎゅっと抱きしめ、訪れる絶望を受け入れる覚悟を決めて目を閉じた。
だけど――僕が想像した最後の時はなかなか訪れない。
僕は両目を閉じたまま震えながら、愛しい羊たちを抱きしめたまま固まっていた。
すると、恐ろしい轟音がしてギャンッという声があがる。
「……自我を忘れ、暴れまわる魔物よ。お前は魔物であって魔物にあらず。よって、我が責を持って裁きを下そう」
低く響く声は、男性のものだろうか?
威厳のある声色は僕の身体をこわばらせる。ズンっという音とともに大きな何かが倒れたことが分かった。
「そこにいるのは、人間か? 顔を上げよ」
まさか話しかけられるとは思っていなかったけれど、この声に逆らってはいけないような迫力があった。
僕は震えながら静かに顔をあげる。
目の前には、頭に立派な大きな黒い角を生やした男性が立っていた。
その姿はどこかで見たような貴族のような姿でもあり、黒く上品な衣服は目の前の男性の威厳を際立たせている。
長く艶のある黒い髪と整った顔は冷たい表情だけど、なんて美しいのだろうと素直に思った。
彼は長いマントをうっとうしそうに払い、僕のことを紅の双眸で値踏みするように射抜く。