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物心ついた時から続けている、日課がある。
朝、日の出と共に起きて、台所仕事で使う水を、井戸でくむこと。
その時ついでに顔も洗って、歯も磨く。
母さんについて走り込みをして、素振りをして乱取り稽古もして、井戸から汲んだ水を被って汗を流す。
そんな生活を続けていたおかげか、母さんが丈夫に産んでくれたおかげか、今まで風邪をひいたことは一度もなく、その日課が途絶えた日は、一日としてなかった。
……なんだけど、昨日無事に成人の儀を迎えて、大人になって一日目の今日。
記念すべき日だと言うのに、日課をサボってしまった。
朝目を覚まして、驚いた。
確かにいつもより寝るのが遅かったけれど、既に外からは日が差し込んでいて、窓がとても明るかった。
一緒に寝たはずの両親が、揃ってお布団にいないことに一番驚いた。
特に父さんは、寝坊をすることが多い。
それなのに、いつもは誰よりも早く起きるボクが、その父さんよりも遅く起きてしまった!
出端を挫く、ではないよね。
誰かに何か言われたり、邪魔をされたんじゃないもの。
ああ、頭がまだ完全に起きていなくてうまく回らないせいか、混乱しているせいなのか、言葉が上手く出てこない。
とりあえず、下に降りよう。
今は果たして、何時くらいなんだろう。
父さんと母さんは、先に朝ごはん、食べちゃったかな。
寝台から慌てて降りようとしたけれど、起き上がった途端、全身に走った激痛で、せっかく上体を起こしたのに、再びお布団に寝転ぶことになる。
こんな酷い筋肉痛、初めてだ。
ちょっと待って。
本気で起き上がるのしんどい。
これは、父さんに治癒術をかけて貰わなければ、起きることすらままならないかもしれない。
治癒術をかけてしまうと、うまく筋肉にならないから、耐えられるなら耐えるべきだと、以前父さんに言われたことがあるけれど……これは、無理。
関節まで痛いし、熱を持っている。
ただそれを、どうやって父さんに伝えればいいのだろう。
階段を降りなければならないけれど、きっと、いや確実に転がり落ちることになる。
赤ちゃんの頃は、上手に怪我なく器用に落ちたものだと言われたけれど、今は体重もあるし、背丈だって伸びてるし、さすがに無理だろうなあ。
とりあえず這って階段の所まで行って、大声を出して救助要請をしようかな。
料理をしている最中じゃなければ、気付いて貰えるだろう。
ズリズリとほふく前進にもならないゆっくりとした速度で、這いつくばってなんとか微塵程度ずつ前に進む。
今のボクはきっと、棘亀よりも遅い歩みをしているに違いない。
やっとのこと辿り着いた階段の下からは、誰の声も聞こえない。
気配も、ない。
母さんが出掛けるのは分かるけど、こんな朝から父さんが家の外にいるなんて、滅多にないことだ。
あ、ボクが朝起きなかったから、料理に使うお水がなくて汲みに行っているのかな。
仕方がない。
助けがくる見込みがないのなら、一段一段、座って降りよう。
それなら、転げ落ちる心配をしなくていい。
いや、それだと屈伸運動をすることになって、足への負担が大きい。
棘蟹みたいに、横歩きをしよう。
いつもの何倍も時間をかけて、ゆっくりと一段ずつ確実に降りた。
一階に降りる頃には、この痛みに慣れてくれないかと思ったけれど、やっぱ無理。
椅子に座る、その瞬間さえ痛みが酷い。
外から聞こえてくる物音に安心してしまったのか、崩れ落ちるように、机に突っ伏した。
つま先から脳天まで、満遍なく痛い。
涙が滲んできた時、扉がガチャリと開かれた。
「あら、おそよう。
……お父さんは?」
いつも通り鍛錬後の水浴びをして、でもいつもと違い手拭いを持った父さんがいなかったためか、母さんは全身ずぶ濡れのまま、袖で顔を拭って家に入ってくる。
昨日きれいにしたばっかりなのに。
「おはよう。
……せめて服の水、絞りなよ」
「あら、お寝坊して起きてきたのにお小言なんて、随分な大人になったのね」
う”っと言葉に詰まる。
その通り過ぎて、ぐうの音も出ない。
いつもと違って、元気もなければ言い返しもしないボクに違和感を覚えたのか、母さんが心配してくる。
単なる筋肉痛だと返したけれど、ようは筋繊維が断裂して炎症を起こしている状態だから、これだけ酷いと発熱するし、筋肉の防御性収縮によって関節を痛めてしまう。
十分に冷やすか、回復薬を飲むべきだと諭された。
まさかの母さんに、言語で理解をさせられた。
さすが肉体系、ということかな。
とりわけ筋肉に関しての知識は、母さんは父さんのそれを凌駕する。
本の知識だけではなく、自分の経験則も含まれているので、とても具体的で有用な助言を多くもらえる。
お陰でボクは筋肉はそこそこついているが、身長は同年代のそれよりも大きめを保っている。
小さい頃から赤身の硬い筋肉を付けすぎると、身長が伸びにくいんだって。
柔軟性が損なわれて怪我をしやすくなるし、いいことがないからと、結構慣れるまでは口やかまし……細かいところまで助言をくれた。
重ね重ね、ありがたいことである。
おかげでこんなに大きくなりました。
まだまだ父さんにも母さんにも、その背は追いつけていないけれど。
目指すは二人の身長を追い越すことだ。
症状や程度を聞かれたので答えたら、無言で青臭い回復薬を渡された。
冷やすだけでは不十分だと判断されたらしい。
自覚はあったけど、やっぱり昨日、張り切りすぎてしまったみたい。
「あのさあ、透?
昨日アタシの……紙? に書かれてる数字、いじったとか何とか言ってたじゃない?」
「うん。
もしかして、なんか体調悪くなったりした?」
スキルの特性もろくに理解しないまま、人に使ったのは間違っていただろうか。
父さんも母さんもボクに甘いのだから、いいか聞かれたら許可を出してしまうのは、ある意味当然のことだった。
せめて自分の数値をいじって、最低でも一日二日は様子を見るべきだったかな。
「ううん、逆、逆。
めちゃくちゃ調子いい。
しかも鍛錬の結果がすぐに身につく感じっていうか……最近ちょっと伸び悩んでたんだけど、なんか、何につまずいてたのか分かんない位に、成長を実感してるって感じ。
技のキレもいいし……本当に、数字を足しただけなの?」
「……最近、数の計算してなかったから、正直、分かんない」
「あ〜……それは、仕方ない」
頭を使うことはてんでダメダメな母さんが、分かりやすく目線どころか顔を逸らした。
両手の指で数えられる分はなんとかなったけど、母さんの数値は二桁、三桁の計算が多くて、いまいち自信が持てない。
しかも沢山ありすぎて、最後の方はおざなりにしてしまった感が否めない。
数字の増え方に注視していなかったし、もしかしたら何か余計なことをしてしまったのかも。
ただ分かりやすく、昨日全ての数値を足して作った空欄に、幾つかの数字が再び表示されている。
確かに、なんか違和感を覚えた時が、あった気がするんだよね。
昨日したことを振り返りながら、足された数字に触れてみる。
今日はボクがいなかった分、距離も速度もいつもより上乗せした鍛錬だったのだろう。
書かれている数字こそ小さいけれど、ボクが昨日何時間もかけて表示させた数よりも、多くの数字が並んでいた。
ちょっと悔しい。
効率的な鍛え方があるのだろうし、元々の筋肉量が違うのだから、鍛えるために出来ることだって違う。
頭では分かっていても、胸のあたりがモヤモヤしちゃう。
これだけ数字が増えているのだ。
打ち込みも相当しただろう。
オリギナーレに被せた兜の凹みが増えていないか、あとで確認してみよう。
昨日の話を聞いたあとだと、付けられた凸凹の数だけ恨みが込められているんだろうなと考えると、ちょっと哀愁漂って見えそうだね。
「そうそう、オリギナーレの兜と鎧、ぶっ壊しちゃったからさ。
鍛さんの所から修復戻ってくるまで、打ち合いはアタシとやろうね」
凹むどころか、壊してしまったらしい。
金属鎧だよ。
え、壊れることってあるの?
昨日あれだけ石を投げても、ボクの攻撃では小さな傷しか付かなかったのに。
悔しいなあ。
そう思いながら、ついっと予備欄に+表記されている数字を、隣の数字と重ねる。
一個一個、主要欄の数字に移動させると手間がかかるので、予備欄にある数字を最初に足してしまうのが、既に癖になっていた。
昨日、どんな触り方をした時に、変だと思ったんだっけ。
特に意識をしたわけではないけれど、確かに今、数字に触れたら不思議な挙動をした。
触り方が違ったのかな?
どうやって触ったっけ?
もしかしたらこのせいで、結果が変わってしまったのだろうか。
素早く移動させると、単純に足し算になる。
ゆっくり移動させても……変わらないな。
どうやればさっきみたいに数字が動くんだろう。
数字に指を置いたあと、何秒かそのままでいたら、プクっと数字が膨らんだ。
しかもそのあと、なんか左右にフルフル震えている。
なにこれ!?
指を離した途端、何事もなかったかのように落ち着いた。
数字が挙動不審になるってどういう状況?
数字も風邪をひく?
そんなことないよね。
再び数字を震えている状態にして、そのまま、隣の数字に移動させて重ねてみる。
「……母さん、三足す三っていくつ?」
「アタシに計算させないでよ。
いち、にぃ……ろく?」
「やっぱ、そうだよねぇ?
なんかね、三と三を合体させたら、九になった」
「……なんで?」
「分かんない」
震える数字とそうじゃない数字があるのも、意味が分からない。
紙の上でふらふら動かしていたら、消えてしまった数字もある。
小さい数字だけど、一体どこに行ってしまったんだろう。
ボクでは仮説を立てることすら出来ない。
とりあえず、母さんの調子はとてもいいと言うことなので、害がないならいいか。
そういうことにしておいた。
父さんが不在なので、回復薬が効いて動けるようになったボクが朝ごはんを作って、母さんが水汲みを担当することになった。
ほら、母さんは『暗黒料理の作り手』だから。
それってつまり、光の精霊様が認めるくらいに、凄まじい料理を作ってしまう人だっていうことじゃない。
多少危なっかしくても、ボクが作る方がまだマシなものができる。
父さんみたいに、上手には作れないけどね。
火熾しは危ないからまださせられないと、母さんがそこだけ担当してくれた。
大人になったとは言えど、着火道具はボクの手には、まだ少し大きい。
素直に甘えさせてもらう。
包丁が入っている棚は、ボクが覚えていないくらい昔に、いたずらをしたことがあって、それ以降毎日必ず、父さんによって封印が施されている。
そのため適当に葉物野菜を手でちぎって炒めたものと、スクランブルエッグを作った。
オムレツにしようと思ったんだけど、形がまとまらなかったの。
ご飯を作っている間に父さんが帰ってくるかもしれない。
そう思って多めに作ったけれど、食べ終わってもまだ、玄関の扉は開かれない。
書き置きすら残さないで、こんな朝早くからどこかに行くなんて、余程のことがあったのだろうか。
その割には、喧騒が村から聞こえてこない。
耳をすまして聞こえてくるのは、木々の葉ずれに混ざって、遠くの方から雨が近付いてきている音だけだ。
それに余程のこととなれば、大抵は魔物が村の近くに出没したという話ばかり。
母さんがここにいる時点で、違うよね。
何もないと、いいのだけど。