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「積もる話もあるでしょうし、お湯が冷めてしまうといけないから、二人で入っていらっしゃい」
そう言って家の中から声を掛けてきた父さん。
まさかこんな早くお風呂が沸くとは思っていなかったから、とりあえず汗を流して土埃を払ってしまおうと、井戸水を頭から被った直後のことだった。
むしろ風呂釜を溶かしてしまったせいで、少し遅くなったのだと謝罪をされた時には、言っていることがちょっと理解できなかった。
浴槽って、溶けるものだっけ?
形成する時にはそりゃ溶かすだろうけど、それ以外で溶けることはないはずだ。
お湯を沸かすよりも、もっとずっと高い温度じゃないと溶けないんだもの。
日常生活では、まず遭遇する機会のない、かなり特殊な設備がなければ出せないような高温のはず。
お風呂を沸かす時間を短縮させようと、精霊様の力を借りてしまって手加減を間違えてしまったそうだ。
精霊様の力って、凄いね。
母さんの怪力による破壊行動もそうだけど、力を持っていると、ふとした時に加減を忘れてしまって、大変なことになるんだな。
ボクにはそこまで特出した力はないから、その不便さは理解できないけれど、我が親ながら、同情を禁じ得ない。
二人で入るように言われたけれど、何年か前からは、ずっと一人で入ることが当たり前だった。
たまに父さんと入ることはあったけど、母さんとなんて、随分一緒に入っていない。
母親に対してなんてことを、と思われるかもしれないが、母親だとしても、異性だよ。
しかも母さんはとびきりの美人で、体躯は年齢に似合わず衰え知らずで、とても健康的で均整がとれている。
芸術家が見たら石像を掘らせてくれと、土下座して頼み込んでくるような、そんな魅力的な人なのだ。
ドキドキするなと言われても、到底無理な話である。
しかも大人になる前にと、男女に別れて肉体的な面で大人になるとはどういうことか、教会で勉強をしたばかりだった。
精通も済ませているボクとしては、意識するなと言われても難しい。
そういう対象に見ているんじゃないよ。
断じて違う。
そんなことになったら、父さんに消されてしまう。
決して、冗談じゃない。
一年が無事に終われるからと、労いの意味も込めて毎年年末に、村総出で宴会が行われる。
持ち寄りのご馳走が振る舞われるから、お酒が飲めない子供も参加する。
普段仕事で村にはいない人も参加するから、いい交流の場になっている。
大人は自分の武勇伝を語りたがるからね。
お酒が入っていることもあり、多少大袈裟な語りになるけれど、身振り手振りが交えられた、村の外で起きた出来事の話は、ちょっとした冒険譚だ。
そのお話は、村から出られない子供たちの娯楽になる。
ボクもその日、当然のように参加していた。
そこで村で誰が一番いい女か。
そんな品性の欠片もない話題が出た。
そして母さんの名前が上がった途端、宴会場が凍りついた。
空気的な話ではなくて、実際に。
母さんに対して下品な評価をした男性は、気が付けば手が氷漬けになっていた。
一歩でも間違っていたら、その手は今使い物になっていないと思う。
お互い酒が入っていたせいで冗談が過ぎたのだと、村長のとりなしでその場はおさまった。
あの父さんの目は、冗談で済ませられるものじゃなかった。
母さんをそういう目で見る人には、父さんは容赦しない。
それをよく理解した事件だった。
母さんも含めた女性陣は、お酒が入った男性の相手はしたくないと、別の家にいた。
食べるものの嗜好も違うしね。
だから母さんは、このことを知らない。
男性陣も悪ふざけが過ぎたといって、話題には出さないし。
子供が口に出さない限り、知る機会は訪れないだろう。
それもあってボクは水浴びする時も、母さんから身体ごと視線を逸らして見ないようにしてきたし、母さんがおおらか……と言うよりは、あまりにも無頓着で無防備だから、寝ている時に寝間着がめくれ上がってしまった時なんかも、率先して肌が露出しているのを発見したら隠している。
紳士的な振る舞い方は父さんを見て学んでいるからね。
それくらいはして当然だ。
そんな母さんと、お風呂。
ボクは今日から世間では大人になった。
なのに、いいのかな。
ほかでもない、あの父さんが許可を出しているのだから、いいのか。
……本当に?
少し、後ろめたい気持ちになる。
せめて目隠しをするべきなんじゃないのかな。
父さんに真剣な顔で聞いたら、「さすがに親子で気を配られすぎると、逆に心配になります」と言われてしまった。
そこまで気を使わなければと思わせる一番の理由は、間違いなく父さんにあるのだけれど。
恋愛対象には決してならない母さんを、一人の女性として扱わなければ、生命の危険を覚えなければならないと学習させたのもまた、父さんなのに。
おかげで今のところ、ボクには反抗期が訪れる兆しすらない。
冗談でもなんでもなく、生命にかかわるし。
父さんが気にしないなら、いいか。
母さんなんて、言わずもがなだし。
背中の流しあいをする時に気付いた、母さんの背中の傷。
世界を救ったのだと村の大人が讃える英雄譚は、口にされる物語のように、簡単で単純で易しい話じゃない。
どんなに綺麗でも、母さんの素肌はあちこち傷痕だらけだ。
汚いだなんて思わないけれど、女の人なのに、こんなに痛々しい痕が残っているのは、見ていて辛い。
母さんの冒険の旅には、父さんも同行していた。
癒しの精霊術を使える『賢者』がいながら痕が残ってしまったような傷。
それはとても辛くて、痛かったに違いない。
特に背中の傷は大きく、くっきりと残っている。
下手をしたら、死んでいただろうと、容易に想像出来るほどのものだ。
「ねぇ、母さん」
「ん? なあに?」
「身体の傷、消せるなら消したい?」
「ええ? なに、突然。
あ、スキルで消せるかもって思ったの?
いらない、いらない」
それは誰かを守った勲章だったり、自分が判断を間違えて作ってしまった戒めだったり、色んな意味を持つものだから、消せる方法があっても消したくないと言われた。
見たら辛いことを思い出すものだってあるけれど、それも全部含めて、母さんの積み重ねてきた歴史だから。
傷痕は、母さんが生きてきた、そして今生きていることの証明みたいなものか。
死んだ人の傷は、癒えることがない。
膿んで虫が湧いて、腐って土へと還るだけだ。
母さんの身体についているものは、生きているからこそ、塞がって痕を残すだけに留まっている。
誇りこそすれ、恥ずかしがるようなものではないんだ。
「軽率なことを言って、ごめんなさい」
「透はお父さんに似て、難しい言葉を沢山知ってるね。
痛そうとか、辛そうとか思ってくれたんでしょ?
ありがとう。
優しいね」
「それに対してもだけど……その、夕飯の時の……」
散々練習したし、余計なことを考えないように身体を動かして頭を空っぽにしたのに、いざと言う時に、言葉がうまく出てこない。
優しいって言ってくれた直後だから、余計に言い出しにくいのかも。
だって母さんを傷つけた言葉は自分勝手で、相手を気遣う優しさなんて、これっぽっちも考えていなかった。
スキルを貰って、浮かれていたのだと思う。
大人になったのだから、もっと賢く行動出来れば良かったのに。
「そうやって、ちゃんと反省して、謝れるんだ。
透は十分、優しいし、えらいよ」
頭を撫でてくれる母さんは、いつも通り朗らかで、ニッと白い歯を見せた快活そうな笑顔を向けてくれた。
「ごめんなさい。
それと、許してくれて、ありがとう」
「え〜?
許してないかもしれないよ」
意地悪そうにニヤリと笑って、身体を洗う手拭いから泡をこそぎ取って頭に乗せられた。
さっき洗い流したばっかなのに!
しかも乗せた泡で何やら遊んでいるらしく、シュワシュワと頭上で音がする。
何をしているのか気になるし、抗議をしたいけれど、目を開けてはいけない。
豊満な双丘が視界いっぱいに広がって、鼻血でも出したら大変だ。
ただでさえ、さっきから当たって大変なのに。
「あはは、う〇こ〜」
「子供か!」
抵抗せずにじっとしていたら、あろうことか頭の上に排泄物を模されてしまった。
さすがに嫌。
叫んでボクは、桶に汲んであったお湯を一気に被った。
「お母さんとお父さんが、昔旅をしていたことは、知っているでしょ?」
「うん、村の人たちが、よく話してくれる」
母さんを背もたれにする形でお湯につかり、一息つかないままに母さんが話し出した。
父さんが二人でお風呂に入るよう促したのは、最初から二人で話をさせるためだったのかもしれない。
だけど、両側頭部の柔らかい感触のせいで、話に集中出来ない。
対面して座ろうとしたのにそれを固辞したのは、顔を見ながらだと話しにくかったからなのかな。
だとしても、お年頃の息子に対してこの格好をさせるのは、勘弁して貰いたかった。
真面目な話をしているのに、身体が反応してしまわないかがとても心配だ。
「世間で語られてることって、事実と結構違うものでねえ。
だけど、それを否定して回れるほど、アタシもお父さんも、まだ当時のことに向き合えていないのよ」
十年以上前の出来事だけど、現実をまだ、受け止めきれていないのだそうだ。
それが、ボクの口にした『魔王の親友』という言葉で、突然向き合わざるを得なくなった。
それで混乱して、飛び出してしまったと、せっかくのお祝いの席だったのにごめんねと、謝られた。
「ボクの方こそ、ごめんなさい。
父さんにも書かれていたから気になってはいるけど……話せないなら、話したくないなら、聞かないよ。
心の整理がついて、辛い思いをせずに言えるようになったら、冒険の話も含めて、二人から直接聞きたいな」
「え? お父さんにも書かれていたの?」
「うん。
えっと……『魔王の親友』の他にも、いくつか」
本人の許可なしでベラベラ喋っちゃ駄目だと、反省したばかりだったのに。
迂闊だった。
……と言うよりも、ボクは馬鹿なんじゃないだろうか。
しても意味のない反省だった。
馬鹿と言うよりも、愚かかもしれない。
「あの人はてっきり……」
そう言ったっきり、口の中で思考を呟き始める母さん。
こうなったら、しばらくはこのままだ。
たまに単語は拾えるけれど、なんて言っているのかは、いまいち分からない。
口にしながら自分の考えをまとめるのは、母さんの癖だ。
自分では気付いていない。
集中すると、自分の世界に潜り込んでしまうから、今お風呂に入っていることも、ボクが一緒にいることも、頭からスッポリ抜けてしまっている。
本人は口に出しているとは思っていないから、この状態になっている時に聞こえた言葉をあとで「こう言っていたよね」なんて言おうものなら、「透は思考を読めるの!?」と心底驚かれる。
盗み聞きしているような気分になるから、この場から一刻も早く離脱したい。
のぼせてもいけないし。
だけど、母さんの両腕はボクの腹の前に回されている。
意識を向けていなくても、この腕に拘束されては、逃げる術はない。
手持ち無沙汰なので、母さんの紙に書かれている数字を整理した。
欄が埋まっていたら、整理しない限り数字は増えない。
それはさっきの実験で確認済みだ。
得しかないのだから、許可を取らなくても、していいだろう。
さすがというか、攻撃力や防御力なんかが、ボクの何倍も数字が大きい。
気になったのは、生命力を表す棒と数字だ。
ボクの表記と少し違う。
数字の大きさが違うのは当然として、斜線を挟んで左右に書かれている数字が違うし、棒の表記も、なんか、右端が少し削れて色が変わっている。
家を飛び出す前って、こんな風になっていたっけ。
+の値を全て統合する頃には、頭がクラクラしてきた。
計算の練習をしながらだと、知力の数値が上がるかなと思ったのだけど、そのせいで時間が思った以上にかかった。
失敗したかも。
思考海に沈んでいる母さん。
物理的に浴槽に沈みそうなボク。
これはちょっと、まずいんじゃないだろうか。
上がってくるのが遅いからと、様子を見に来た父さんが声をかけることで、母さんの意識が浮上してくれたおかげで助かった。
慌てた母さんに顔面に冷水を掛けられた時には、溺れる前に死ぬかと思ったけれど。