20
初めて入る宿屋は、いくつも横並びに個室が配置されていて、今まで見たどのお家よりも広くて大きかった。
見上げれば外観に応じた階段が、長く高く、はるか上まで続いている。
受付の机は高くて何を書いているのかサッパリ分からない。
すぐに興味を無くして周囲を見回す。
手続き待ちの人がくつろぐ場所だろうか。
大きな机と、椅子が同じ高さなのが不思議。
使いにくくないのかな。
飲み物蹴っ飛ばしちゃわない?
この植物は何のためにあるの?
なんで昼間なのに燭台に火を灯しているの?
興味深々でウロウロしていたら、宿泊手続きを父さんに任せた母さんに回収されてしまった。
いつも通り片手でヒョイと持ち上げたあと、抱っこの形に持ち直した。
おすましさんしなきゃいけないもんね。
『針子』さんがそんな怪力なの、おかしいもんね。
「ツム、グ、ちょっと」
宿屋について気が抜けてしまったのか、“紡さん“と言いそうになってた父さんが、微妙に面白い。
うかつな父さんは珍しいので、思わずニヤついてしまいそう。
手招きされた母さんは、ボクを抱えたまま父さんの方へと向かう。
誤魔化しきれず口元が緩んでいたのか、父さんにコツンと小突かれてしまった。
唇を尖らせ、不平不満を表現すると、受付のお姉さんにクスクスと笑われてしまった。
ちょっと恥ずかしい。
「三人部屋以上は空いていないんだ。
どうする?」
「あら……お祭りの時期でもないのに、珍しいですね」
問屋のおじさんが勧めてくれた安宿なら満員御礼も分かるけれど、ココは布屋さん推薦の宿屋さんだ。
少し高いけど、個別で雇っている警備が常駐している上、衛兵さんの詰所が近い。
小さいながらも予約すればお風呂にも入れるので、女性や家族連れ、それと行商を生業にしている人なんかに人気なんだって。
追加料金は必要だけど、厩もあるし、荷預かりも責任持ってしてくれる。
細やかなおもてなしをしてくれるから、ある程度お金を持っている人や、短期の滞在者はこの宿を選ぶ傾向にあるそうだ。
とは言え、母さんが言うように、お祭りの時期でもないのにそんな宿を借りなければならないような外から人が、沢山来ることはそうそうない。
しかも個人の部屋は空いているのに、大部屋は一個も空いてないなんて、どんな偶然? って話なのである。
大抵の宿屋は個人部屋しかないから、ここに集中したと考えられなくはないけれど。
家族連れで旅をする人って、そんな多いのかな。
ボクたちみたいにワケあって家族で旅をしていたとしても、長期の道のりを経験している人なら、安宿を率先して選ぶ。
出費をなるべく抑えたいし、諍いごとが起きるようなら自分で対処出来る腕があるんだもの。
わざわざこの宿を使う理由がない。
ボクたちは今後の方針をしっかり詰めるための話し合いが必要だから、壁が薄い安価な宿屋じゃダメだねと、即却下された。
それに、ボクの生まれて初めて泊まる宿屋だ。
ちょっとくらい奮発してもいいだろうって、甘やかされた結果である。
家族連れ専用の広めの部屋があり、バラけて泊まらずに済むってちゃんとした理由ももちろんあって、この宿屋を選んだのに、目的の部屋が空いていないなら、別の宿屋に行くべきだろうか。
そう父さんは悩んでいるみたい。
しかしそうなると、一から探し直しになる。
父さんのとしては、警備体制がしっかりしているここが魅力的なのだろう。
ゆっくり眠れるのは、美味しい食事よりもお風呂よりも、なによりもありがたい。
母さんも久しぶりにお風呂に入れるかも、と浮ついていたし。
「二人部屋にして、寝台くっつける?」
「それもまぁ、ありですが……」
父さん? 口調が戻ってるよ。
ボクの提案は、イマイチ飲み込めないらしい。
しかし、二部屋取って、ボクと父さんで一部屋、母さんが一人で一部屋と言うのも、嫌らしい。
母さんと離れたくないんだね。
三人全員が離れて泊まるのは、論外だそうだ。
万が一奇襲があった時、ボク一人が寝ている部屋を襲われたら、対処が何も出来ない。
それはその通りだ。
鍛練を毎日していたとはいえ、ボクは魔物との実践も少ないし、人間相手なんてしたことがない。
妖兎みたいな小型の魔物を、母さん監視の下で仕留めたことはあるけれど、その時だって一対一の状況にして貰っていたから、辛くも勝利をおさめられただけだ。
女神教の襲撃者が村の子供たちにした仕打ちを考えると、そんな一人一人列を成して、手合わせを乞うように襲ってくるなんて丁寧なことはしないと、簡単に想像出来る。
そんなお行儀のいい襲撃者、そもそも襲撃者って言わない。
「ちなみになのですが……お風呂付きのお部屋をご希望でしょうか?」
「あるに越したことはない。
無いなら共用でも構わない」
演技口調に戻した父さんが、受付のお姉さんの質問に答える。
普通の三人部屋は空いていないけど、なんか特別なお部屋なら空いているとか言うのかな。
どんな仕様なのだろう。
「少々お待ち下さい」と奥に引っ込んだお姉さんを、待つこと暫し。
別のお姉さんが部屋へと案内してくれるそうだ。
結局、お部屋が空いていたのかな?
父さんも母さんも顔を見合わせるが、とりあえずお姉さんの後をついて行く。
不思議なのがこのお姉さん、宿屋の関係者じゃないみたい。
視ればスキル欄に『暗殺者』なんて怖いことが書かれている。
父さんと母さんを探している刺客……だとしたら、二人が警戒をしていないのはおかしいか。
疑問には思っているようだけど。
それにこのお姉さん、『奉公人』や『使用人』とも書かれている。
父さんたち以外に複数のスキルが書かれている人、初めて見た。
努力で身につけたスキルなんだろうね。
「こちらの部屋をお使いください」
沢山階段を登って案内されたお部屋は、とっても大きかった。
みっつのお部屋が連なっていて、中央が居間、右のお部屋が寝室、左のお部屋がお風呂や厠になっている。
「露台つきか」
「はい。
こちらの部屋で宜しければ、通常の三人部屋価格で提供致します」
何を悩むことがあるのか分からないけれど、父さんも母さんも、目配せをし合って黙り込んだ。
ボク一人が、意味が分からず首を傾げている。
仲間はずれみたいで、なんか嫌だ。
あとで何で悩んでいたのか聞こうっと。
結局この部屋で了承し、御礼を述べて父さんは案内人に金貨を渡した。
「多いです」と即座に突っ返されたけど。
次に渡した金貨は受け取っていたのは、何か違いがあったのかな。
「あ”〜!
シンドい!」
鍵をかけ“遮音“の術を施した父さんが、鎧を外して大の字で座布団が沢山乗っかっている長椅子に寝っ転がった。
普段ならそういうことしないのにね。
余程鎧が重かったのか、窮屈だったのか。
「紡さんを呼び捨てにしなきゃいけないのも、尊大な態度を取らなきゃいけないのも、何よりもこの先それを続けなければならず紡さんと透に嫌われてしまう可能性があるのが一番辛い!」
座布団を抱えて叫んでいるから、こもった声で聞こえたけれど、たぶんそんなことを言っている。
早口過ぎることもあって、自信がないけど……さすが父さん。
この状況で辛いことの筆頭が、母さんに嫌われないか、不快な思いをさせないかどうかなんだよ。
母さんへの愛が溢れまくってるね。
「はいはい、グチはいいから。
寝っ転がるなら、まず風呂入んな。
ここどう考えたって半貨じゃ泊まれない高級仕様だよ。
汚したら大変だ」
「一緒に入ってくれないのですか!?」
わお。
ガバッと起き上がった父さんの顔に、母さんの拳がめり込む勢いで直撃した。
痛いなんてもんじゃないと思うんだけど……父さん、生きてる?
ボクの心配をよそに、何事もなかったかのように起き上がってお風呂場に行ったので、きっと父さんは不死身なんだと思う。
母さんは剣を持って、露台と父さんが言っていた、大きな窓の外へと向かう。
幅広の――幅一メートルくらいかな? 足場が確保されていて、小さい椅子と机が置かれていて可愛い。
手すりに小花がついたツタが絡まっていて、その可愛らしさを二割増にしている。
ひさしがないから、晴れた日限定で、ここでちょっとお茶を飲んでね、みたいな感じなのかな。
あ、お風呂上がりに夕涼みしてね、ってことかも。
沢山階段を登っただけあって、街を一望できて、とても眺めがいい。
本来ならすごくお値段が高い部屋だって母さんが言っていたし、本当はお金持ち向けの部屋なんだろうね。
こういう展望も、その価格の一部に含まれているんだろうな。
お花の手入れ、しっかりされているもん。
小さな台所には茶葉が置いてあるし、寝室にはなんだかゆったりとココロが落ち着くようないい匂いがしている。
お高い部屋って凄い。
「つ……風呂、空いたよ」
窓が開いているのを見たからだろう。
父さんがよそ行き状態の口調になった。
“遮音“の効果は閉鎖された空間じゃないと効果が薄くなる。
どこに耳があるか分からないような、警戒を続けるべき今の状況なら、念には念をいれておくに越したことはない。
そう判断したのだろう。
窓を閉じた母さんに、ボクも一緒に入ろうと誘われた。
安全かまだ分からないなら、離れない方がいいか。
久しぶりのお風呂なら、一人でゆっくり入りたかったけど、仕方ない。
話し合いが必要だろうし、早めに上がろうと急いで頭と身体を洗おうとしたけれど、全っ然泡立たない!
久しぶりすぎて、どれだけ石鹸を泡立てても、髪につけた途端、みるみるうちに消えてしまう。
なんてこった!
食器の油汚れと一緒だ。
二回三回と洗わないと、綺麗にならないんだ……
ボク、しつこい油汚れなんだ。
水浴びは父さんの精霊術で毎日させて貰っていたから、ここまで汚れているとは思わなかった。
こんな汚れた状態でアチコチうろつかれたら、お店の人はさぞかし迷惑だったに違いない。
いつも通り泡立つようになるまで、しっかり五回も頭を洗ったら、流石に疲れた。
自分のついでと言って、母さんに身体を洗ってもらわなければ、ボクは垢まみれのまま過ごすことになっていたかもしれない。
久しぶりの湯船は、気が抜けて溶けてしまうんじゃないかって思うくらいに、すっごく気持ち良かった。
この気持ちいいお風呂を、相変わらず五分程度で出てきた父さんは、実はお風呂が嫌いなのかもしれないね。
だって出たくないもん。
ここに住みたい……
「一〇〇数えたら上がるよ!
はい、いーち、にーい……」
……母さんと一緒だと、のんびりつかれないのが残念だね。
こんな所でも、無駄がなさすぎる。