黒い羊のいる場所は
そのあとは特に問題や変わったことはなく、いつも通りに仕込みと食堂やお風呂の清掃をして寝た。商隊長も、なにごともなく帰って来た。
朝は日の出前に起きて、朝食の準備をする。
「おはよう、リッタちゃん」
「商隊長、おはよう」
「良い天気だねぇ、旅日和だ」
のほん、と目を細めた商隊長の前に、朝食を置く。レタスとハム、それから目玉焼きとパンだ。飲み物はレモネード。
「ありがとう」
商隊長に続いて次々と現れる商隊員にも同じ朝食を出す。
「うーん。レモネード、いつも通り美味しい。絶対売れるんだけどなぁ」
「お酒と違ってレモネードは運べないでしょ」
「そうなんだよねぇ」
目が覚めきっていないので、いつもよりのんびり話す商隊長と話しながら、主人たちの一行の朝食も出す。
「おはようございます、どうぞ、用意出来てますよ」
「ああ」
「飲み物は、コーヒーかレモネードが出せますが」
「コーヒー?」
「僕が仕入れてるんですよぉ。安くて美味しいイチオシの豆!」
ここ十年で浸透したコーヒーだが、それでもこんな辺境では珍しい。商隊長の言葉通り、この商隊が通りがけに安く売ってくれるから出せる品だ。
「それならコーヒーを、全員に」
「へい。用意するのでお待ち下さい」
これだけかとか粗末だとか文句を言うことはなく、やって来た主人たちは黙って食事を口にする。わいわいと親しげに話しながら食べている商隊の面々とは、対照的に。それでも主従で同じ机に座るのだから、まだ関係は良好なのだろうけれど。
「ごちそうさま」
「どうも」
黙々と食べて、静かに立ち上がる。主人がなにか、言おうとしたとき、
「リッタちゃん、いつものお願い」
「はいよ」
商隊長が、銀貨を数枚投げ寄越す。
「いつもの?」
「お弁当ですよ旦那さま」
やっとまともに頭が働き出した商隊長が、愛想良く答える。
「ひとり5スーで、サンドウィッチを持たせてくれるんです」
そう説明して商隊長は、よろしくねとあたしに手を振った。もう行け、と言うことだろう。
「出るときに渡すよ」
「待ってくれ」
それに手を振り返して行こうとすると、主人に呼び留められる。
「そう言うことならこちらも頼みたい」
差し出されたのは銀貨が二枚。
そんなにここの食事が気に入ったのか、携帯食料よりマシだからか。後者だろう。
「出発時に渡します」
「ああ。頼む」
「はい」
頷いて、空の食器を集めて今度こそ立ち去る。商隊長は、ここの料理美味いですよねと、気安く主人に話し掛けて、従者の顰蹙を買っていた。
「おかみさんが料理上手なんだけど、その背中を見て育ったからかな。リッタちゃんも料理上手に育ってね。いつ来てもここの料理は美味しいよ」
「あなたは、よくこの村に?」
「ええ。行商の道程上にありますからね。旦那さまはこれから国境越えですか?運が良いですよ。国境の向こうの町の宿の方が大きいけど、あそこは料理が美味しくなくて。僕は少し無理したり怠けたりしても、こっちに泊まるようにしてます」
厨房からでも、商隊長の声は聞こえた。
「それなら、十年前、この辺りに来た娘を知らないだろうか。私の妹で、探している」
「おや、妹さん、行方不明で?」
「ああ。辺境の、この村の修道院にいるはずだったんだが」
「修道院?いやあ、親父が商隊長だった頃からこの村には世話になってるけど、修道院が建ってたことはないですねぇ。娘さんってのも」
水音に負けずに響く商隊長の声を聞く。
「この村にいる若い娘って言ったらリッタちゃんだけど、リッタちゃんはおかみさんの娘だから、十年前に来たって言う条件にはあてはまらないですよね」
「なんだい、リッタがどうかしたかい」
おかみさんの声だ。
「やあおかみさん、おはよう。腰は大丈夫かい」
「あんたがくれた薬が効いて、今日は随分楽だよ。ありがとねぇ」
「どういたしまして」
「それより、リッタがどうしたい?なんか悪さでもしたかね」
「いやいや。相変わらず掃除は丁寧で寝具もふかふか、料理も最高の味で、お風呂の湯加減もばっちりだったよ。そうじゃなくてね、この旦那さまが妹さんを探してるとかで。でも、この村に若い娘っつったら、リッタちゃんだけだろう?」
商隊長とおかみさんの勢いに負けているのか、主人の声はしない。
「リッタがこの旦那さまの妹だって?」
あっはっはっはと、おかみさんの豪快な笑い声。
「んなわけあるかいね、あのこはあたしの娘だよ。こんな上品な旦那さまを生んだ覚えはないねぇ」
ツンと、鼻が痛む。
「そうだよね。と言うことだから、旦那さま、残念ですが十年前に来たお嬢さんは知りません。申し訳ない」
「そう、か。残念だ」
「まあ、僕は常連とは言えよそ者だから、村のひとに訊いた方が良いでしょうけど。僕がいない間に通り過ぎてたらわからないし。おかみさん、なにか知ってる?十年前に来た娘さんだって」
「坊や、ここに年間何組お客が泊まるか知ってるかい。娘さんなんて大勢来てるよ」
「そりゃそうだ」
見なくても、肩をすくめる商隊長の姿が浮かぶ。
「でも旦那さまの妹さんだから、たぶん上品な方だろうね。それなら多少絞れないかい?あと、宿じゃなく修道院を訪ねて来たって話だよ」
「修道院なんてこの村にはないよ」
「だよね。上品なお嬢さんは?」
「覚えがないねぇ」
「うーん、おかみさんが覚えてないんじゃ望みは薄いけど、忘れてるって可能性もない訳じゃないから、村で訊いてみたら知っているひとがいるかもしれませんけど」
ナッツが気になるなんて言って出掛けておいて。
涙がこぼれないように、目許に力を込めた。
あの惨めなばかりの場所に戻りたくないのはあたしのわがままで。このあたたかい場所で生きたいのもあたしのわがままで。あたしを差し出せば、みんな謝礼くらい貰えるかもしれないのに。
戻りたくない。戻りたくない。戻りたくない。
そんなあたしのわがままを、受け入れて貰えること。あたしはここにいて良いのだと、認めて貰えること。
それがどれほど幸せなことか、稀有なことか、あたしは痛いくらいに思い知っている。
泣かないうちにサンドウィッチをこしらえて、食器と一緒に顔も洗った。大丈夫。いつも通りに出来る。
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