鷺と案山子
そのきらびやかな集団は、突然辺境を訪れた。
馬車に掲げられた旗を見て、息が止まる。
忘れるはずもない。あれは。
馬車の扉が開き、中から綺麗な服の男が出て来る。年を重ねてはいたが、見間違えることはない。あれは、父の従者のひとりだ。
「そこの」
あたしは気付いたけれど、男は気付かなかったらしい。それはそうだ。あの頃のあたしと今のあたしじゃ、白鷺と案山子くらい違う。
「あたしですか、旦那さま」
「そうだ。十年前にここの修道院に送られた方を探している。修道院はどこだ」
「修道院なんて、ここにはないです。見ればわかるでしょう」
ああもう、十年も経っていたのか。
思いつつ、辺境の村を見渡す。
大きな建物はひとつきり。国境を越える旅人のための宿屋だ。
それ以外は、畑と民家、それから畜舎があるばかり。
「それよりもうすぐ日が暮れる。泊まるなら部屋を用意するけど、そうでないなら先を急いだ方が良い。この辺りは、夜は狼が出ます」
「狼」
「頑丈な家の中にいなきゃ、たちまち喰われますよ」
洗濯カゴを抱え直して、問い掛ける。
「誰を探してるんだか知らないけど、もしあんたみたいに上等な方をお探しなら、お門違いです。ここじゃそんな人間、生きてけない。一晩の宿を過ごす以外じゃあね。お探しのひとも、とうにここは通り過ぎたか、」
続きは告げない。おっ死んでるんじゃないかなんて告げて、不興を買って罰されたら堪らない。
「それで、泊まるんですか。先へ行くんですか。次の宿は、国境の向こうですよ」
「泊まろう」
馬車の中から聞こえた声に、背筋が凍る心地がした。忘れるはずもない、この声は。
いや、そんなはずはない。未だにこんな、若々しい声のはずが。
「若様、しかし」
「構わない。ご婦人、彼と私と御者。それから護衛が四人。部屋は何部屋借りられるだろうか」
馬車から顔は見せずに話す声へ、答えを返す。
「三部屋はお貸し出来ます。三人部屋がふたつ、二人部屋がひとつ。お貴族さまが泊まるような部屋じゃあ、ございませんが」
「それでも、狼からは身を守れるのだろう?」
「はぁ、まぁ。そりゃそうですが。泊まるなら、馬屋はあちらに。馬車も停められます。食事はいりますか?」
「夕食と、明日の朝食も」
馬車の中からの声に、馬車の外の男はなにか言いたげだったが、反論することはなかった。
「一部屋一泊1フラン。食事は、一人一食5スー。構いませんか」
「安いな」
「貴族御用達の宿と比べれば、そうでしょうね」
貴族向けの宿なら安くてもこの十倍はする。調度も従業員も食材も、なにもかもにお金を掛けているからだ。
「先に部屋を見てから泊まるか決めたらどうです。あとから泊まれないと言われても、お互い困るでしょう」
「そうだな」
馬車の扉が開く。
「若様」
「国境を越えた先の宿が、ここより上等な保証もないだろう」
従者の男を軽くあしらい、馬車から降りたそのひとは。
「部屋を見せて貰えるか、ご婦人」
「へい、こちらへどうぞ」
父にそっくりの顔。けれど記憶の父より若い。記憶の姿より年を取り、貫禄も出て来ているが、これは。
男を宿へと招き入れると、カウンターに洗濯カゴを置き、奥の壁に掛かる鍵を四つ選んで取りながら、説明する。
「風呂と手洗いは共用です。一階の右奥。左手前が食堂です。夕食は暮れ六つ。朝食は明け六つに用意します。客室は上、ああ、左の階段は今日もうお客がいるんで、右からどうぞ。三階の客室を開けます」
三階に上がる階段にも、鍵の掛かる扉がある。鍵を開けて、階段を昇った。
「手前の二つが三人部屋。奥が二人部屋です」
鍵と扉を開けて見せれば、男は室内を眺めて頷いた。
「うん。狭いが掃除は行き届いている。これなら問題ない。だろう?」
あたしについてきていたのは、主人と従者。それから護衛がふたり。
問い掛けられた従者の男は、渋々と言ったていで同意する。
「若様がそれで良いとおっしゃるなら」
「と言うことだ。一泊お願い出来るだろうか」
「へい。料金は前払いでお願いします」
「ああ」
部屋の小さな椅子に腰掛けた主人が、従者に手を出して財布を受け取る。財布を開けた主人は、お金を取り出すとあたしを手招いた。護衛のひとりが出て行く。主人の決定を、残ったものに伝えるのだろう。
手を掴まれ、握らされたのは1フラン銀貨が10枚。
銅貨は1枚で1スー。銅貨20枚で1フラン、つまり銀貨1枚。子供でも知っている常識だ。
食事代はひとり1食5スーだから2食なら10スー。それを七人分で70スー。フランに直せば3フランと10スー。3部屋分の宿泊代を足しても6フラン10スーだ。それに銀貨10枚も払っては、心付けにしても多過ぎる。
手の上の銀貨を3枚取って、椅子の横の小さな机に置く。
「残りのお釣りはあとでお持ちします。手拭いは風呂にあるんでご自由に」
「釣りはいらないよ。これも、持って行きなさい」
机の上から銀貨3枚を取って、主人があたしに差し出して来る。
「あって困るものでもないだろう」
「こんなに貰ったって、ほかのお客と違う扱いはしませんよ」
「構わない。大した額でもないから」
あなたにとってはそうでしょうとも。銀貨なんて、はした金だ。
「ほら、手を出して」
息を吐いて、首を振った。
「余計なお金はいりません。銅貨が邪魔なら、その分だけ心付けとして貰いましょう」
言って、机に四つ鍵を置く。
「階段の鍵も渡しておきます。風呂はあと一刻もすれば用意出来ますんで、夕食後にどうぞ。夜四つまでには済ませて下さい。あたしは下のひとに、馬屋を案内して来ます」
「ご婦人」
「なにかほかにご用が?」
言外に忙しいと告げれば、主人は面喰らった顔をした。
「いや、時間を取らせてすまなかった。一晩よろしく頼む」
「へい、じゃあ失礼します。なにか用事があれば一階にいると思いますんで、カウンターのベルを鳴らして下さい」
言って部屋を出る。従者はなにやら言いたげだったが、結局なにも言わなかった。
なんで、いまさら。
口に出す代わりに息を吐いて、歩き出す。お客がいる日の宿は忙しい。ぼやぼやしている暇はない。
つたないお話をお読み頂きありがとうございます
続きも読んで頂けると嬉しいです