辺境の黒い羊
「リッタ!リッタ!どこだい!?」
おかみさんの大声に、屈めていた身体をぴょんっと起こす。
真っ赤な屋根の上から顔を出し、ここだよーと告げた。
「まぁーた、あんたは、そんなところ登って」
「雨漏りがするって言うからさあ。待ってて。あと釘1本だから」
エプロンのポケットから釘を取り出して、トンテンカンと打ち付ける。仕上げに小さくおまじないを唱えて。
「よっし、エマお姉さん!これで雨漏りは大丈夫なはずだよ」
「ああ、ありがとうねぇ」
ひょいっと屋根から飛び降りれば、小柄な老婆がお礼にとレモンをふたつくれる。
ありがとうと手を振ってエマお姉さんの家の垣根を抜けると、呆れ顔のおかみさんが立っていた。シーツを洗うのを手伝っとくれと告げて歩き出しながら、あたしの煤けたスカートをはたく。
「屋根の修理なんか男衆に任せときゃいんだよ。女の子が屋根に上らなくってもさぁ」
「力仕事なら頼むけど、釘打つくらいならあたしでも出来るから」
「そう言ってあんた、嵐で飛ばされた牧場の柵だってひとりで直しちまったじゃないか。貴族のお嬢さんがやることじゃないよ」
「もう貴族じゃないよ」
送り込まれた辺境に、修道院なんてなかった。辺境の修道院送りなんて嘘っぱちで、行ったふりをして領地でひっそり暮らすのが、貴族の令嬢なのだそうだ。あるいは、誰か親戚の家に身を寄せたり、他国の血縁を頼ったり。辺境、なんてものは、ほかの貴族の目がないから。だから嘘の行き先にはぴったりで、実際にこんな、ろくな暮らしも出来ない場所に、貴族のご令嬢が来たりはしないのだ。普通なら。
あたしには匿ってくれる家族も、手をさしのべる親族もいなかったから、馬鹿正直にこの辺境で馬車を下ろされ、なけなしの荷物と一緒に置き去りにされて。
修道院だと言われた場所に入ってみれば、そこは国境を越える旅人のための宿屋だった。
途方に暮れたあたしを、住み込みの下働きとして拾ってくれたのが、その宿のおかみさん。いま、あたしの目の前で呆れた顔をしているひとだ。
おかみさんは、なんにも出来ないあたしに、ひとつずつ、丁寧に仕事を教えてくれた。
掃除の仕方。料理の仕方。洗濯の仕方。裁縫の仕方。水汲みに火起こしに、田畑の世話や、家畜の世話も。
なんにも出来ないと縮こまるあたしに、読み書きと計算が出来るだけ上出来だと、おかみさんは笑顔で言ってくれた。
ひとつずつ、出来ることが増えるたびに、助かるねぇと喜んでくれて。
服も食事も住まいも、なにひとつ上等なものはない。
髪も肌も日に焼けて、服は洗いざらしで、腕も脚も引き締まって、まるで畑の案山子のよう。
それでも、辺境は呼吸が楽だった。
おかみさんが笑ってくれるだけでいい。それだけで、あたしはちっとも、惨めではなくなった。
「あたしが男の子だったら、もっとおかみさんを助けられたのに」
「男の子なんてまっぴらさ。立身出世だなんだって、すーぐ村を捨てて出て行っちまうんだから」
おかみさんの旦那さんはもう亡くなっていて、ふたりいた息子も村を出て都会に行ってしまったと言う。
「まあ、こんな、なんもない村じゃ、嫌んなる気持ちもわかるけどねぇ」
「おかみさんも、ここは嫌?」
タッと駆け足でおかみさんの前に出て、両手を広げて回る。
「なんもなくなんてないよ。広い空も、一面の畑も、高い山も深い森もある。ここで見た星は今まで見たどんな宝石より輝いているし、ここのご飯は貴族の晩餐よりずっと美味しい。王宮の夜会で出るどんなワインも、エマお姉さん家のレモンで作ったレモネードには敵わないよ。チーズだってヨゼフ爺のがいちばん美味しいし、王都の水なんて、臭くて濃いお茶にしなきゃとても飲めないよ」
顔中使って心から笑って、きっぱりと言う。
「あたしは都会なんかより、ここの方がずっと良い。あたしはここが、大好きだよ」
こんな風に笑うなんて、家では許されなかった。はしたない、みっともないと。せっかくの2本の脚で駆け回ることも、みずみずしい果実や野菜に大きな口でかぶりつくことも、王都にいたあたしには許されないことだった。
華やかな服も、贅沢な食事も、豪華な家も夜会もない。
でもここには、ゆっくり流れる時間と、自由がある。
もちろん苦しいこともあるし、なにより、この幸せはおかみさんと言う庇護者に出会えたからのものであるけれど。
「変わった子だねぇ」
おかみさんが、呆れたように呟く。
けれどその言葉も声も表情も、あたしを惨めにさせることはなくて。
「金銀財宝よりも、手の届かない夜の星が良いって言うのかい」
「うん。そうだよ」
王都は夜でも明るく、高い外壁で囲まれている。切り取られた空は小さく、星明かりは街の灯りで掻き消される。煌々としたシャンデリアの光は、眩しさが目に刺さるようだった。
「金銀財宝なんて、手にしたって誰に盗まれるか不安になるだけだもの」
あの場所では、誰も彼もが昨日より今日、今日より明日と栄華を極めることを望む。そのために他者を平気で蹴落とし、他人の失敗を待ち望んでいた。
「それなら、誰に盗まれる心配もない、空の星の方がずっと良い」
誰かの悲しみを喜び、誰かの嘆きの上に置かれた椅子に座り、いつ自分が椅子の下に回るかと怯え続ける。栄耀栄華を追い求める者ならば、そんな生活も悪くないのだろう。
けれどあたしには、そんな生活馴染まなかった。
腕一杯でも抱えきれない幸せなんて、手に余るし恐ろしい。
「あ、ねえ、おかみさん」
道の脇の垣根越しに、植えられた木を指差す。
「アーモンドの花が咲いたよ。今年も春が来たね」
ここは雪が降らない代わりに、とても寒い。冷たく乾いた風が吹いて、火事が起きやしないかと、気を揉むのだ。
春は温もりと実り、それから雨を連れて来る。
久し振りに雨が降って、だから、エマお姉さんも屋根の傷みに気付いたと言うわけだ。
「そうだよ。だから晴れてるうちに、シーツを洗いたいんじゃないか。ほら、無駄口叩いてないでさっさとおし」
「はーい」
叱られても、笑って答えられる。
あたしにとっては、どんな栄華より、この暮らしの方が、ずっと。
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