幸福な羊
馬車が見えなくなるまで見送ってから踵を返し、宿の中へと戻る。扉を閉めて、そのまま座り込んだ。ぽたりぽたりと、スカートにシミが出来る。
ほんとうは。
ほんとうは、期待に応えてあげたかった。望む通りにして、認められ、愛されたかった。けれどそれは、あたしには不似合いなもので、ついて行けなかった。父の母の、望む娘でいられなくて、それがなによりふがいなく、惨めで仕方なかった。
でも、言えば良かったのだろうか。
どう思っているのか。どうしたいのか。
そうすれば、兄は理解しようとしてくれたのだろうか。手をさしのべてくれたのだろうか。
抱えきれないほどの幸せなんていらない、この、小さな手に乗るだけの、手のひら一杯分の幸せだけで十分なのだと、そう伝えられていれば。なにかが、変わっていたのだろうか。
あたしはヘンリエッタのままで、幸せになれたのだろうか。
でも、もう遅い。なにもかも。
あたしは知ってしまった。辺境の幸せな暮らしと、温かい愛を。もうあの場所に、戻りたいとは思えない。ここにいたい。ヘンリエッタを、殺してでも。
ヘンリエッタは死んだのだ。もう誰も、探しには来ない。あたしが、おかみさんの娘のリッタであることを、選んだから。
「ごめんなさい、お兄さま。ごめんなさい」
良い妹になれなくて。あなたの妹であることを、望めなくて。
兄は気付いて。だからこそ、気付かない振りをしてくれた。あたしの幸せが二度と、脅かされることがないように。そのせいで、家の評判を回復する手段を、失うことになるのに。
幸せでいよう。たとえ、母の望んだ形でなくても。兄から幸せには見えない姿でも。
幸せであれと、兄は祈ってくれたのだから。
涙をぬぐって、立ち上がる。掃除の続きをしないと。今晩も、お客さまが来て良いように。あたしは宿屋のリッタだから。
そうして生活を続けて、いつかは。
あたしを嫁にしたいと言ってくれる彼の言葉に、頷いても良いかもしれない。
つたないお話をお読み頂きありがとうございました