案山子の居場所
すでに出立の準備はしてあったのだろう。それから四半刻ほどで、ベルの音が聞こえた。
リネンの山を抱えて、階段を降りる。入り口にいた主人と従者は、そんな姿にぎょっとしたようだった。
「はいちょっと待ってて下さいね」
洗濯室にリネンを投げ込み、手を洗ってから用意してあったトレイを手に取る。
「はいお待ちどお、ひとり分ずつわけてあるんで、各自で荷物にでも入れてって貰えば良いかと」
「カゴ入りではないんだな」
「あれは定期的に使うお客さま用なもんで」
「それもそうか」
主人が控えていた護衛を手招き、従者が包みを五つ渡す。護衛四人と御者の分か。続けて従者がふたつ包みを取ろうとするのを、主人が止める。
残った包みを取らないまま、主人があたしを見下ろす。
「このまま戻って、両親には、ヘンリエッタは死んでいたと伝える」
ああ、あたしは死んだことになるのか。
ほっと息を吐いて、主人を見上げる。
「お墓はちゃんと、手入れしときますから」
「ああ。ほかの墓と変わらず、綺麗にされていた。すまない。私も家族も、もうここには来ないだろうから、変わらず手入れをしてくれるよう頼みたい」
言って主人が小さな袋を取り出す。大きさのわりに、重たげな袋。
「100フランある。金貨よりは、銀貨が都合が良いだろう」
「そんなに」
「それだけ払ったと聞けば、父母も私の話を信じるし、周囲への言い訳にもなる。悲劇の令嬢は残念ながら死んでしまっていたが、十二分な弔いはしたと」
あたしの手を取って、袋を握らせる。じゃらりと、中身がこすれる音がした。
「受け取ってくれ。あとから言い掛かりを付けることはしない。この場所のことも、言い触らしはしない。ただ」
主人が両手で、袋を握らせたあたしの手を包む。
「もしも誰かに死因を訊かれたら、狼に食べられたのではなく、病で亡くなったと。遺体が残らなかったと言うのは、その」
「わかりました。ほかの村のひとにも伝えておくよ」
「恩に着る」
遺体の残らない死に方は外聞が悪い。ヘンリエッタの名誉を守るために、このお金は口止め料も含まれると言うことだろう。だから黙って受け取れと。
理解して頷けば主人は、ほっとしたように手を離し、残った包みを手に取った。
「リッタどの、夕食も朝食も、とても美味しかった。昼食も、食べるのが楽しみだ」
「口に合ったなら、なによりです」
貴族から見れば貧相であろう食事に、彼らはいちども文句を言わなかった。
「……お前は、こんなに料理が上手かったんだな」
「え……?」
聞こえた呟きに、耳を疑ってぎょっとする。
「いや。リッタどののその小さな手からあんなに美味しい料理が出来るのは、まるで魔法のようだな。妹も、小さな手をしていた」
昼食の包みを見下ろして、主人が、もう兄と呼ぶことは二度とないであろう相手が言う。
「母は妹を、誰より幸せにしてやりたいと願って、だが、そんな幸せを、妹は望んでいなかった。ヘンリエッタにとっては、その小さな手に乗るだけのもので、十分だったのだろう。それなのに、私たちは」
過去を悔いるように目を閉じてから、兄があたしを見る。
「リッタどの。一晩、世話になった。あなたのその小さな手が、幸せで満ち続けることを、祈っている」
告げて兄は踵を返した。従者が深々と頭を下げてから、兄を追う。
呆然と立ち尽くし、扉の閉まる音に、はっとして、宿から駆け出る。兄はちょうど、馬車に乗り込むところだった。
「っぁ」
どんな顔で、何を言えば良いのか。もう、兄妹を名乗ることもない相手に。
「お気を付けて、いってらっしゃいませ」
絞り出して、頭を下げた。しばしの間のあと、ああ、行って来ると、声が降る。顔を上げれば、閉まる馬車の戸と、歩み出す馬。
「どうかお元気で」
他人より他人めいた相手へ掛ける言葉なんて、あたしだって持ちはしなかった。
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