第十二話 郷愁、強襲
レティシアが知らせを受け取るちょうど三時間前。
午前十一時、王都一の高級ブティックのアトリエが軒を連ねるエリザ通りに、普段は見ないような貴族風の大男が現れたとちょっとした話題になっていた。
もちろんそれはアレクサンデル・ヴェルグラその人のことであり、その傍らには使用人にコートを預ける可憐な黒髪の少女ベルティーユ……のフリをこなす忠次もいた。いかに外見が貴族令嬢であっても中身は男性である、見る者が見ればぎこちなさを覚える——はずだったが、忠次は見事にベルティーユになりきっていた。
というよりも、より普段のベルティーユに近い状態だ。おっとりしていても実は好奇心旺盛で、集中力があり、見たことのないものに関心を寄せるご令嬢。図らずして、その普段のベルティーユ像と今の忠次の心境が重なったことが、不自然さを打ち消していた。
それもそのはずで、見たこともないきらびやかさと大きさの街で、国一番と言えそうな大店に入り、艶々の絹や大掛かりで繊細な刺繍でできた、想像を超えたデザインのドレスの数々を目にすれば、遠い昔に実家の藍問屋で藍染めの布を手に取って見ていたころの記憶が蘇る。忠次の脳裏にしみじみと埃かぶっていた子ども時代の思い出と好奇心が浮かんできたのだ。
(こんなにまじまじと布きれに目が行くのは、何年ぶりかねェ。親父が目利きにっつって、よくいい反物を見せてくれたな……)
テーブルにある生地帳にそっと触れてみれば、指先だけで分かる上等さに、思わずはあと感嘆のため息が出てしまう。絹織物とも違う軽い素材に、みっしりと目が詰まった毛織物、丁寧に鞣され鮮やかに染色された牛革に、それよりも柔らかい仔羊革。
アレクサンデルがこのアトリエの責任者である男性デザイナーと話している横で、ドレスに使う生地に見惚れる少女。採寸のためにやってきていたお針子たちは、真剣に生地に触れる少女へ声をかけられず、遠巻きに見ていた。
アレクサンデルと職人気質そうな壮年のデザイナーの話がやっと乗馬服を男女のどちらのものにするかというところに入ったころ、ようやく忠次は我に返った。乗馬服を見繕うためにやってきた当初の目的を思い出し、ベタベタと他人の手でベルの体を触られる可能性の高い採寸を回避するために何か手はないか、とアトリエをキョロキョロ見回す。
すると、アトリエの奥からいくつか乗馬服が運ばれてきていた。どのデザインにするか、と声がかけられる前に、忠次はごく普通の、白いドレスシャツと濃紺のスエードのジャケット、膝や尻部分を皮革で補強したキュロットという男性用乗馬服に目をつけた。もう一つ視界に入っていたドレスタイプの女性用乗馬服が窮屈そうなデザインであったため、慌てて男性用乗馬服を指差す。
「私、これがいいですわ」
乗馬服を運んできたお針子から少々強引に服を受け取って、忠次はアレクサンデルとデザイナーへ向けて見せつける。首を少々傾げて「どうかしら?」という雰囲気を作ることも忘れていない。
アレクサンデルは一つ頷いて忠次の掲げる乗馬服を見つつ、デザイナーへ目配せしていた。これを頼めるか、という伺いのようなものだったのだろう。デザイナーは即座にその意を汲んで、顧客のオーダーを承る。
「分かりました、このデザインをもとにお仕立てしましょう」
忠次は細い首を横に振る。
「いえ、よろしければこの服をくださいな。大きさもよさそうですし、何より……そう、その上着のボタンが素敵ですわ。こちらの袖も、あら、よく見ると動きやすそうな仕立て」
濃紺のスエードジャケットを持って自分の肩に合わせてみたり、ドレスシャツの袖を伸ばしてみたり、これに興味があるのだという意思表示を精一杯してみる華奢な令嬢の姿は、アレクサンデルとデザイナーだけでなくお針子たちにも微笑ましく映ったのだろう。その場にいる人々の気持ちが少し和らぎ、職人気質そうなデザイナーもまた笑みを浮かべた。
「そのシャツは先日隣国から導入した新しい縫製技術で作っておりまして、ええ、動きやすさは保証いたしますとも。しかしすっかり見抜かれてしまうとは、さすがです、お嬢様」
「うふふ」
(やっぱりそうか、よかったよかった。動きやすい服を着られる機会を逃すかってんだ)
内心安堵のため息を吐きながら、忠次は今回の買い物の財布の紐を握っている人物——アレクサンデルに最後のひと押しをかける。
「ほら、この大きさなら無理なく着られますわ。いかがでしょう、あれく様」
忠次はアレクサンデルとの問答を想定して、先に「どう答えればアレクサンデルは納得し、意見を受け入れるか」を考えていた。
アレクサンデルの性格からすれば、無理無茶ではなく実利を説けば耳を傾けるだろう。少し変わった、それでいてかわいそうな目に遭った貴族令嬢にアレクサンデルはどこまで気遣ってくれるか。女性が苦手な男というのは気遣いが全くないできないか、それとも気を回しすぎて混乱してしまうかのどちらかだ。
それらを鑑みれば、高位貴族の嫡男——先般婚約破棄したどこかの馬鹿男については例外とする——であり、軍人であり、礼儀正しくきちんとした礼儀作法の教育をひととおり受けている人物ならば、気遣いができないということはない。慣れていない気遣いをほんの少しだけしてもらうために、優しく背中を押せば、頓珍漢な受け答えはしないだろう。忠次はレティシアの教育の賜物として、アレクサンデルへの正しい対処をそのように読んでいた。
つかの間の沈黙、用意された他の乗馬服も見回して、それからアレクサンデルは少女へ確認を取る。
「これでいいのですか?」
「はい、これで」
「ですが、サイズは少々合わないかもしれません」
「多少なら問題あり……ません。ほら、仕立てていただいても、出来上がるまで時間がかかるでしょうし……その、私、乗馬なんてしたことがありませんから、早く馬に乗ってみたくて」
これもレティシアから教わった説得の方便であり、半ば忠次の本心のようなものだ。
プランタン王国の貴族は、出来合いの服を着ることはまれだ。ブティックに所属するデザイナーを指名し、採寸と出来上がりの相談を重ね、そうして仕立てられたオーダーメイドの一点ものの服を着る。一応、乗馬服のような用途を限る特殊な服は見本があり、着用のイメージを膨らませやすいよう用意されているが、これを買う客はまずいない——よほどの理由がないかぎり。
言うなれば、これはベルティーユのわがままという体だ。わがままを言いそうにない大人しい少女が、こうまで言うのだから、という状況を作り出してアレクサンデルに訴えかける。大人の男性で、紳士で、しかし貴族のメンツにこだわりすぎない現実主義者の軍人。おまけに弟妹が多く、年下の扱いには慣れていることから、年下の少女ベルティーユの頼みを無碍に断ることは考えにくい。
あとは早く馬に乗りたい忠次の気持ちが、乗馬の得意そうなアレクサンデルに伝われば喜ばれるのではないか、という希望的観測も混ざっていた。
上目遣いにアレクサンデルをじっと見ていると、アレクサンデルは初対面のときとは随分違って、ベルティーユをしっかりと捉え、真面目に乗馬服が少女に合うかどうかを考えているようだった。そういう分別はある人物だ、忠次はアレクサンデルの人物評価を少し改める。高い身分にしては珍しい、まともそうな人物だ、と。
やがて、アレクサンデルは得心がいったのか、大きく頷いた。
「ふむ、大きい分にはいいでしょう。余ったところは屋敷の裁縫が得意な者に調整してもらえばいい」
「えェ、それでお願いいたします」
忠次は進んでやってきたデザイナーに持っていたジャケットを渡す。
「こちらですね。すぐにお包みいたしますので、少々お待ちください」
その顔はどこか嬉しそうで、どうやら製作者としてもこの乗馬服が売れることに悪い気はしないようだった。
採寸は阻止して、着やすそうな乗馬服は手に入って、やっとヴェルグラ侯爵家の屋敷に戻れる——忠次が胸を撫で下ろしたそのときだった。
店の外から、騒々しいバタバタという音と、馬の甲高いいななきが響いてきたのだ。
デザイナーは並んでいたお針子の一人に指示を出す。
「何やら外が騒がしいな。おい、外を見てきてくれ」
アレクサンデルもまた、外へ顔を向けて、さりげなく耳を澄ませているようだった。何事か起きたのだ、と確信しているようで、忠次も入ってきた扉へ視線を移す。
そして——扉を無理矢理破った破裂音。おそらく反射的にアレクサンデルが少女の前へと身を踊らせ、忠次はその大きな背中に守られて、何が起きたかを把握するまでわずかに時間がかかってしまった。
その間にも無数の無作法な足音が、侵入してくる。
先日、公園で一人で遊んでたら虫に刺されまくってぎゃーってなりました。
ゴリラでも虫に刺されるんやで。