第二話 「ドッ君」
アダムとイブ。
この二人の名を知らぬ者はいないと僕は思うが、軽く説明しておこう。
旧約聖書に登場するこの二人は「エデンの園」という、言わば楽園にすっぽんぽんの状態で過ごしていた人類最初の人間である。
エデンの園には「生命の樹」と「知識の樹」がなっていて、二人は神の言いつけで「善悪の知識の樹」だけは食べることを禁じられていた。
それにも関わらずイヴは例の「善悪の知識の樹」の実を口にしてしまう。あろう事か、さらにアダムに同じ実を勧めてしまう。
食後、二人には羞恥心が芽生え、自らがすっぽんぽんの大惨事であると認識するようになったとさ。ご馳走様でした。
とまあ、かなり雑なまとめ方ではあるがそんな二人である。
だが僕が注目しているのはその二人よりもエデンの園の方である。
エデンの園はよく「楽園」とも呼ばれるのだが、僕はそれを模した「愛の楽園」なるものを自室に設けている。
扉を開けてすぐ左手にはベッドがあり、枕側に接している壁にはひな壇のような段が作られた奥行きが広がっている。まさにそこが僕の「愛の楽園」である。ベッドとの高低差はほぼ無いに等しい。ゆえに僕は横になりながらでも彼女たちを眺めることができるのだ。
「さぁ、僕の新たなソフィアよ……! ここが君の場所だ。少し窮屈かもしれないけどね」
今日から僕の彼女改めてソフィアの一員となった子を、既に埋め尽くされかけている楽園に押しこんだ。
可愛い……!!
その一言に限る。誰一人として劣ることのない輝きを持っており、僕はそれを舐めまわすように堪能する。普段はそんなに動かない表情筋がニヤリと形作っているのがわかる。
だがその前にもっと重要なタスクがある。
ベッドの上に横たわる、楽園にいるどのソフィアよりも一際大きいソフィア。ブラウンの毛並みが輝いて金色にも見えてしまう。閉じられた目がより一層虜にされてしまう。
この子だけは特別だ。全てのソフィアを平等に愛することはできない。なぜなら僕の心はこの子だけのものだからだ。
「さぁ、お帰りのちゅ〜だ。『ドッ君』……」
ソフィアを持ち上げ、口元へと近寄せていく。これが毎日の日課。そのまた一日数回のうちの一回だ。
「お兄、手洗いうがいした?」
勿論。
「顔洗った?」
Of course.
「一生の愛を誓うのですか?」
「ドッ君に全てを捧げる!」
「えぇー!!??」
ついさっき別れたはずの妹の絶叫に興が覚める。
「おいちょっと勝手に楽園に入るな妹よ。さっき僕がなんて言ったか覚えてないだろ」
「いや、さすがにぬいぐるみに口づけしようとする変態を見ると叫びたくもなるよっ! てかドッ君が可哀想! 毎朝毎晩キスを見せつけられてるコッチの気持ちにもなってみてよ!」
血相を変えて捲したてる菜々野を無視して今度こそドッ君の唇を奪う。フサフサとしたぬいぐるみ表面の毛の感触が僕の唇をくすぐる。同時に心の全てが浄化されるのを感じる。
そう。僕の言うソフィアは全員がぬいぐるみなのだ。ソフィア改めぬいぐるみ。騙されたかな? ごめんね引かないで。
「そもそも犬のぬいぐるみだからってdog の発音からドッ君ってのも安直!」
「酷いなぁ……」
僕のソフィア達は手に入れたその日に名前が付けられる。一番のお気に入りのソフィアであるドッ君はその第一号なのだ。
可愛らしいゴールデンレトリバーの見た目をして、耳がハムのように垂れている銅の長いぬいぐるみ。
緩いカーブを描いた鼻の先に付いている黒い球体。常に眠っているように目は閉ざされているように刺繍されているのが特徴だ。また腕は二本の糸で繋がっており、輪っか状になっている。
ドッ君がいたから僕はどんな困難でも乗り越えられた。一秒でも長く共に居られれば命だって惜しくない。逆にドッ君なしの日常が一日でもあるのなら、地の果てまで探しに行くし、一から作り出してやる。
「そっか。ドッ君がいたからお兄はぬいぐるみ好きの変態になったんだ……」
「変態とは失礼だな。これは純情な気持ちだ。一切汚らわしい感情じゃないんだぞ」
とりあえず反論だけ済ませてドッ君の腕の輪っかに僕の首を通す。これで首に抱きついているという構造が完成する。部屋にいる時の通常モードだ。ちょっときついけど呼吸が出来るならそれで良い。
「ふぅ……。それでなんか用か? 愚妹よ」
「お兄! ナノにも新しいぬいぐるみ、ちゃんとよく見せてよ!」
と目を輝かせて言い寄ってきた。
まあ見せるだけならいいか。そう思ってベッドを譲り、菜々野はそこへダイブ。たまに菜々野はこういった幼稚さを垣間見せるから憎めない。
「へぇー。今度はクマさんなんだぁ。思ったより大きいね。製鞄に入るかな? あっ、首元のリボンがめっちゃカワイイ」
菜々野はそのリボンの感触を確かめるや、頭を撫でたりして愛でている。こういった鑑賞会も妹と一緒にするのも悪くない。
「だろ? 今日はちょっと粘ったけど、なんとか十回以内に取れた」
「えっ、珍しいじゃん。お兄がそんな苦戦するなんて」
取る、というのも僕がこのクマさんぬいぐるみを調達してきた場所がゲームセンターにあるUFOキャッチャーであるからだ。誰もが一回は挑戦したことがあるだろう。慣れてない人からすると、ぬいぐるみの大きさにもよるのだが、十回ほど空振りするのも当然かもしれない。
でも僕は何百ものぬいぐるみを落としてきたのだ。だからいつもなら五回もしないうちに大きさ関係なくホールへインできる。
しかしこのクマさんはリボン以外に引っ掛けられる箇所が見当たらず、ひたすら首元にアームを差し込むしかなかった。いやはや……。
「名前はどうするの? あっ、プー○んはダメだからね! 安直禁止!」
「おいおいそこまで見くびられちゃ困る。やっぱり『サンダース』だろ」
「お兄それプー○んの本名じゃん!!」
ちえっ、知ってるんじゃん。
「そう言えばお前、さっきなんで怒っていたんだよ。遅く帰るのも今日が初めてじゃないんだし……」
先刻の菜々野との会話を思い出そうとする。イマイチなんと言っていたか聞いていなかったみたいだ。だから一応兄として妹の言い分を聞いておかなければならない。
しかし菜々野は急に頬を赤くし、恥じるように言う。
「べ、別にお兄にはカンケーないしっ。てか聞いてなかったの?」
首肯する。
すると菜々野は落ち着いたのか胸を撫で下ろす。先程までの爆発じみた態度は既になくなっている。
「理由はともかく、早く帰ってきてよ。きっとお母さんだって快く思ってないよ……」
ただそれだけのようだった。
たしかに心配だけはさせたくない。季節の変わり目は不審者が多いって聞くしな。って待てよ? 何か忘れているような……。
刹那、部屋の扉が外から強引に開けられる。そして現れたのは
「修司! 遅くなるのはいいけど、帰ったらまず、ただいまくらい言ったらどうなの?」
いかにもご立腹な母でした。
「ハイ。ごめんなさい。ただいま母さん」
正座姿勢で心をこめて謝罪。からのただいま。首にドッ君をつけて。
母は気にせず話を続ける。
「よろしい。自分の部屋に直行したいのは分かるけどね、まずは家族に安全だったかどうか知らせないと。いってらっしゃいとおかえりを言ってあげられるのが家族なんだから」
「ハイ」
「で、釣れたの?」
「そりゃあもうめちゃ可愛いのが」
「まったく、修司らしいよ……。二人とも早く着替えなさいよ」
母の怒りはとうに去り、僕の通常運転を知るや否や呆れたように笑う。
そしてご飯がもうすぐだと言ってそのまま僕の部屋を出ていってしまった。
菜々野にもなんだかんだ呆れられたような顔をされ、言わんこっちゃないと呟かれる。
高校生にもなって今だに親や妹に帰りを心配されるのは過保護なのでは、と思われるかもしれない。
仕方ないんだ。僕は六歳から十歳までの間、ずっと入院してたんだから。普通に育ってきた子よりも四、五年長くベッドの上で過ごして、運良く病に勝ち、小学五年生で社会復帰出来たのだ。
今の僕が病弱ではないとはいえ、心配したくなるのが家族というものなのだろう。
そう考えるとなんだか胸の奥がむず痒くなってほんのりとした温もりを感じる。
――――ああ……これだから人間ってやつは。
「……い……お兄。お兄ってばっ」
「へ!? なんだ妹よ?」
「なんだよ、じゃない。さっきからボーッとしてたけど大丈夫?」
さっきから、というのは母がここを去ってからだろうか。訳の分からない空隙に一人だけで感動してたとか恥ずかしすぎて言えない。
「いや、ただ晩飯なんだろーなって考えてただけ」
そっと目線を右にずらす。
「そっか。それでなんだけどお兄、今日はここで寝ていい?」
「それは断る」
「えっ、なんで!」
「ここは僕の楽園だ。僕以外の人間がいると愛が育めないじゃないか。また明日にでもこの子達を見せてやるから我慢しろ」
菜々野は心底残念そうな表情を浮かべ、ぬいぐるみの方を目もくれずに僕の方を恨めしげに見つめては隣の自室へ去っていった。
「そんなにぬいぐるみと一緒がいいなら買えばいいのに……。なぁ、ドッ君?」
首に捕まる一番のソフィアに語りかけ、着替えを始める。
夕飯の鮭を食し、風呂に浸かり、最低限の勉強をドッ君とともにして一日が終わる。
ちょうど十二時になる頃にはベッドに入り、ドッ君とのおやすみのちゅ〜を済ませる。それでもドッ君を離すことなく抱き寄せたまま僕は眠りについた。