あの世からの落し物
科学が宇宙を目指してから、果たして何年の月日が流れてたのだろう。
今からほんの一万年前、人類の祖先は石で作った武器で、獲物を追いかけていた。
雷や日食を神の怒りだと信じ、雨を神の恵みだと信じて疑わなかった。
だが、今や人類は、恐竜たちやマンモスさえも成しえなかった地球という壁を
科学の力を使って越えることに成功した。
文化・歴史に違いはあれど、いま目の前にある現象を科学の力で説明できない
ことがどれだけ残されているだろうか?
だが、いま、まさにこの瞬間、宇宙を舞台にして、現代の科学では説明不可能な
事件が起ころうとしていた。
青白く光る不気味な一つの彗星が、地球に向かって飛んできていたのだ。
場所はかわって、ここは東京都にある八重洲さくら診療所。
明は今まさに至福のときを迎えていた。
「先生、診療所開院、おめでとうございます。」
「ありがとう。」
明はあれから、松子が起こした幽霊騒動にもめげず、求人誌に募集をかけ、
優秀な看護士を雇い入れ、なんとか診療所開院にこぎつけたのだ。
もちろん、看護士たちは、この診療所に幽霊が出るなど露にも知らない。
明は看護士たちと握手をかわすと、開院を祝いに来てくれた近所の人にも
挨拶をした。
「お、おめでとう、ございます。」
震えた声で挨拶をしてくれたのは、二つとなりのテナントでレストランを
営んでいる坂本さんだ。恰幅のいい体型はまさにシェフといったところだが、
顔が若干青白いのは、ドアから突き出た松子の下半身を一番に目撃したからだろう。
誰とも限らず、あんなもの見せられた日には、トラウマになるに決まっている。
今となっては、一番の理解者?といえるかもしれない。本人には迷惑な話だろうが。
「ありがとうございます。」
明は満面の笑みで、握手をかわす。少しでも不安に思われては終わりだ。
無神経と思われても、こういう時に平常心で振るまえる人間が人生の勝者となるのだ。
だが、明の意思に反して、坂本さんは挨拶を済ませるとF1カーを彷彿とさせる
スピードでその場を立ち去っていった。
(坂本さぁーん)
明の心の叫びが聞こえるようだった。
「先生、どうしたんですかね、あの人、急いで行っちゃいましたけど。」
そばにいた看護士が無邪気な笑顔で明に尋ねる。
「うん? ああ、あのートイレじゃないかな。なんか三日前から『漏れそうだ』
って叫んでたから。」
不思議そうに首をかしげる看護士。そりゃそーだ。
そして、次に挨拶に来たのが、なぜかこの幽霊テナントの1階で花屋を
切り盛りしている60歳のミキさんだ。なぜかいつも本名は教えてくれない。
ミキが苗字だろうが名前だろうこっちはどっちでもいいのだが……。
やたらとオカルト好きなのが困ったところだ。
「おめでとう。聞いたわよ、あんたのところまた出たらしいじゃない?」
「え、何がですか?」
ミキさんの話に心配そうに耳を傾ける看護士。
(おいっ、ババア。)
さっさと、この場から追い出したい気持ちをぐっとこらえて、気丈にふるまう明。
「ああ、うちの守り神でしょ? すごいですね、あれが見えたんですか?
なんか僕もよく知らないんですけど、噂じゃあれを見た人は金運がめちゃくちゃ
上がるらしいですよ。」
「あら、ホントー? 私はてっきり、ゆう……。」
「そうそう、たしかユウコっていう名の妖精でしたね。」
明の気迫におされたのか、ミキさんはそのまま黙り込んでしまった。
「あ……そう、それじゃー今日は、この辺で失礼するわね。」
そういって、ミキさんはゆっくりと玄関を出ると階段を降りていった。
その様子をみて、大きくため息をつく明。
「なんか疲れましたね。」
「そうだな。」
看護士たちの『疲れた』とはレベルの違う疲労を抱え、明は今にも倒れそうだった。
だが、もう少しの辛抱だ。
明には一握りの希望があった。
いくら幽霊とはいえ、手足はあるわけだから、少しずつ看護士たちに
彼女の存在を刷り込んでいって、慣れたところで彼女の正体が幽霊だと
カミングアウト出来れば、すべて丸く収まるのではないかと……。
だが、数分後、それがいかに甘い考えであるかを、明は思い知らされることになる。
ズドンッッッ。
突然、大きな音がしたかと思うと、天井から大きな物体が落ちてきたのだ。
それは、よく見るとダルマのように大きく肥えた丸刈りの男性だった。
きゃああああ。
三人の看護師のうち、二人は気絶し、一人は大きく目を開き口を両手で押さえている。
「先生、こ、これはいったいなんですか?」
両手で頭をかきむしる明。
「えーっと、これはー。」
「これは?」
「まあ、なんというかー。」
明の説明にごくんと唾を飲み込む看護士。
「守り神のユウコだよ。」
この瞬間、明は診療所の破滅を確信した。
コンコンコンコン……。
左手でおでこにサンバイザーを作りながら、明は机とボールペンで
湧き上がる怒りをリズムに変えていた。
「えっとー、なにかこの診療所にご不満でもおありですか?」
明の向かいには先ほど、天井から落ちてきた男性がしょんぼりと座っている。
「ちょっとー、そんな聞き方じゃ、患者さんが答えづらいでしょ?」
就労不可能となった三人の看護士にかわって、明の隣には松子がいた。
「いえ、いいんです。私が悪いんで。」
明の眉間に大きなしわが寄る。
「いや、別に私は怒ってるわけじゃないんですよ。ただうちの診療所に改善できる
点があるならね、すぐにでも改善したいと。なぜこの診療所はこんなにも災難を
引き込んでしまうのか、その理由が知りたいわけです。」
「立派に怒ってるじゃない?」
松子がボルテージの高い明をたしなめた。
「実はね、私、幽霊なんですよ。」
その答えに、明は大きくため息をついた。
だが、悲しいことにもはや驚く気力さえ起きない。
これが人間の免疫というやつだろう。
「ほう、その幽霊さんがどうしてこちらへ?」
「実はあの世に登っていく時に、体重制限に引っかかってしまいまして……。
紐が途中で切れてしまったんですよ。そしたらここにズドンですよ。落ちるのは
どこでも良かったんですけどね。なんか笑っちゃうでしょ。ハハハハ……。」
バンッ。
その瞬間、明が大きな音を立てて机を叩いた。
「笑い事じゃねーよ。こっちは今日、開院なんだぞ。なんで二つとなりの
趣味の悪いレストランに落ちなかったんだ?」
「ひいっ、すいません。」
幽霊は両手を前に合わせて、深く頭を下げている。
「ちょっとやめなさいよ、患者さん怯えちゃってるじゃない。」
再び松子が止めに入る。
その様子を伺いながら、男は恐る恐る会話を続けた。
「それでですねー。」
「なんでしょうか?」
血走った目で、男を凝視する明。
「ここに落ちたのも何かの縁ということで、一つ先生にお願いしたいことがありまして。」
「まあ私もプロですからね、医学に関することならなんなりと仰ってください。」
といいつつも、明はすでに机の上の片づけを始めていた。
「わ、私はあの世に行くためにやせたいと思うのです。」
すると、机の整理をしていた明の手がぴたりと止まった。
さっきまで怒り心頭だった明だったが、男のこの奇妙な発言によっていつのまにか
興味が怒りを飲み込んでしまったようだ。
「えっ、あの世に行くためにやせるのですか?」
男はその場でちいさくうなずいた。
明と松子は思わず顔を見合わせる。
「なんか私どもには話がよくわからないんですが、それならこのままやせないで
この世にいればいいんじゃないですか?」
明のとなりで小刻みにうなずく松子。
だが、男の顔は真剣そのものだ。
「いやなんです。このまま何もしないで、あの世に行くのが。」
気づくと明は松子が用意したお茶をズズズと飲みながら、男の話を聞いていた。
「私はいままで平平凡凡に人生を過ごしてきました。私自身、それが普通なのだと、
それが幸せなのだと思っていました。ひょっとしたら私は人より器用だったのかも
しれません。」
再び、明と松子が顔を見合わせる。
「ですが、あの世に登っていく時に、私は気づいてしまったのです。
この世がどれだけ美しいのか、そしていかに自分の人生がからっぽだったかを。」
バンツ。
今度は男が大きな音を立てて机をたたいた。
その場で飛び上がる二人。
「だから、私は決めたんです。この世でダイエットをして、自力であの世へ
行ってやろうと、体重制限なんかで、私をあの世から追い返したやつらを
この手で見返してやろうと思っているのです。だから、先生、お願いです。
ぜひこちらで私のダイエットのメニューを組んでいただけないでしょか?」
奇妙な話の展開に戸惑いながらも、男の熱い話にうなずく明。
「うーん……いや、実に素晴らしい考えをお持ちだと思います。たいした理由もなく
この世で自縛霊を続けているやつに今の話を聞かせてやりたいぐらいで。」
そういって、明はちらりと松子の方をむくと、松子はプイっと横を向いた。
「ですが、私は腐っても医者なんです。カタチはどうあれ、あなたが死ぬための
お手伝いはできないし、するつもりもありません。」
だが、その瞬間、あわてて松子が明の耳を引っ張った。
「いででででっ、おいっ、なにすんだよ?」
明が必死で松子の手を振り払う。
「それはこっちのセリフよ。アンタ一体、何考えてんの? 意地張ってる場合じゃない
でしょ? 開院したのにまだお客さんが一人も入ってないのよ。」
「これが客かっ?」
「どうみてもお客さんじゃない。」
「普通の客はドアから入ってくるもんだろ?」
「アンタは細かいことにこだわってるから患者さんがつかないのよ。」
「お前が幽霊騒ぎ起こさなきゃ、もっと順調だったよ。」
だが、次の瞬間、松子の顔がぎゅーっと明の顔に近づいてきた。
「いい? この世もあの世もお金がないと何にもできないの。ましてあなたはここの
院長でしょ、ちゃんと切り盛りして、みんなの食い扶持を稼がないといけないんだから
しっかりしてよ。」
耳元で説教をする松子につられて、明の声も小声になる。
「でも、相手は幽霊だぜ? 金なんか持ってんのか?」
「わかんないけど、少しはあるでしょ。」
するとそのとき、二人の顔の10センチ手前に男の顔が急に現れた。
「大丈夫、ちゃんと、お礼はさせていただきますよ。」
「わあっ。」
声を揃えて驚く二人。
「いきなり現れないでよ、」
少し涙目になっている松子。
「すいません。」
松子に怒られると、男は再び低姿勢にもどった。
「とにかく、これで交渉成立よね?」
「まあ、そうかな。」
幽霊に自分の作った病院を仕切られるのは変な感じだが、理屈はどうあれ
明は松子が持つの芯の強さに頼もしさを感じずにはいられなかった。
ただひとつの欠点をのぞいては……。
「それじゃー、まず町内をランニングしましょう。私についてきて。」
「今からかよ。」
「あたりまえよ、善は急げでしょ?」
「まあそりゃそうだけど……。」
「大丈夫よ、あなたに迷惑はかけないから、それじゃ行くわよ。」
「はいっ。」
「それじゃー院長、あとはよろしく。」
そういって松子が病院の壁をスルスルっと抜けていくと、あとに続いた男は
張り替えたばかりの壁をバリバリ突き破りながら、表へと飛び出していった。
「おいっ、人の診療所を壊すなーっ。ドアを使えーっ。」
「あっ、ごめんなさい、患者さん、壁抜け無理だったみたいね。院長ー、壁直しといて。」
そういって二人が街へ飛び出したあと、病院の中には、大きく開いた二つの穴から
さわやかな春の風が突き抜けていた。
「だから、幽霊って嫌なんだ。」
第三話につづく