ある開業医の物語
ここはとある不動産屋。
狭い部屋におかれた偉そうな焦げ茶色のソファーに二人の男が向かい合って座っている。
「この予算だと、この辺が限界ですねー。」
一人の男が赤いフレームのメガネを小さく上に持ち上げ、電卓を叩いている。
「うーん、それはちょっと……。」
「困りましたねー、うちも商売でね、これ以上はちょっとねー。」
「そこをなんとかできないですか?」
「このへんだと、相場がねー。」
だが、そのとき、男が大きく手を叩いた。
「そうだ、お客さん、いいのがありましたよ。」
メガネの奥で男の目が邪悪に輝く。
「え、ほんとですか?」
「ええ、ただね……。」
そこまでいうと、不動産屋の声が急に小さくなる。
「出るんですよ。」
「出る? 何が?」
「ユーレイですよ、ユーレイが出るの。」
「ユーレイ?」
男は不動産屋の言った言葉を何度か頭の中で繰り返すと、思わず噴き出してしまった。
「ハッハッハ、またまたー。子供じゃないんだから、その手は食いませんよ。」
だが、不動産屋はいたって真面目な顔で応える。
「いやいや、この辺では評判の物件でね。地元の人の間じゃ有名なんですよ。
まあでもねー、これからお医者さんを始められるんじゃゲンが悪いか。」
「いや、別にいいんですけどね、月いくら?」
「相場は30なんだけど、今回は特別に月5でいいよ。」
「5万っ? ホントに5万?」
「そうなんですよ、もちろん風呂もトイレもついてるし、 3LDKで5万なんてありえないんだけど、地元の人じゃ買い手がつかないんですよー。もちろん敷金礼金は頂きますがね。」
そのとき男の声が、狭い部屋に響き渡った。
「そこにします。」
この瞬間一人の開業医が誕生した。
明るい陽射しのもと、明は「八重洲さくら診療所」とかかれた看板を建物の外から
眺めていた。
こんなとき、自分の部屋に掲げた看板だけがなぜか輝かしくみえる。
「これでオレも一国一城の主だ。」
東京にある医大を卒業し、都内の病院で五年間、勤務医としてハードに仕事をこなして
きたが、なんとかここまで、たどり着くことができた。
勤務医時代の過去を振り返ると、幾度となくつらい思い出がよみがえってくるが
いまは将来への希望が明のすべてを包み込んでいた。
だが、ふと我に返る。
これからの課題がつぎつぎと頭に浮かんでくる。
まず看護婦を雇わなくてはならない。顧客の確保も必要だ。あとライバルの偵察も。
立地条件は最高だから、恐らく敵はいないだろうけど。
勤務医時代には整っていた条件を、今度は自分で揃えなければならない。
やることは山積みだ。
明は大きくため息をつくと、早速部屋に入り、荷物の整理を始めた。
「これが5万てありえないよなー。」
気づくと明は知らない間に独り言を喋っていた。
そのとき不意に、不動産屋の声が頭に浮かんでくる
「出るんですよ。」
「まさかねー。」
明が慌てて首を横に振る。
もうやめよう、つまらないことを考えるのは。
そのとき、玄関のほうからガチャンと音がした。
「誰だ?」
そういって、明はドアをあけて玄関まで歩いていったがあたりに人の気配はない。
「なんだ、こどものいたずらか?」
すると、今度は、居間のほうから床をたたく音が聞こえてくる。
「どうなってるんだこの部屋は?
明が再び、居間に戻ると、そこには白いブラウスを着た20歳ぐらいの女性が立っていた。
「うわっ。」
明は驚きのあまりその場でひっくり返りそうになった。
「こんにちわー。」
その女性は明るく笑いながら、小さく礼をした。
「こ、こんにちわ。」
「どうやら、私が誰だって言いたい顔ね。」
明はコクリと首を縦に振る。
「実はあんまり大きな声じゃ言えないんだけどー。」
女の声が急に小さくなる。
「ここにだいぶ前から住んでる幽霊なの。」
「ふーん。」
だが、明は大して驚きもせず、幽霊の顔をまじまじと見つめている。
「あれっ、聞こえなかった? 私、幽霊なのっ。」
「聞こえてるよ、幽玄の『幽』に霊魂の『霊』で『幽霊』だろ。」
「そうよ、そのなんとかの『幽』とレンコン?の『霊』で幽霊よ。
あれっ、おかしーなー。前にいた人は私を見て、すぐにシッポまいて逃げて
ったのになー。」
「だから、それは……。」
明が右手で髪をガサガサとかきむしる。
だが、相変わらず女は自分のペースでしゃべり続けている。
「あー、分かった。まだあなた、私が幽霊だって信じてないのね?
よーし、それじゃー。」
女は明を強引に玄関の扉の前まで連れて行くと、扉をあけて玄関の外からドア越しに
明に話しかけてきた。
「それじゃ、壁抜けいきまーす。ちゃんと見ててね。」
そういうと、女は宣言どおり、目の前のドアの真ん中からヌルットあらわれた。
不動産屋から話には聞いていたが、明もさすがにこれには驚いた。
「おー、凄い。凄い。」
「凄いでしょー?」
得意満面の顔で女が微笑む。
が、しかし……。
「あれっ、おかしいなー。」
女は上半身と下半身のちょうど真ん中で、つっかえて出てこれなくなっていた。
「下半身がドアを通らないかも……。」
「おいおいっ。」
見るに見かねて、明が女の手をとり助けにかかる。
「大丈夫かよ。」
「大丈夫よ、ちょっと、腰のベルトが引っかかってるだけだから……。」
額に汗して、必死にもがく幽霊。
だが、一向に抜けられそうな気配はない。
「ひょっとして、太ったんじゃないの?」
そういって明は汗だくになりながら、必死で女の手を引っ張っていたが
次の瞬間、女は明の手を振り払い、真っ赤な顔でわめきちらした。
「よくもいったわね。覚えてなさい。あんたのこと呪い殺してやるから。」
「呪い殺してくれていいから、はやくそこから出てきてくれよ。」
明は両手で頭をかかえている。
「うるさいわね、もうほっといてよ。」
「ほっとけるかよ、玄関のドアから、人間の下半身がぶら下がってる病院に
だれが治療にくるんだ?」
その瞬間、女の目にビックリマークが並んだ。
「あなたもしかして、医者なの?」
「そうだけど。」
明がちいさくうなずく。
「へーそうなんだ?」
「だったら何だよ?」
「お医者さんだったら、はやくこれをなんとかしてよ。」
「そんなもん、知るかーっ。」
そのころ、扉の外では、人々が鉄製のドアに突き刺さった人間に悲鳴をあげて
逃げ惑っていた。
『人生とは、裏切られた希望、挫折させられた目論見、それと気づいたときには
もう遅すぎる過ちの連続にほかならない。』ショウペンハウエルの言葉だ。
そして、明はいま眉間に手をあてながら、その言葉の意味を痛感していた。
頭痛の原因はもちろんこの女だ。
「ねえ、早く私の名前決めてよ。」
幽霊が診療用の机に寝そべりながら、明の機嫌を伺っている。
「うるさいなー、名前くらい自分で決めてくれよ。こっちは、こないだ自分が
起こした心霊現象のせいで、診療所の評判を落とされて、人生プランも
なにもかもめちゃくちゃにされてるんだぜ。」
明が机の上の書類を片付けながら邪魔臭そうに答える。
「そんなに怒んないでよ、私だって反省してるんだから。それにこの世にいる人に
名前をつけてもらわないと、私たち幽霊は、手足があってもこの世でご飯を食べたり、
アイスを食べたりできないのよ。あたしなんか、室町のころからずっとなにも食べて
ないんだから。」
「なんで、何百年もなにも食べてないやつが太るんだよ?」
その言葉に、幽霊はキッという目つきで応戦したが、自分の立場を理解したのか
手にしたコブシをグッとこらえる。
「それはあれよー、持病の肥満てやつよ。」
「持病の肥満ねー。」
明はもうちょっとましな嘘をつけとか思ったが、声には出さなかった。
「で、どんな名前がいいの?」
「そうねー。」
幽霊はキラキラとした目で、周囲を見渡した。
白塗りの壁にかけられたカレンダー、開け放たれた窓、ゆっくりと視線がさがり
吸入器、診療用のベッド ETC。そして、最後に目に入ったものがこの診療所のパンフ
レットだった。
幽霊はそれを手に取ると、明に見せた。
「これがいいなっ。」
「パンフレットー?」
「違うわよ、なんでハーフみたいになってんのよ? ここ見て、ここ。」
そういって、細い指で幽霊が指差したのは、八重洲さくら診療所の文字だった。
「うーんと、それじゃー八重子で。」
「ちょっとー、なにそれやめてよ。おばあさんみたいじゃない。」
幽霊は大きく首を横にふった。
「なんだよ、面倒臭ーな。つけて欲しい名前があるんなら最初からそう言えよ。」
「それじゃ、だめなのよ。もっと私をみて、私から連想する名前を
つけてもらわないと嫌なの。ほらこの病院にもついてるじゃない。
可憐ではかない感じの名前が。」
「はかないやつが、500年も生きるかよ。」
どうやら、幽霊は「さくら」と名づけて欲しいらしい。
「ったく、仕方ないな。」
「うんうん。」
「それじゃー松子で。」
「えっ?」
幽霊の動きがとまる。
「松子っていったんだよ。」
「なんでよ?」
「オレ、その名前嫌いなんだよ。」
明は小さく咳払いをして続けた。
「それに桜は一つの季節が過ぎるとみんな忘れちゃうだろ。でも、人生で大事なことは
一枚の花びらとして一瞬に散ることじゃないんだ。自分自身が大きく太い幹となって、
多くの瞬間を生きることなんだ。」
その瞬間、窓の隙間からさわやかな風が二人の間を突き抜けた。
「なんか医者みたいなことをいうのね。」
「いや、一応、医者なんですけど……。」
幽霊は自分の顎に手を当てしばらく考え込んでいたが、ようやく重い口を開いた、
「まあいいわ。あなたが無い頭を一生懸命つかって考えてくれたみたいだし、
ありがたく頂戴するわ。」
「どういう意味だ?」
幽霊は指の先で鼻の頭をこすりながら、少し顔を赤らめて部屋をすり抜けていった。
「おい、ちゃんとドアを使えよ。まったく。どこまで行儀が悪いんだ。」
だが、なんだかんだといいながらも、幽霊自身、松子という名前が気に入ったようだ。
ふときづくと、明は当初の問題をわすれ、松子が消えた夕陽に映えるオレンジ色の壁を
ながめていた。
その日の夜、明の食卓にはなぜか松子がいた。
「うーん、いい匂い。」
「ていうか、うちで食うのかよ。」
「そりゃそうよ、まさか幽霊がデパートの試食に行くわけにはいかないでしょ?」
「いやまあ、そりゃそうだけどさ……。」
「大丈夫よ、私そんなに食べるほうじゃないから。それじゃあ、ご飯入れるね。」
「お、おう……。」
数分後、食卓にはいくつかのおかずとともに、大きなドンブリにもられた白いご飯が
並んでいた。
「茶碗でかくね?」
「なにいってんのよ? いっぱい食べないと力出ないわよ。これからは診療所を訪れる
患者さんをはじめとして、私や看護婦さんまで支えていかないといけないんだから。」
「なんでさりげなくお前が入ってんだよ?」
「私のいた室町時代はねー、それはもうひどいものだったわ。」
「人の話聞いてる?」
「街は荒廃するわ、病気が蔓延するわでね。結局私はその病気で死んじゃったんだけどね。」
「病気で死んだんだ?」
明は湯呑みに入ったお茶を飲み干して、松子の話に聞き入った。
「ええ、労咳でね。17で死んだから、あっという間だったけどね。」
「労咳かー。」
「だけどね、町には頼りになるお医者さんがいて、毎日のように治療に来てくれたん
だから。」
「でも、どうせその時代だと、『これは薬だ』とかいって、小麦粉の粉渡してたんだろ?」
明はしかめ面をしながら、右手の小指で耳あかをほじって結果を確認している。
「確かにくすりは効かなかったけど、そんなこと関係ないわ。気持ちの問題よー。
なんかうれしいじゃない。自分と一緒に病気と戦ってくれる人がいるなんて。
結果的に死んじゃったけど、私は満足してるわ。」
「それなら、早く成仏してくれよ。」
「なんでそういうこと言うのよ。まだだめよ、恋さえしないで死んじゃったんだから。
それにそういうこと言いたいんじゃないの。あなたには立派なお医者さんになって
欲しいのよ。」
なんて母親みたいな言い方をしながらも、松子は箸を握ると子供のような笑顔に戻った。
「おいしそー、それじゃー頂きマース。」
だが、わり箸で卵を口に運んだ瞬間、松子は激しく点滅を始めた。
「ちょ、ちょっと、なにコレ?」
松子は苦しさのあまり床に転げ落ち、体をくねらせている。
「おい、どうしたんだよ?」
慌てて、明が松子のそばにかけよる。
「卵に何いれたの?」
「別になんにもいれてねーよ、塩と胡椒だけだ。」
「塩ッ? ちょっとやめてよ、私、成仏しちゃうじゃない。」
松子は怒りにまかせて飛び起きたが、やがてふらふらと倒れこむ。
「味がないと、卵が食べれないだろーが。」
明はいらいらしながらも、抱きかかえた松子を一度床に置き、台所からグラスに水を
ついで松子の口に添えてやった。
ゴクンッ、ゴクンッ、ゴクンッ。
松子がグラスの水を飲み干した瞬間、ようやく体の点滅が止まった。
「はぁーっ、死ぬかと思った。」
ほっそりとした手でのど元をおさえる松子。
「もう死んでるだろ?」
そっけない明の一言に、キッと松子が明をにらみつけた。
「あなたねー、これは人殺しよ?」
「だから、もうすでに一回死んでるだろ?」
「ちがうわ、医者のくせに幽霊の扱い方もわからないのかって聞いてるのよ。」
「生きてる人間を扱うのがおれの仕事だ。」
だが、松子はすっかり部屋のすみでスネてしまっている。
「もう500年ぶりの食事だったのに。台無しだわ。アジシオくらい置いときなさいよ。」
明は小さく体育座りをする松子をみて、大きくため息をつくと優しく話しかけた。
「アジシオなら、大丈夫なのか?」
その言葉に、松子は顔をあげて瞳を輝かせる。
「あるのっ?」
「本当は嫌なんだけどな、アジシオ。」
そういって、明は食器棚の下の棚から青いフタの小瓶をとりだした。
「卵でいいか?」
「……うんっ。」
松子は申し訳なさそうにちいさくうなずく。
「ちょっと待ってな。」
キッチンで卵を割る明に松子が近寄ってくる。
「ご飯冷えちゃうよ?」
「仕方ねーだろ。」
「ごめん。」
再びちいさくなる松子。
それをみて、明はちいさく笑うとフライパンにドロドロの卵をのせた。
「いいよ、卵は冷えたほうがうまいし。」
明の優しさに、連られて微笑む松子
「変な人っ。」
「ほっとけ。」
この日、いつもより遅い夕食にいつもより明るい灯がともった。