深淵と深紅の衣装
幼い頃の思い出というのはなぜあれほど切なく、淡い雪の欠片のように綺麗に煌めきながらもすぐ消えてしまうのだろう。
まだあの頃は世界はとても美しかったのだ。なにもかもが新鮮で、すべてに神が宿っているように見えた。出会う人々に未来が約束されていて、誰もがみなを愛しているのだと思っていた。
息を吐くときに見える白い吐息ですらも、そんな下らない事にすら幸せを感じていたのに。
すべては終わるものだった。突然に。唐突に。
炎に包まれながら世界は閉じられていく。母の笑顔が見たくて、必死に作った雪だるまも炎に呑まれて、溶けてなくなっていた。
あれは今まで知っていたどの笑顔でもなかった。
炎の中で見えたのは長い棒に串だしになっている父。その傍に横たわる弟。そして母がいた。
男達は笑っていた。少年の知っている母や父や隣人達の笑みではない。
そんな表情は知らない。
少年は理解した。世界はすぐ溶けるのだと。
幸せな時間はひと冬の思い出だった。気づけばすぐに雪は溶け、綺麗な結晶は二度と同じ物には戻らなくなる。
神などいなかったのだと。
いつの間にか雪は激しくなり、先程まで微かに見えていた太陽の光は跡形もなく消えていた。足もとに積もる積雪は足をからめとり、容赦なく体力を奪ってくる。
神聖なる山々。白銀に彩られた山脈、オリハルト山脈。
かつては鉱石を司る神オリルドが山頂に鎮座しており、様々な鉱物をこの山脈にもたらしたという神話を聞いたことがある。しかし欲深い人間は価値ある鉱石を採掘する為に、木々を倒し、土壌を汚し、見かねたオリルド神は山の恵みを消し去り山頂から姿を消したというお伽噺。
今ではかつての賑わいを見せた鉱山村は廃墟同然となり、かわりに人肉を貪り喰う魔獣が蔓延るようになったというのだから皮肉なものだ。
この山脈は中部平原から大陸を制覇を狙う大国、ガイアナ帝国と北方にある神々には見捨てられたような貧相な大地が広がる北方商業都市郡の国境境にあった。
ここを越えれば奴隷狩りや帝国兵の追っ手の手もなくなり、晴れて自由になれる。3日前までは楽観的にそう考えていた。
判断を間違えた。長い銀色の髪を結った青年、ライアンは歯を噛み締めた。
そのライアンの背中にはまだ幼い少年が背負われていた。
ライアンが1歩1歩踏み出すたびに、積雪の上に紅い滴が鮮やかな模様を描く。
背負われている少年の上半身はすでに真っ赤に染まっている。鮮やかな液体は、その少年から滴り落ちているのだ。
少年の背中にえぐりとられた大きな傷。誰が見ても一目でわかるほどの重症だった。
本来なら冬眠しているはずだった化け物。襲われたのだ魔獣に。
吹雪になる前に人里にたどり着かねば。
ライアンの焦る気持ちが余計に焦燥感を煽り立て、呼吸が乱れる。それがなくとも積雪の山中を人を担いで移動するなど、帝国兵でさえ厳しいだろう。
事前に確認していた地図の情報通りなら、もう数キロ歩けば鉱山村があるだった。
「もう少しだ踏ん張れ」
ライアンは背負われている少年に声をかける。少年はただ小さく頷いた。だが返事はなく、荒々しい息づかいだけが聞こえる。
少々の危険があったとしても、低地から迂回して北方に入ればと、ライアンは今さらながら後悔していた。
俺がオリハルト山から北方に抜けた方が帝国の追ってもこないし、迂回するよりもリスクが少なくそして早く着く。なに冬は魔獣も起きてないさ。そう提案したばかりに…。
そんな後悔をしてももはや意味がないのはわかっている。だがその考えが頭から離れない。後ろから少年の苦しそうな吐息が聞こえる。ライアンはハッと我にかえった。
今は背負っている少年、オルクを助けたかった。
∇
2人が初めて出会ったのは檻の中だった。
若さ、体力、容姿。それらに価値をつけられ、人から人へ売られる存在。オルクもライアンも同じ存在だった。奴隷だったのだ。
ライアンは青年として身体も頑丈で逞しく、労働力として価値をつけられ
オルクは幼いが病気もなく、その容姿もよかった。なにより中部では見られない青い瞳が珍しく富裕層に価値をつけられた。
そんな2人をバルトの街に住む有力な貴族の1人が買ったのだ。
民族も年齢も違った2人だったが、お互いが故郷を滅ぼされ、そして家族を殺された残酷な共通点はあった。最初、ライアンに声をかけてきたのはオルクからだった。
ライアンは文字の読み書きができない。
2人が奴隷として働いていた帝国領バルトの街。そこで頻繁に行われる逃走奴隷の処刑があった。
処刑場に晒された奴隷の首吊り死体と、その罪状を記された立て札。それが読めない時に、立て札に記された内容をオルクが教えてくれたのだった。
「この者自らの立場を理解せず、作業中に監視員を目を欺き、共謀者2名と街より逃走。勇敢なる帝国兵はすぐさま追跡を行い、翌日にこれらを捕縛。奴隷の逃走は重罪であるからして、ここに処刑とする。要するに僕たちへの見せしめだね」
吊るされた奴隷達を哀れな目で見つめながら、悲しそうにオルクは微笑んだ。
「この草原に囲まれた街から逃走なんて、よほどの事がないと無理なのにな。哀れな奴らだよ。しかしお前文字が読めるんだな?」
ライアンの問いにオルクは、まあねと小さく言葉を呟くとあとはただ微笑みかえすのみだった。
これが2人の出会いだった。
オルクの容姿は美しかった。
主人から気に入られるだけのことはあり、女子と見間違うほどの中性的な顔立ちをしており、特筆すべきは帝国領ではあまり見ることがないその金色の髪と、そして美しい蒼い瞳を持っていた。2年前に帝国に侵攻された西部地域、カタルナ民族の血が彼にはながれていた。
なによりその年齢からはあり得ないほど、驚くほど聡明だったのだ。
カタルナ民族が住んでいる西部地域は、ライアンの故郷、北方商業都市郡や帝国と違い言語が異なる。
それなのに彼は帝国領の言語を流暢に操り、ライアンでさえ習得していないガイアナ文字の読み書きもできる。
主人はオルクを神童として他の貴族達にたびたび自慢もしていた。
しかし他の奴隷達はそんな彼を気味悪がった。
子供だが自分達とは容姿がまるで違い、そして理解できないほど聡明なオルクを、悪魔と繋がりがある呪われた子だと蔑み、時には主人にばれないように暴力を振るうこともあった。
ライアンはそんな彼をよく庇った。帝国兵に殺された弟とオルクを重ねていたのかもしれない。
お互いが持つ残酷な共通点もあり、2人はそれほど時間をかけずに打ち解け会う仲になった。
しかし兄弟という仲ではなく、いえば師弟のような不思議な関係だった。
勿論オルクが師匠である。
読み書きの出来ないライアンにオルクは文字を教え、さらに各地に伝わる様々な伝承や、今後役にたつからと訳のわからない数字というものも教わった。
ライアンは頭が沸騰しそうなほどの知識を彼に教わったが、その学問の時間が苦しい奴隷生活の中でなにより好きに、そして何時からか生きる助けになっていた。
そんな生活を数年続けていたある日、戦争が始まったのだ。
帝国領中部の属国の一部であったメルナ王国が、民族独立を大義名分に帝国に独立戦争を仕掛けたのだった。
当初はメルナ王国の規模から、独立戦争は帝国の圧勝のうちに鎮圧され、短期で終わるだろうと誰もが言っていた。
しかしメルナ王国独立を支援する西部諸国郡、そして帝国の南に位置する大国、オーランド神聖皇国が相次いで参戦し状況が変わる。
独立戦争はいつしか大国同士の戦争へと姿を変えたのだ。
ライアンとオルクがいる中部バルトの街は、メルナ王国との国境に面し、穏やかな草原に囲まれた街は戦争の最前線になっていた。
「オルク、これはチャンスじゃないか。1週間後にはメルナの軍隊がこの街を包囲しにくると主人が話しているのを聞いた」
他の奴隷達が寝静まった奴隷牢で、ライアンは隣で寝ていたオルクに静かに話しかけた。
「逃げるのかい?」
オルクは目を瞑ったままそれに答えた。
「あぁ。どうやらこの戦争は、街の連中が言っていた以上の戦いになりそうなんだ。主人も街から逃げるか他の奴らと相談していたよ」
「だけどどうやって逃げるんだい?それに逃げてもいくあてなんてあるかい」
興奮気味に話すライアンとは変わって、オルクは冷静だった。
ライアン自身もわかっていた。自分達の故郷はもうすでにないのだから。
「北方商業都市郡なら元奴隷でも市民として受け入れてくれる街は多いと聞いた。逃げる奴隷達も大概はそこを目指すらしい」
それに、とライアンさらに続ける。
「俺の故郷は北方の低地にあった。だからある程度の土地勘ならある。道案内もできる」
「行き先はわかった。だけど包囲された街からどうやって逃げきるのか、その方法は考えてるのかい」
ぐさりと鋭い返しにライアンは、それは、と言葉を詰まらせた。
確かにそうだ。逃げようなどと言ってはみたものの、包囲された街から脱出なんて普通に考えてみれば難しい。
追ってくる帝国兵は少なくなるかもしれない。だが代わりにメルナ兵に追われることになるだろう。
「それは、これから…考える…」
まるでそこを考えていなく、項垂れたライアンに、やれやれ、とオルクは小さくため息をついた。
そしてオルクは瞑っていた目を開け、ライアンを見つめる。
「一緒に逃げる計画をたてようか」
力強い一言だった。
ジッと見つめるオルクの蒼く深い瞳に、止めどない将来への希望が身体の内から込み上げてくるのがわかった。