月 3
無口な店の主人は何も言わずに肉じゃがを一つ付けてくれた。俺は肉じゃがを突きながら黙って酒をあおった。後ろでは何事も無かったように饗宴が再開された。俺は時を忘れる為に杯を進めた。
「佐々木さん。済まないね、看板にさせてもらうよ」
親父が肩を叩いたのは大学生が店を出たことすら忘れたような頃だった。俺はポケットから、夕方最後に俺の勤めている店で手にした給料の入った袋を取り出した。二千二百七十円、店の勘定は千五十円。残りは千二十円。ふらつく足を大地に突き立てながらようやく平衡を保つ俺の身体は、自然と駅のほうへと向かっていた。
終電の終わった駅のホームには酔っ払いの影すらなく、不気味な薄笑いを浮かべながら沈黙していた。俺はシャッターの閉まった駅の改札口を横目で見ながら、線路の下を潜り抜け、煌々と明かりのついた交番の前を通り、自動販売機の前にやって来ていた。ズボンのポケットからさっきのお釣りを取り出して、手の上で転がしてみる。それにしてもなんて軽いんだろう。郵便局にはもう少し金があるはずだが、そんなことはあてにならない。今の俺にとってはこの金が重要なんだ。そういえば似たような事がドストエフスキーの小説にもあった気がする。まあ、もう少しましな台詞だったような気がするが。
俺は手の上の小銭を投入口に差し込んだ。軽薄な音を立てながら、俺の手から機械の中へと小銭は消えていった。気味の悪い赤い光に魅入られた俺の人差し指がゆっくりとコーヒーのボタンを選んで押した。無様な音を立てて転がってくる缶コーヒーを腰を曲げて右手で握りしめ、その熱さに驚きながら、ハンカチでくるみなおして持ち上げ、左手で熱さを気にしながらプルタブを引き上げる。おもむろに飲み込んだ熱い液体は俺の口ばかりでなく頬までも流れ下ることを嫌わないようだった。俺は手にかかったコーヒーを何の気なしに皺だらけのズボンで拭いながら、道路につきあってまっすぐ整列している電柱にくくりつけられたやる気の無い街灯の光の線を見つめ、この先はたしか川に続いていたはずだと言う事を考えていた。
夕方だったらさぞ人通りも多い事だろう、取り残された放置自転車の群れが昼の喧騒を暗示している。街灯の下には、まるで条例で決められているかのように異臭をはなつ白い吐捨物が光に晒されて浮き上がって見える。本屋の隣、スナックの看板の隣、花屋の隣、吐捨物の点線はいつまでと無く続いていた。俺は次こそは俺の胃の中を整理してみようと口に指を突っ込んだまま、白い吐捨物を目印に緩やかに下っていく道を歩き続けた。
細い小道の影、数え始めて十三個目の白い円盤が眼に入ったとき、その位置が少しおかしいことを気にしながらも俺の胃はついに限界に達して、俺は酒の自動販売機の隣に置かれた空き缶入れの中に少し黄色みがかった物を吐き出していた。一度開かれた食道は、次々と外へ向かう酸味を帯びた群衆で埋まり、自分でも一体なにをしているのか忘れそうになったその時、俺の背中に妙な粘液質の視線が走るのを感じた。
俺は胃の中のものを吐き出した余韻に浸りながら、軽くその視線の光を覗いた。白く光っていたのは白いボールのような物だった。そのボールには二つの眼のようなものが貼り付けてあり、低く潰れた鼻がその下でうなり声を上げながら座っている。その下に開かれた口は薄く開かれているのだが、それが笑っているのか泣いているのか、吐くと言うことに力を使い果たした俺の脳には判定しかねた。俺の眼に気付いたのか、坊主は蕎麦屋の看板に引っ掛けてあった饅頭笠を被り直して軽く身仕舞いをするとそのまま俺の進むべき道を少し足早に歩き始めた。
自分の見たものの正体に安心してゆっくりと手に付いた吐捨物をハンカチで拭い、その僧の後姿を見送っていた。ここから息を吹きかければそのままふらふらと舞い上がるようにも、助走を付けて体当たりしても跳ね飛ばされるようにも見えるような不思議なその歩みにひきつけられて、視界から消えようとする僧を追いかけ始めていた。
次第に道沿いの店が途切れ、自動販売機の数も減り、転がる自転車も数えるほどになり、突き刺さるような静けさに俺の足の歩みが遅くなっていくのに、乞食坊主は錫杖を突き立てながら、まるで俺を引きずり回して楽しんでいるかのように歩む。俺は電柱の影に身を隠して探偵を気取りながら、黒い饅頭笠を目印にして川に向かう道を千鳥足で下っていく。




