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  作者: 橋本 直
2/5

月 2

 CDの音が途切れた。手元のリモコンを使ってテレビの電源を切り、電灯のスイッチの紐に結びつけた紐を引いて部屋を暗くした。それまで猫を被っていた街の光が、急にその正体を顕したように部屋の中一杯に広がっていつまでと無く続く光の輪を作り始める。どこまでそいつ等は俺を追って来れば気が済むのだろうか。どうせ逃げられないのなら・・・醒めたままの目玉を鎮めようと立ち上がった俺は、テレビの上に置かれた眼鏡を手に取り上げた。部屋の中は相変わらず静かな月の光が輪を描き続けている。振り返りたくなる衝動を押さえつけながら玄関へと向かい、緩みかけた靴紐を結び直す。

 立てつけの悪いアルミの扉を開けて、アパートの通路に出た。街灯の不完全な光が、闇に慣れた俺の目に嗜虐的な光を浴びせてくる。俺の部屋も、その隣の部屋も主を失って沈黙の耳障りな音を立て続けている。俺はそのまま、歩く度に軽薄そうに啼く階段を下り、車も通れないような狭い路地を水溜りに気をかけながら進んでいく。昼の生気を失った道は、誰一人として振り向くもののないことを悲しんでいるかのように見えた。

 電柱に掛けられた看板。歯医者、建設会社、印刷工場。置き忘れたように自動販売機が誰もない歩道の上を照らしている。そんな中を、足はあてもなく地面を捉え、意識はその上に乗って進んでいく。

 俺の足は自然と駅への道をとっていた。車の途絶えた国道を渡って、専門学校の脇、電球の切れ掛かった街灯の下を進み、放置自転車の影を抜けたところ。黒く染まった商店街の目を背けたくなるようなアーケードの果てに、俺は一筋の光を見いだした。

 いつも、どうしても眠気がやっえこないときに訪れる一杯飲み屋、黒く煤けた縄暖簾を潜って薄暗い店の中、親父はいつものようにカウンターの向こうでビールを注ぎながらふらつく手をしならせて器用にしし唐を串に刺している。俺はいつもどおり、一番奥の席に腰を下ろした。見かけない若い女が、突き出しと割り箸、そして冷めかけたお絞りを俺の前のカウンターに並べた。

「とりあえず、熱燗。それと揚げだし豆腐」

 無言のままで引き上げる女の足音が、急に響き始めた後ろの大学生達の歌声でかき消される。振り上げられる力のない拳、踏み鳴らされるのは力の抜けるようなリズム、ずり落ちかけた眼鏡の中途半端に開かれた眼。

 そのうちの一人、壁際で青ざめたその頬をしきりと拭いながら、意味もなく左腕の高そうな時計を赤い眼で覗き込んでいる男。残りの連中の顔色を覗いながら目の前にあった泡のほとんど消えかけたビールをあおる。よろけながら立ち上がり、隣の眼鏡をかけたぼんやりとした男を押しのけようと身を翻そうとした。しかし、鈍りきった彼の神経は、どこをどう間違えたのか、その左腕をビール瓶の首に叩きつけるという奇妙な選択をする事になった。

 男の左腕に瓶の首がめりこみ、遮断機のように飴色の瓶が油にまみれた取り皿にもたれかかる。しかし、取り皿は丸みを帯びたビール瓶の肩に跳ね飛ばされテーブルの中央に逃げ去った。相方を失った色黒の道化は、舞台の上で何度か地団駄を踏んだ後、気が変わったようにテーブルの縁に向かった。呆然とその有様を見ていた長髪の若造も男達もようやく瓶の目的に気付いたようで、今度は仕事にあぶれていた右腕で縁の出っ張りのために行く手を遮られていた自殺願望の持ち主の望みに手を貸してやった。眼鏡の男が持ち前のぼんやりをかなぐり捨てて救いの手を差し伸べた頃には、ビール瓶の床に向かってのダイブは完成して、床に刺々しい死体を残しているだけだった。

「割っちまった」

 四人の動きが一瞬止まる。ぼんやりと突き出しを突いている俺の視線を一瞬掠めた、長髪の男の死にかけた赤い眼。俺は眼を背ける。ガソリンのような臭みを放つ酒を運んできた赤い髪の女は慣れた足どりで店の奥から箒を持ってきて、泡にまみれた床を掃き始める。



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