英雄時代 老婦人の懇願
「本当にこれでよかったのかい?」
濡れたような漆黒の羽と髪の妖精が、その手に血の雫のような形をした深紅の塊を抱え問いかける。
ほんの少しの沈黙の後に、妖精の口の端が引き裂け深紅の塊を飲み込んでいく。
原型を留めないほど広がった口が、獲物を飲む蛇のようにゆっくりと――
英雄時代【20歳】
雨上がりの青く広い空、辺り一面の草原、心地よい風の匂い、暑くも寒くもない一年の中でも過ごしやすい時期だった。
東へと向かう一人と一匹の旅人。一人は、擦り切れた黒い服に少々破れた革鎧を着て、大陸の何処にでもあるような都市の門のすぐそばを歩いていた。まず、誰もが一目見た瞬間に、その金色に目を奪われるだろう。しかし、眩い金の髪は無造作に切ったのか不揃いで、整った顔立ちに白い肌も、くたびれた服装も、その全てが酷い不釣り合いを起こしてみえる。そして、隙のない歩き方からは、腕が立つ傭兵か用心棒であることが窺えるだろうか。
もう一匹は、銀の髪に透き通った羽の美しい妖精だった。妖精は都市の門が近づくと落ち着かない様子で、肩に乗ったり頭に乗ったり鞄の中に潜りこんだりフラフラと舞っていた。
「心配ないだろ、たぶん珍しがるくらいで誰も取って食ったりしないって」
「怖くなんか無いさ、もし食われても少し困るだけ」
優しい声に応える妖精は、微塵も困っていない様子で舞い続けた。
その都市の門の前では、警備の兵が順番で門番小屋に人々を案内をしていた。そして、小屋の中では中年の男と若い男の2人が淡々と手続きを行っている。
「次は、ノエル・リリーホワイト20歳、えー、傭兵で間違いないか?」
「あ、はいっ」
「おっ、若く見えるな、ずいぶん背は大きいが16、7歳かと思ったぞ」
ムッとした顔で睨まれた中年の門番は急いで続ける。
「おい怖い顔すんなって、――この長い平和で傭兵業ってのも楽じゃないだろう、もっとも殺し殺され――」
「とりあえず一通りの持ち物を調べるからその上に出してくれ」
旅道具一式と、数本のナイフに金属の小手、小型の弓矢、変な小瓶、よくわからない玩具の様な物まで、何処に隠し持っていたのか大量の武器が次々とテーブルの上へと並べられた。
「おぉっ! これは、カタナってやつですね。実際に使っているのは初めて見ましたよ」
若い方の門番が驚いた声を上げた。
「こう見えて私は武士なんだ」
「BUSHI?」
「そう! 武士とは遥か東にあるヨナ国の誇り高き剣士! 男の中の男!」
「つまり、ヨナ刀はただの剣ではなく己が生き様であり信念、それは武士の魂」
「すなわち、刀とは男の――」
以下略
「よーく分かったからもういいよ。最近は魔物の数も多く凶暴になったし、まあ面倒事は起こさないように。次の人――」
その武士は満足したのか、
嬉しそうに微笑みながら、軽い足取りで小屋を出ていく。
「キミのこと聞かれなかったな。ちょっと拍子抜けだった」
「彼らには見えなかっただけさ。何処にでも居るし何処にも居ない。それでいいんだ」
そう呟いてつまらなそうに舞う美しい妖精。
何処の都市も似たり寄ったりで、通りに面して、宿屋や食事に様々な商店が並んでいる。そして、どの街でも旅人のすることは変わらなかった。旅の途中で得た金目の物や動物や魔物の皮などを売って金銭に変えたり、使ってしまった旅道具を揃えたりすることだった。そして、もう一は路銀のための仕事を探す事である。
その傭兵が仕事を探しに『傭兵斡旋所』へ向かう途中、手入れの行き届いた広い庭園のある大きな屋敷の前で、とても品のいい老婦人に声をかけられた。
「まあ、アーノルドちゃん。いつも忙しいと会いにも来てくれないから心配していたのよ」
「わ、私はアーノルドちゃんではないですぞ」
「なにを言っているの? あなたは私の大事な一人息子なのよ、早く孫と一緒に来てちょうだいね」
混乱しておかしな声が出た傭兵に、屋敷の使用人だろう壮年の男が申し訳ない様子で近づいてきた。
「失礼いたしました。もう何年も前から奥様はああいったご様子でして」
そう言うと執事は直ぐに老婦人を連れて屋敷の方へと戻っていった。
この都市の『傭兵斡旋所』は、街の規模にしては随分小さな建物で、寂れていて活気があるようにはみえなかった。
そして、中の受付には、三十路過ぎくらいで、少し小ジワの出始めた褐色の肌と赤黒い短髪に野性を感じる女が構えていた。
その女は、女と言うには大き過ぎ、そして逞し過ぎた。その筋骨隆々とした丸太のような腕は、とても女性の腕に見えないどころか、男性でもありえないほどの太さだ。
「いらっしゃい」
「何かお金になりそうな仕事はありませんか?」
「じゃあコレだ、『行方不明の青年の捜索』」
「その金額、訳ありなのか?」
「ああ、多分もうこの世に居ないだろうから見つけるのは難しい」
「なんだか危なそうな話、考えとくよ。それよりめちゃくちゃにデカイな、なに食べてそんなにデカくなったんだ?」
「まあ、アタシの体は特別製の生まれつきだからな。それにアンタも大きい方だろう?」
「オレより大きな女はあまり見ないし……その腕は憧れる」
「ハハハ! 憧れるかぁ――ただ大きけりゃいいもんでもない。アンタは若いのに隙がないし腕が立つように見える。それにその妖精だ。妖精なんかそうそう居るもんじゃないし懐くようなもんでもない。仲良くしてやんな」
その身の丈2メートルに迫る豪快な大女は、捻り潰してしまうんじゃないかという勢いで楽しそうに頭を撫でた。
傭兵は、仕事探しの帰り道で、鞄の中に潜り込んでいる美しい妖精を覗き込んだ。
「あの人には見えるんだ」
「あの女は本当に特別だ。あの女の方こそ珍しい」
妖精はいつになく感情がこもった声で答えた。
鞄からちょこっと顔を出した美しい妖精の珍しい顔を見ている傭兵に突然に声がかけられた。
「まあ、アレックスちゃん。
ほんとうに来てくれたのね。おばあちゃんとっても嬉しいわ」
「!?」
「お家にはお茶もお菓子も沢山あるわよ。お家に上がっていきなさい」
先ほどの大きな屋敷の前で、また、とても品のいい老婦人が声をかけてきているのである。そして、傭兵は、優しく話すどこか寂しそうな老婦人の誘いを断りきれずに屋敷の中に入っていった。
すると、壮年執事が『またご迷惑おかけして』と言って応接室 へと案内した。
応接室は様々な調度品や美術品が並んでいる。椅子には綺麗な細工がなされていて座りにくいほどフカフカで、大き過ぎるテーブルも壁も灯りも、これでもかという程に、目がチカチカする金銀豪華な装飾がされていた。そして、大きな壺や絵画などは、うっかり触ってしまったら取り返しがつかなそうなものばかりだ。
「今、お屋敷に住まわれているのは、奥様お一人でございます。少しの間だけでも話し相手になっていただけたらと」
「だいたいのお話はわかりました。何かのご縁です。お茶くらいお付き合いしますよ」
「ありがとう御座います。お礼はさせていただきますのでどうか」
そう言って壮年執事は、完全に場違いな傭兵に頭を下げた。
しばらくして部屋へ入ってきた老婦人は『アーノルドちゃん、お菓子はおいしい?』嬉しそうに聞いてきた。『ええ、とっても』笑顔を作って返すと、老婦人はそれにまた微笑みを返した。老婦人はずっと昔の思い出を話しているようだった。
支離滅裂でまったく話は噛み合わないけれど『ええ』『覚えているよ』『楽しかった』などと返すと老婦人は嬉しそうに笑っていた。
傭兵は、一刻ほど老婦人と話をし『もう帰らなければ』と告げると、老婦人の声はどんどん寂しそうなものへと変わっていった。
「もう今夜は泊まって行きなさい」
「いいえ、泊まっていくわけにもいきませんし……」
「遠慮しなくてもいいのよ、ここはあなたのお家でもあるのだから」
老婦人は寂しさ悲しさを訴えるような表情をした。
「でも、帰らなければ」
「帰ってしまうならお小遣いを持って行きなさい」
「ちょっと待って、こんなたくさんの金貨なんて受け取れない」
「それじゃあ、この指輪をお土産にしなさい」
「えぇっ!?」
「私はもうこれくらいの事しかしてあげられないのよッ!」
突き刺すような声を上げた老婦人は、その手から緑色の大きな宝石の付いた指輪を外した。そして、無理やり傭兵の手のひらの中に指輪を握らせて、目に涙を浮かべ、持って帰るように懇願してきた。
そして、傭兵は指輪を持たせようとする老婦人に困り果て、金貨どころではない高そうな指輪をテーブルに置き帰ろうとした。
「待って、そうだわ、お菓子をお菓子を持って行きなさい」
「ああ、お菓子だったらいいかな」
それを聞いた老婦人は、安心した様子で落ち着きを取り戻した。
そして、傭兵が玄関まで来ると、壮年執事が『本日は誠にありがとうございました』と深くお辞儀をした。
「……アーノルドちゃん、また来てくれるわよね?」
「…………」
「みんな……みんな、私の側から居なくなってしまうのね……」
老婦人の周りに一瞬だけ黒い靄が立ち込め空気が歪むと、その姿がみるみる異形のモノへと変わっていく。
肉が膨らみ服は引き裂け、肉が皮膚を突き破ってはグチャグチャ音を立て更に大きくなっていった。ビチャビチャと得体のしれない粘液が滴り落ち、巨大な赤黒い肉の塊へと姿を変え、老婦人は人間ではなくなっていく。さらに、腕のように思える十数本の触手が伸び出て不規則に蠢いている。そして、無数の牙の生えた口がある太い一本が恐らくは頭だろう。
こうして瞬く間に、玄関の高い天井に届きそうな大きさの魔物以上の『本当の化物』が目の前に現れたのだった。
「逃げてえぇぇ!」
顔の無い化物が孤独に哭いた次の瞬間には、壮年執事が腕とも触手とも思える一本に薙ぎ払われていた。
執事の身体はありえない方向に折れ曲がり、地面と平行に飛び、激しく壁へと叩きつけられ鈍く湿った音があがった。ただの一撃。ただの一発で、人間の骨は砕かれ、肉は引き千切れ、果実のように頭は潰れ、赤く赤くその命を失っている。
人間が刀を抜き構えたところで何の意味もない、迫り来る死がすぐ目の前にあった。
「おばあちゃん!」
叫ぶ声も虚しく、振り下ろされる触手が迫る。咄嗟に大きく横へと転がって躱すと、厚い石で出来た玄関の床は容易く砕け捲れ上がった。さらに伸びる別の触手は、首の横をかすめ肩当てと肩の肉の表面を削ぎ落とし鮮血が飛び散った。
一瞬の隙を突き前に出る。ギリギリで躱しながら切り上げる刀が一本の触手を切り落とした。しかし、床に転がる切り落とした触手は意思を持ったようにまだ動いている。
虚を突く様な動きで、また一歩また一歩、触手を躱しては触手を切り落とす。そして、ついに化物の首へとその刀が届くが、とても刀で切れるような大きさ太さではないのだ。刀は中ほどまでしか届かず切り口は絡むように繋がり、何事もなかった様にまた触手を振るった。
化物を相手に、獣のように速く静かに刀という鋭い牙を立て続ける。決して怯むこと無く静かに何度も何度も――
――壁や床が崩れ扉のなくなった玄関に、涙を堪えたように俯いた一人と美しい一匹が佇んでいた。
「なあ、分かってたのか……」
「さあね、大した事も分からないし、大した事も出来はしない、僕らはただ願いを叶えるだけなのだから」
「……」
「でもね、少しだけ嬉しそうないい顔をしているようじゃないか」
玄関では、血の雫のような形をした深紅の魔晶を両手に抱えた銀髪の美しい妖精の横で、首だけになった老婦人は、飛び出さんばかりに目を大きく開き見つめていた。
「あの依頼? ああ、あれはもう下げられた。酷い様だったから少し話題になった金持ち――」




