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それは夕食時の事だった。珍しく早い時間に帰宅した主人のため、食堂の広いテーブルの上に普段よりも盛大な食事が二人分用意された。新婚にも関わらず、いつも自室で孤独に食事をとる女主人を思いやり、使用人達が気を利かせたのだろう。
何故かやたらと張り切るシシルによって美しく飾り立てられたクレアは、先刻の絵の件で暫くはフリードの顔も見たくない心境だったが、皆の優しい心遣いを無碍にはできず、不本意ながらも席に着く。一方のフリードも、ドレスアップしたクレアに合わせて、髪を額から後ろに向かって流し、正装に着替えて参加しているものの、夫婦の親交を深める気はないらしく、美しい所作で黙々と食事を口に運んでいる。無論、クレアの方から歩み寄るつもりは毛頭なく、二人の間には張り詰めた空気が流れていた。
「お前に話しておく事がある」
最後のデザートを完食し、ようやく苦痛の時間から解放されると思っていたクレアは、突然口を開いたフリードをちらりと見た。
「一週間後、王宮で盛大な舞踏会が開かれる。同伴者として、お前にも参加してもらいたい」
「お断りするわ」
反射的に否定の言葉を口にしたクレアを、フリードは鋭い眼差しで睨んだ。
「駄目だ。これはお願いではなく、命令だ」
「何故? いつもは行かなくても良いと言うじゃない」
「今回ばかりはどうしようもない。国王陛下からの招待を辞退するわけにはいかないだろう?」
「―――っ」
クレアは声にならない声を上げ、震える唇を噛んだ。単なる貴族の夜会ならばともかく、王族からの招待状を無視する事など許されない。屋敷の奥に引きこもり、決して人前へ姿を現さない現状が異常である事は、クレアももちろん分かっていた。いつまでもこのままでいるわけにはいかないという事も。いずれは必ずエルジア侯爵夫人として表舞台に立たねばならない日が来ると覚悟はしていたが、ついにその時がやって来たかと思うと、クレアは恐怖のあまり気が遠くなりそうだった。
「でも………そう、ドレスがないわ。靴や宝石だって」
子供染みた言い訳だと分かってはいたが、動揺する心を落ち着けるために何かを言わなければ気が済まなかった。
「心配しなくても、必要な物は明日の昼までに届くように手配してある。今からでは既製品で間に合わせるしかないが、気にいったものがあれば好きなだけ選べばいい」
「ナターシャのように?」
その時、何故そんな事を口にしてしまったのか、すぐにクレアは後悔した。突然の成り行きに、どうやら自分で思うよりも混乱していたらしい。かつての前妻の名前を耳にしたフリードは、ただでさえ不機嫌な瞳を冷たく凍りつかせ、軽蔑の眼差しでクレアを見据えた。
「………気に食わないのは分かるが、俺だとて好き好んでお前を連れて行くわけではない事を理解してもらいたいものだな」
フリードは嫌悪の表情を隠しもせず、言葉を失ったクレアを一人残し、足早に食堂を後にした。クレアは己の事で頭が一杯になっていたが、老人のように杖をつき、足を引きずる妻を進んで人前に出したがる夫がどこにいるだろう。クレアだけでなく、その隣に立つフリードにも絶えず好奇の視線が付きまとい、彼の自尊心を大いに傷つける事は想像に難くない。
一週間後に控えた拷問にも等しい数時間を思い、クレアはこみ上げる吐き気を押さえるのに随分と苦労するのだった。
* * * *
翌日の午後、クレアの部屋に大量のドレスが届けられた。衣装の他にも宝石、靴、髪飾りなどの小物が数多く揃えられ、色とりどりの美しい箱に収められたそれらが部屋中に積み上げられている様子はまさに壮観だった。
今朝もクレアが目覚める前に出仕したフリードの書き置きによれば、昨夜の言葉通り、この中からどれでも気に入った物を好きなだけ選んで良いという。必要ならすべてを購入しても構わないとも。
「まるで夢のような景色ですわ! 奥様は本当に旦那様から愛されておいでですね」
部屋中に広がる極彩色の装飾品たちを見て、興奮した様子ではしゃぐシシルに、クレアは曖昧に微笑んだ。これはシシルが思っているような、ただの夫から愛する妻への贅沢な贈り物であるはずがない。恐らくは、クレアが深刻なトラウマを抱いていると知った上で、社交界への参加を強制した事への埋め合わせだろう。
しかし、クレアはここであえて夫婦の不仲を公言し、シシルの幻想を壊すことはしなかった。
「本当に素敵な物ばかりね。どれにしようか迷ってしまうわ」
クレアは手近にあった薄紅色のドレスを手に取り、うっとりとため息をついた。さらりとした手触りの生地が心地よく、膨らんだ袖と深く切り込んだ胸元に見事な刺繍が施されたそれは、長年華やかな世界から遠ざかっていたクレアの中に眠る貴族の女性としての喜びを密かに目覚めさせた。
「この青色のドレスはいかがですか? 奥様の白い肌によく映えますわ」
シシルが手にしたドレスは、首から胸までを繊細なレースで慎み深く覆い隠している代わりに、背中が大きく開いたデザインのものだった。
「確かに素敵だけど、後ろ姿が少し大胆すぎない?」
「そうでしょうか? 最近はもっと肌を見せる際どい物も流行っていますよ」
平然としたシシルの言葉に、クレアは微かに頬を染めた。クレアが社交界にいたのは十代の頃で、当時は母のテレサに言われるがまま、レースやリボンがたっぷりついた可愛らしいドレスばかりを選んでいた。村で暮らしていた頃は、動きやすさを重視したシンプルな普段着を着ていたため、成人女性が身につける魅惑的なドレスには縁がなく、ほとんど未知の領域と言って良い。
クレアはこの際、思い切ってフリードや舞踏会のことは忘れ、目の前の現実を楽しむことに決めた。
「では、この白いドレスは? 襟ぐりは少し開いていますが、長袖ですし、スカートにかなりのボリュームがありますから、体の線もあまり出ませんよ」
確かに、デザインはクレアの理想通りだが、生地の眩しいほどの真白さが、着ることのなかった花嫁衣装を連想してしまい嫌だった。その後も何着も試着してみては、シシルと共にああでもないこうでもないと比べ合っている内に、あっという間に数時間が過ぎていた。
ふと、クレアは色鮮やかな箱の中に埋もれるようにして、ひっそりと置かれているシンプルな白い箱が目に付いた。
「シシル、あの箱を取ってくれる?」
「―――っ! はい」
ほんの一瞬、きらりと目を輝かせたシシルに首を傾げながら、クレアは箱にかけられているリボンを解き、蓋を開けてみた。中から現れたのは、清楚な印象の淡い水色のドレスだった。袖は腕を細く見せるノースリーブで、大粒の真珠が散りばめられた胸元は上品さを損なわない程度に広がり、けれど女性らしい膨らみをさりげなく強調している。そのすぐ下で切り替えられたスカートはボリュームを抑えつつも、たっぷりとした繊細な生地でいくつものひだを作りながら地面に向かって真っ直ぐ流れ落ち、クレアの弱点である両足をつま先まで完全に隠してくれている。
一目見てこのドレスを気に入ったクレアは、すぐにシシルの手を借りて試着をした。ドレスはまるでクレアのために誂えたかのように、彼女の細い体にぴったりと沿い、シルエットは完璧だった。
「どうかしら?」
「はい! とってもよくお似合いだと思います」
シシルはその大きな目に涙さえ浮かべながら、感動した様子で何度も頷いた。その反応に背中を押されたクレアは、ドレスをこれにする事に決めた。それから白い花の髪飾りと、ドレスに合わせた豪華な真珠の耳飾りを選んだところで、クレアは急に目眩を感じて作業を中断した。
「少し休憩するわ」
まだ大事な靴選びが残っていたが、クレアは一度ドレスを脱ぎ、疲労のあまり長椅子に横たわった。途端に急激な眠気に襲われ、すぐに瞼が降りてくる。
シシルの気遣う声に返事をするのもままならず、クレアの意識はそのままゆっくりと闇に落ちた。