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 二人が部屋へ戻ると、いつもより随分遅い女主人の帰りを待っていたシシルは、すっかり体を冷やしてしまったクレアがくしゃみをするのを見て、兄であるジゼルを容赦なく叱りつけた。

「まあ、ジゼルのせいじゃないのよ。わたしがぼんやりしていたから」

 シシルによって用意されていた紅茶を飲みながら、クレアは妹の前で項垂れるジゼルを庇った。

「いーえ! どうせこの朴念仁がぼーっと突っ立っているばかりで、奥様の体調変化に気づかなかったに決まってます!」

「………申し訳ありません、奥様」

 大きな体でしゅんと俯くその姿は、まるで主人に怒られた大型犬のようで、何だか可愛くさえ見えてしまう。ジゼルは妹のシシルに頭が上がらないのだ。

「本当に、貴方のせいじゃないのよ。さあ、ジゼルも寒かったでしょう? シシル、彼にも紅茶を用意してあげてちょうだい」

「まあ、奥様! 使用人にそんなお気遣いは無用ですわ。奥様こそ、どうぞおかわりを召し上がってください」

 シシルに問答無用で二杯目の紅茶を注がれながら、クレアは苦笑しつつジゼルを見た。これ以上無実の罪で叱られるのは可哀想なので、別の用事を言いつける事にする。

「じゃあ、ジゼル。わたしの道具箱の中から、絵の具を取ってきてちょうだい。午後は久しぶりに絵を描きたいから」

「かしこまりました」

 部屋から出て行く大きな背を見送りながら、両手を腰に当てたシシルが大げさにため息をつく。

「全く………申し訳ありません。力仕事以外はちっともお役に立てなくて」

「そんなことないわよ。とっても頼りにしてるわ」

 そうして腹を立てながらも、シシルがジゼルを慕っている事はよく知っている。この仲の良い兄妹をクレアの使用人に抜擢したのは、フリードの采配だという。この点においてはクレアは彼にとても感謝している。二人の微笑ましいやりとりは、急激な環境の変化に滅入りそうになるクレアの心を随分明るくしてくれた。

 やがて、戻ってきたジゼルがテーブルの上に道具を列べた。それはクレアがエルジア家に嫁ぐ際に、唯一自分で持ち込んだものだ。久しぶりに嗅ぐ絵の具の独特な臭いに、クレアは気分が高揚するのを感じる。描きかけの絵を広げると、我ながら何とも言えない色彩が散らばった、歪な形のものが現れた。

「ねえ、ジゼル。これはなんだと思う?」

 クレアが少し意地悪な気持ちで絵を指さすと、ジゼルは無言で紙の上を見つめた後、ぽつりと答えた。

「………青い猫、でしょうか?」

「馬鹿! これはどう見ても鳥よ! ね、そうですわよね? 奥様」

 にっこりと自信に満ちた笑顔のシシルに、クレアは苦笑するしかない。それは青薔薇のつもりなのだと答えたら、二人はどんな顔をするだろうか。双子の慌てぶりを思うと少し可哀想なので、完成まで本当のことは言わずにおこうと決意する。今は離ればなれになってしまった村の子供達を思わせるやり取りに、クレアは郷愁にも似た寂しさを強く感じた。彼らに会いに行くことは出来ないかわりに、せめて絵本を送ってあげようと思い、少しずつ描きためてはいるのだが、こんな有様であるから、中々思うように作業は進まない。

「……………」

 絵筆をとってからどれくらいの時間が経ったのだろう。不意に人の気配を感じて顔を上げると、すぐ側にフリードが立っていることに気づき、クレアは心底ぎょっとした。

「フリード!」

「………随分集中していたな」

 いつからそこにいたのだろう。仕事から戻ったばかりなのか、フリードは漆黒の外套を着たままだ。一度作業にのめりこむと、周りが見えなくなってしまうのがクレアの悪い癖だ。気を利かせたのか双子の姿はどこにもなく、いつの間にか夫婦二人きりにされていたようだ。

「………今日は珍しく帰りが早いのね」

 真剣になっているところを見られたのが気恥ずかしくて、つい冷たい口調になってしまう。久々にじっくりと眺めるフリードの姿は相変わらず美しい。風にあおられ、少しだけ乱れた艶やかな黒髪。宝石のように透き通った藤色の瞳。白磁の肌に映える薄く赤い唇。そのまま絵画にしたいような凛々しさだったが、クレアにそんな才能があるわけもない。

 フリードはクレアの言葉に応えず、その涼しげな眼差しは彼女の手元にある描きかけの絵に向けられていた。

「………下手だな」

 ぼそりと嘲笑うように紡がれた一言に、クレアの頬がかっと顔が赤くなった。その言葉を言われたのは二度目だ。幼い頃、まだ己の絵心のなさに気づく前、クレアは読書中のフリードを捕まえて、彼の似顔絵を描いた事があった。その時も、完成した絵を見て、フリードは今と同じ事を言ったのだ。

 当時の怒りを思い出したクレアは、描いたばかりの絵をぐしゃりと衝動的に握り潰していた。フリードはわずかに目を瞠った。

「―――言われなくても、知ってます。不快なものを見せて悪かったわ。今度から絵を描く時は、貴方の目に触れないようにするから」

 その時、フリードがどんな表情をしていたのか、俯くクレアは知る由もない。その後、フリードが無言で部屋を出ていくまで、クレアは机の上に零した絵の具の染みを見つめたまま、決して顔を上げなかった。


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