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―――幼い頃の夢を見た。
当時十二歳のクレアは、大きな声でフリードの名を呼びながら、エルジア家の広大な庭を自由な両足で歩き回っていた。クレアより五つ年下のフリードは、口数が少なく、酷く気むずかしい子供で、外で遊ぶよりも広い部屋の片隅で本を読んでいるような風変わりな少年だった。また、他人が側にいる事を嫌がり、大人の目を盗んではよく姿を眩ませて、使用人達を大いに困らせてた。
その日、母と共にエルジア邸を訪れたクレアは、屋敷に到着して早々、フリードの不在を知らされ、捜索にかり出されていた。いなくなったフリードを捜すのはクレアの役目と決まっていて、何故だか分からないが、彼女だけがいつも彼の居場所を突き止める事が出来るのだった。
「いい加減にしてよね、フリード。わたしが来ると、どうしていつもいなくなるわけ?」
薔薇園の複雑にうねった垣根の根本に座り込むフリードを見下ろし、クレアは腰に両手を当ててうんざりした顔で言った。今日は祖母が可愛い孫娘のために作らせたというドレスの試着に来たのだ。昨夜からずっと楽しみにしていたクレアは、フリードのせいでお預けを食らい腹を立てていた。膝の上に分厚いお気に入りの本を抱えたフリードは、感情の読めない人形のように整った顔を上げ、透き通った繊細な瞳でクレアを見上げた。
「………クレアは、どうして僕を探しにくるの?」
「あなたがいなくなるからでしょう」
何て当たり前の事を聞くのだろうか。クレアが特に深く考えずに答えると、フリードは大きな菫色の瞳を零れそうなほどに見開き、呆然とした顔で彼女を食い入るように見つめた。
「さあ、立って。いつまでもこんな所にいないで、一緒に屋敷へ戻りましょう」
「ねえ、クレア」
目の前に差し出された手を無視して、フリードはクレアの名を呼んだ。そして、彼は聞き取れないほど小さな声で何かを囁いた。けれど、早く母と祖母の元に戻りたかったクレアは、フリードの事など見もせずにおざなりに頷いたのだった。
「分かった。分かった。ほら、もう気が済んだでしょう? 行くわよ」
「うん」
何がそんなに彼を喜ばせたのか。フリードはそれまで見た事もない程無邪気に微笑み、小さな手でクレアの手を取った。
―――そこで、目が覚めた。
瞼を開けると、最近ようやく見慣れてきた天井が目に入る。ちらりと視線を動かし、隣に誰もいない事を確認すると、クレアは静かに息を吐く。同時に、ドアをノックする音が響き、クレアはゆっくりと体を起こした。
「今、起きたわ。入って、シシル」
声を掛けると、音もなくドアが開き、一人の若いメイドが入ってくる。淡い茶髪をきっちりと結い上げ、紺色のエプロンドレスを身につけた彼女は、綺麗なお辞儀をした後、人好きのする顔でにっこりと微笑んだ。
「おはようございます。ご気分はいかがでしょうか?」
「ええ、悪くないわ。支度を手伝ってもらえる?」
「はい、奥様!」
クレアは元気な返事に苦笑し、シシルの手を借りて広い寝台から降りる。
―――奥様。
そう呼ばれる事に、クレアは未だ違和感が拭えずにいる。フリードと正式に結婚してから、早三ヶ月が過ぎていた。彼は二度目ということもあり、盛大な式は上げず、二人きりの教会でまるで隠れるようにして神に誓いを立てた。クレアにも純白の花嫁衣装を着て、大勢の人々に祝われる結婚というものに人並みの憧れはもちろんあったが、嫁き遅れの不具の花嫁として見せ物になるのは避けたかったので、特に不満を言うつもりはなかった。
そんな風に始まったフリードとの結婚生活は、意外にも穏やかなものだった。国王の側近として仕えるフリードは、クレアが起きるより早く王宮へ出仕し、深夜まで屋敷へ帰らないという多忙な日々を送り、二人はほとんど顔を合わせる事もない。
そして、何より有り難かったのは、クレアが心から恐れていた、エルジア家の女主人として社交界へ参加する事を、フリードが強制しなかった事だった。杖を手放せないクレアを己の妻として人前に出す事を厭ったのだろう。理由はともあれ、あの醜悪な世界へ舞い戻らずに済んだ事に心から安堵する。
おそらく今頃社交界では、若く美しいエルジア侯爵が、足手まといの年増を二人目の妻に迎えたという噂で持ちきりだろう。幸い、結婚後、屋敷から一歩も出ていないクレアの耳には何一つ届いていないが。
「本当に奥様はお美しいですねえ」
鏡台の前に座るわたしの長い金髪を結いながら、シシルがうっとりとため息をついた。
「ありがとう。でも、わたしなんかよりも、ナターシャの方がずっと綺麗だったでしょう?」
少しからかうように意地悪を言えば、シシルはぎょっとした顔で手を止めた。
「まあ、そんな! 確かに美しい方ではありましたけれど、とても厳しくて気の強いお方で………奥様の方がずっとお綺麗でお優しい方だと、わたくしたち使用人の間では評判なんですよ」
村の子供達を思わせる、無邪気なシシルの言葉にクレアは苦笑する。フリードの前妻であるナターシャのエルジア家における評判はすこぶる悪い。夫婦となったからには、夫の過去の女性関係に無関心ではあれど無知でいる訳にも行かず、使用人達にそれとなく探りを入れた結果はこうだ。
ナターシャはフリードの前では貞淑な妻としてしおらしく振る舞っていたものの、使用人に対しては高慢な態度で権力を振りかざし、多数の宝石やドレスを買い集めては、大金を毎日湯水のように使っていた。それだけならまだしも、フリードに相手にされないあてつけに愛人を作り、人目も憚らず二人で堂々と社交界へ現れ、エルジア家の評判を地に落とした。それが離婚の決定的な原因となり、ナターシャはエルジア家から追放されたのだという。
「さあ、出来ました。すぐに朝食になさいますか?」
シシルは殊更明るい声で話を切り替えた。クレアはそれ以上追求せず、シシルが施してくれた化粧と髪型の素晴らしい出来映えに満足げに微笑んだ。
「そうね。その後、いつも通り庭を歩くわ。少しは運動しないと足に悪いから」
クレアは無意識に不自由な方の足をさすった。放っておくとすぐに筋肉が衰えてしまうため、毎日意識的に運動を心がけている。
「かしこまりました。では、ジゼルを呼んでおきますね」
ジゼルとはシシルの双子の兄で、彼女と共にクレアの介助をしてくれる青年だ。長身の彼は一見細身だが、実は鍛えられた体をしていて、クレアを抱き上げ、移動する事も容易くできてしまう。武術の心得もあり、いざという時の護衛も兼ねて付き添ってくれる頼もしい存在だった
一人きりの朝食を終えた後、日課の散歩のため庭へ出たクレアは、杖の代わりにジゼルの腕を取って歩いた。ジゼルは心得たもので、女主人の歩幅に合わせてゆっくりと歩き、何も言わなくても立ち止まってくれる。クレアが声をかければ言葉少なに答えてくれるが、自ら話しかけてくる事は滅多にない。けれど、クレアはこの沈黙の時間が気に入っていた。
無言の空間の中、クレアは様々な事に思いを馳せる。自分の事。両親の事。村の子供の事。そして、フリードの事。気がつけば足は薔薇園に向かっており、かつて幼いフリードが密かに隠れていた場所に辿り着いた。そこはあの頃と変わらず色とりどりの薔薇が咲き乱れていて、クレアはまだ夢の中にいるのではないかと錯覚しそうになる。あの時のフリードの無邪気な笑顔が脳裏に浮かぶ。あの時、彼は何と言ったのだろうか―――?
「あ………」
その時、ジゼルが微かに息を飲んだ。過去から現実へと意識を戻したクレアは、隣に立つ長身の男を見上げた。
「どうかした?」
「いえ、なんでも………奥様、そろそろお部屋に戻りましょう。風が冷たくなってきました」
ジゼルは「失礼を」と声をかけてから、念のためにシシルが持たせていたショールをクレアの肩にそっとかけた。
「ありがとう。そうね、少し肌寒くなってきたみたい。温かい紅茶が飲みたいわ」
「すぐにご用意します」
頷くジゼルの腕を取り、クレアは薔薇園に背を向けてゆっくりと歩き出した。ジゼルは密かに振り返る。先ほど薔薇の茂みに隠れるようにして、彼の視線の先に佇んでいた男の姿は、もうそこにはなかった。