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「………何なの、これは」

フリードと共に屋敷へ入り、応接室の豪奢な長椅子に座らされてすぐ、目の前に突きつけられた一枚の紙切れに、クレアは眉を顰めた。

「見れば分かるだろう。婚姻届だ。お前は何も考える必要はない。ただそこに自分の名をサインするだけで良い」

 ―――婚姻届? サイン?

 フリードの言葉が左右の耳を素通りする。クレアは上質な紙に綴られた文章を信じられない思いで見つめた。さらに驚くべきは、夫となるべき者の欄にすでにフリードの名が流麗な文字で書かれている事だった。

「フリード、気でも違ったの? 貴方、すでに奥様がいらっしゃるでしょう」

 美しく気高いナターシャ。直接対面した事はないが、美形の一族として有名なファレス伯爵家の一人娘だ。ファレスの血筋特有の艶やかな銀髪と翡翠の瞳を持つ彼女がフリードと並び立つ姿は、まるで一対の人形のように完璧で美しく、眩しかった事だろう。二人の結婚は三年前の出来事で、その時すでに王都を去っていたクレアが式に参加する事はなかった。

「………そう言えば、ここに来るまでナターシャの姿がどこにも見当たらなかったけれど。彼女は今どこにいるの?」

 フリードは片眉をつり上げた後、呆れたような目でクレアを見た。

「お前は………本当に叔父上や叔母上から何も聞かされていないんだな。ナターシャとは去年、彼女の浮気が原因で離婚した」

「何ですって?」

 そんな話は初耳だった。貴族の醜聞は社交界において恰好の話題の種となる。王都にいれば暇を持て余した貴婦人達のお喋りによって瞬く間に噂は広がり、望まなくとも翌朝には耳に入っていた事だろう。

 けれど、国の中心部から遠く離れた田舎までは風の噂も届く事はない。その上、過保護なクレアの両親は王都で起きたかつての悪夢を娘に思い出させまいとして、社交界の話題を徹底的に避け、村へ頻繁に届けられる手紙には体調を気遣う言葉ばかりが連ねられている。

 クレアはその優しさをありがたく思っていたが、今回ばかりは何も知らされていなかった己の無神経な言葉に血の気が引いた。

「その、ごめんなさい。わたし、何も知らなくて………」

「俺が離婚した事などどうでもいいし、お前が謝る必要もない。問題は、俺がお前に求婚する事に何の支障もないという事だ」

「求婚ですって? 貴方が? このわたしに?」

「俺が相手では不服というのか?」

 長い手足を組み、真っ直ぐこちら見据える様は傲慢だが美しい。けれど、それが人に物を頼む態度だろうか。クレアはハッと渇いた笑いを漏らした。フリードに愛されているなどと考える程、おめでたい頭はしていない。何か理由があるはずだ。そして、思い当たる事は一つしかない。クレアは激しく痛み出したこめかみを押さえ、肺の底から深く長いため息を吐きだした。

「………お父様に何か言われたのね」

「違う」

 即座に返された否定。だが、フリードの伏せられた視線の先が、ほんの一瞬だけ己の足元に向けられたのを、クレアは決して見逃さなかった。

「いいえ、違わない。だって、そうでなければ、貴方がわたしに求婚なんてするはずがないもの。お父様に娘を傷物にした責任を取るように言われたんでしょう。そうに決まってるわ」

「――――」

 フリードは感情の読めない瞳でクレアを見つめたが、沈黙は肯定だった。クレアは天井を仰ぎ、フリードの視線から逃れるように目を閉じる。怒りが急速に冷めていくのを感じた。確かに、クレアの足が不自由になった原因はフリードにある。

 七年前、二人は些細な事で言い争い、フリードが怒りに任せてクレアの肩を押した。決して強い力ではなかったが、二人がいた場所は階段の踊り場で、クレアはバランスを崩して階段を転げ落ち、腰を強く打ったせいで左足に障害が残った。そのせいで当時決まりかけていた王族との婚約を解消する事になったクレアは、社交界で注目の的となり、心の平穏を守るために王都から離れざるを得なかった。

 けれど、あれは純粋な事故だったのだ。クレア自身も現場を目撃していた使用人達も証言しているし、親族の誰一人として彼を責める者はいなかった。フリードは冷淡で傲慢な男だが、誠実な人間だ。その良心と罪悪感を、クレアの父が今更になって利用する気になったのは、恐らく先日クレアが二十五歳の誕生日を迎えた事に大きく関係しているのだろう。

 貴族の女性として完全に結婚適齢期を過ぎてしまった上、体に障害を持ったクレアが、この先まともな結婚をする事は極めて困難である。娘の将来を案じる両親の気持ちはよく分かるが、あまりにも身勝手で卑怯な行為だった。

「信じられない………! 何てひどい事をするのかしら。貴方が断れないと知っていて………。フリード、今すぐここにお父様を呼んでちょうだい。わたしから説得して、この話はなかった事に―――」

「いいえ、それはもう手遅れよ」

 クレアの言葉を遮ったのは、フリードではなかった。直後、ノックもなくドアが開き、部屋に現れたのは、若草色のドレスを着た美しい女だった。

「お母様!」

 クレアは傍らに置いていた杖を取り、立ち上がった。母のテレサとは頻繁に手紙のやり取りをしていたが、こうして直接顔を合わせるのは半年ぶりだった。繊細に結い上げられた見事な金髪と、綺麗に化粧を施された美貌がクレアによく似ている。久しぶりに見るその姿は相変わらず若々しく、自信に満ちあふれていた。

 テレサはにこやかに微笑むと、クレアの側へ軽やかな足取りで歩み寄った。

「久しぶりね、クレア。元気だった?」

「ええ、フリードに無理やりここへ連れてこられるまでは。ねえ、お母様。一体どういう事なの? フリードにわたしを押しつけるなんて酷いわ!」

「押しつける? そんな言い方はよしてちょうだい。わたくしはね、貴女に幸せになってほしいだけなの。お父様と相談して、すでにあなた達の婚約を公式に発表したわ。後はしかるべき場所に書類を提出するだけよ。もう後戻りは出来ないの」

 テレサから告げられた信じがたい言葉に、クレアはくらりと目眩がした。テレサはふらついた娘の肩を宥めるように抱き、二人でソファに並んで腰を下ろした。

「何て事を! わたしの意見も聞かないで………」

「聞けば絶対に反対するでしょう? だからわたくしが説得に来たの。お父様は貴女に甘いから強く言えないもの。ねえ、クレア。わたくしもお父様も、貴女がとても心配なの。貴女はオーベール伯爵家の大切な一人娘なのよ。このまま貴族の女としての人生を捨てて、あんな何にもない田舎の村で修道女みたいに一生を過ごすつもり?」

 自分とよく似た青色の優しい瞳で顔を覗き込まれ、クレアは泣きそうになった。テレサが母親として娘の事を心から心配してくれている事はよく分かる。けれど、テレサは自分と同じように華やかな社交界で貴族の女性として生きていく事がクレアの幸福だと信じて疑わない。それが彼女の世界の全てだからだ。だが、クレアはもう穏やかで心安らぐ別世界がある事を知ってしまった。

「お母様………お願いだから、勝手に決めつけないで。わたしは今もちゃんと幸せよ。これ以上、わたしの事でフリードを巻き込まないでちょうだい」

「まあ、何も無理やり頼んだわけじゃないのよ。ねえ、フリード。そうでしょう?」

 そこで初めて母はとびきりの笑顔でフリードを見た。それまで母子のやり取りを無言で眺めていたフリードは、冷ややかな瞳で「ええ」と頷いただけだった。

「そんなの、断れるわけがないじゃない! 脅迫と変わらないわ。ねえ、フリード。貴方も黙ってないで、何とか言いなさいよ」

 どうか加勢して欲しいと、藁にも縋る思いでフリードを見つめたが、彼は至極冷静な声でクレアの最後の期待を裏切った。

「………俺は、別に構わないと言っている」

「ほら、フリードもそう言っているでしょう? お父様と相談して、貴女の持参金として、オーベール家の広大な土地をいくつか譲る事になっているのよ。何も彼にとって損ばかりの結婚じゃないわ」

 ―――損。

 おそらく他意はなかったのだろう。だが、テレサが無意識に口にした言葉がクレアの胸にぐさりと突き刺さる。誰かの手を借りなければ一人で生きていく事ができない自分は、両親やフリードにとって役立たずの御荷物なのだと、改めて思い知らされる。

 項垂れたクレアを宥めようと、テレサが耳元で何事かを囁くものの、全く頭に入ってこない。クレアが暗い眼差しでフリードを見やると、間違っても自分に愛情を感じているとは欠片も思えない、硝子のような冷たい瞳と目が合い、絶望を噛みしめたのだった。

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