涼ノ怪
「あっつ~い」
いつもは肌寒いくらいなのに、今日は何故か暑い。
うちわで扇いでもまったく涼しくならないから、お行儀悪いのを承知の上で、胸や裾をパタパタとさせて肌着の中に風を送り込む。
「もうどうなっているんだろう! なんでこんなに暑いのよぉ~」
汗をぬぐいながら格子の向こうにある、常闇の空を見る。
エアコンも扇風機もないんじゃ、ひたすら自分で涼むしかない。
水でもかぶりたいけど、生憎お風呂に行けるほど自由じゃない身だ。プールもないし、水浴びしたくても水着もないから出来ないし。
「着物なんて着てられないよぉ。誰でも良いから、この暑さをどうにかして欲しい……」
暑さとだるさもあって、気の抜けた発言しか出てこない。
裾をギリギリまでたくし上げても全然効果は無く、ひたすらうちわで扇いた。
あ、そうだ。
思い立って、わたしは箱の隅に置いておいた桶と竹の筒を取り出し、筒の中の水を桶へと垂らす。
みるみる桶に水が満ちると、手に持っていた手拭いを沈めて、水が飛び散らないように気を付けながら絞る。
「……うっ、冷たいけど、気持ち良い」
濡れた手拭いは予想した通り冷たくて、首筋や手足に走らせると爽快だった。
一時的とは言え涼しさを堪能できて、気分も良くなってくる。気持良いなぁ。
「ナニしてる?」
「きゃっ!?」
突然聞こえた声にいつものように飛び上がった。
同時に脇に置いてあった桶に手を着いてしまい、見事にひっくり返して膝と畳の上に水をぶちまけてしまった。
「お、鬼さん! いきなり話しかけないで下さい! 水零しちゃったじゃないですか!」
「鈴音は相変わらずオッチョコチョイだな」
わっ、大変! 畳だから早く拭かないと染みになる!
鬼さんの発言を無視して、わたしは手に持っていた手拭いで畳に広がった水を拭き取った。
けれど元から濡れていた手拭いは、水をなかなか吸い取ってくれない。別の手拭いで拭かないと!
「タオルタオル!」
そんな物はもちろん無い。でもこういう時って、いつもの口癖で出てしまうのよね。
呆れた顔をしている鬼さんの横を通り抜けて、箪笥から手拭いを数枚取り出し、また畳に染み始めた水に被せてゴシゴシ擦った。
「あぁ~っ! 染みになる!」
「チョイと退いてろ」
慌てるわたしの腰を背後から強引に掴んで引いてくる。
そして抗議しようとしたわたしを尻目に、鬼さんはふぅーっと畳に向かって息を吹きかけた。
鬼さんの口から出たのはなんと熱風で、ふわりと動いた空気は熱かった。
畳に広がった水はみるみる乾き、やがて見えなくなってしまった。
そっとその場所を触ってみると、カサカサに乾いていて、まったく濡れていない。すぐに拭いたのも幸いしたのか、そんなに傷んでいないようだ。
「はぁ~……良かった」
畳はフローリングと違って傷みやすいものね。
多少カサカサになったけど許容範囲かな。
「鈴音は何をしていたんダ?」
「暑いから手拭いを濡らして体を拭いていたんです。少しでもいいから涼もうと思って」
「ナルホド。だからそんな格好しているのカ?」
にぃっと口端を吊り上げてこちらに顎を向けてくる。
鬼さんの態度に眉を寄せつつ、わたしは自分の格好を見下ろした。
白い肌着に手製のショーツ。しかも膝上はさっき水を被ったせいで濡れていて、雫が垂れていた。
「あ、ちょ、ちょっと! あっち見てて下さい! 着替えますから!」
「暑いンだろう? 別にそのままで構わないカナ」
「わたしが構うんです! 一度出て行ってください!」
急いでしゃがんで自分の姿をできる限り隠す。
すっかり自分が裸同然の格好をしていたのを忘れていた! あぁもう最悪だ!
しかも水で濡れているところは透けてるし!
「今屋敷付近にヒザマと輪入道の馬鹿が騒いでいてな、あちこち火を上げるもンだから、締めてきたンダガ、まだ火は収まっていないようダナ」
「そ、それって大丈夫なんですか?」
「子鬼どもが火消しに走っているカナ」
「そうなんですか。あ、じゃあ分かりました。どうぞご退室して下さい」
鬼さんがいたんじゃ着替えも出来ない。
どうぞと丁寧に手のひらを上にして、鬼さんに心の中で「早く出て行って」と訴えた。
「ダガ暑いんだろう?」
「そうです。なので着替えるから部屋から一旦出て――」
言いかけて、ガシリと首根っこを掴まれたかと思ったら、ぐるりと視界が回って鬼さんの肩に担がれた。
「あ、あの何して」
「涼みたいナラ良い所に連れて行ってヤル」
嬉々とした声にこっちは心の中で絶叫した。
これは絶対に良くない事が起きる! 断言する! 絶対に悪いことが起きる!
「部屋で涼むから良いです! 嫌ぁ~! 死にたくない!」
わたしを担いで鬼さんが進む廊下に、自分の悲鳴がこだました。
廊下を進み、何度か角を曲がったところで、どこかに付いたようだった。
石で出来た壁が現れ、水の滴る音が耳に聞こえてくる。床もよく磨かれた石で覆われて、鏡のように光を反射していた。
「ソラ着いたぞ。存分に涼め」
連れてこられた場所に気を取られているうちに、言われて間も無く、いきなり肩から引き剥がされると、宙に放り出された。
訳も分からず目を白黒させている中、わたしの体は水の中へ盛大に水しぶきを上げながら落下したのだ。
「ひゃっ! つ、冷たぁい! なんなのこれ!?」
引きつった声を上げながら、縁に寄ってしがみつく。たった今落ちたばかりだというのに、体の芯まで冷えた。
し、心臓が止まるかと思った。いきなりこんな冷たい水に入れられるなんて、わたしに死ねというの?
「どうダ? 涼めただろう」
「死ぬかと思いましたよ! 何考えているんですか!」
普段の怖さなんて忘れて鬼さんに怒鳴った。こんな時にまで鬼さんに丁寧に接するなんて事出来ないわ!
ガタガタ震えながら石床に這い出る。
寒い! 物凄く寒い! ポタポタ髪から水が滴り、それだけで寒さが襲ってくる。
「ほら見てくださいよ! 指先も真っ青になったじゃないですか! 鬼さんと違ってわたしは普通の人間なんですから、加減して下さい!」
暑さが吹っ飛ぶどころか、北極に広がる天国のお花畑が見えたわ!
怒り心頭でカッカしても全身温まるなんてことはなく、体を震わせてその場に蹲った。これ絶対風邪引く。
「分かっタ分かっタ。鈴音があんまり暑そうなもンだったから、俺なりに気を効かせたつもりナンだがナ」
「水風呂に入れてくれるなら最初から言って下さい! いきなり放り込まれたら心臓発作起こしますよ!」
呑気な様子に苛立たしさが倍増する。人がこんなに怒っているのに全く気にしないなんて! 何考えてるのよ!
「ハ……ックシュン」
くしゃみが出て鼻をすする。とにかく早く着替えないと。
本格的に風邪引きそうだわ。
「もう部屋に戻ります。着替えてきますから」
イライラしたまま鬼さんの横を通り過ぎようとした。
そしたら鬼さんがわたしの腕を掴んで、引き寄せてきた。
「濡れたまま歩くナ。廊下も籠も水で濡れるだろう」
「えぇ? でもこんな格好でいたら風邪ひきます……て、ちょっと待」
言い終わらないうちに、鬼さんが自分が羽織っていた薄手の着物で、わたしの体をガシガシ拭き始めた。
「ちょっと、ちょ、ちょっと待って……うぐ」
腕を掴まれたまま、強い力で頭から体まで強引に拭かれていく。
頭を拭かれる時は抗議する声も阻まれて、逃げたくても腕を掴まれたままで抜け出せない。
「鬼さ……痛っ、ちょっといい加減に……うぶっ」
「拭くモン忘れちまったからナ、これで我慢シナ」
「だからってこんな……っ、わっ、ですからっ」
体を捻っても何しても、鬼さんの拘束から抜け出せず、結局籠に戻った時には、怒る気力も体力も奪い尽くされた後だった。
つ、疲れた……。本当に酷い目に遭った。
グッタリとして籠の真ん中で大の字になる。
比較的薄手の浴衣を着て横になると、暑さもあまり気にならず、体を休めることだけに集中できた。
まさかこんな事になるなんて。
あのまま油断しないで行儀よくしていれば良かった。
「オイ鈴音」
目の端に鬼さんが覗き込んでいるのが見えて、勢いよく体を起こす。
「な、なんですか!?」
急いで浴衣の裾を直して、正座する。
また何かされたら堪らないもの。
「髪が乾いてイナイだろ? 俺が乾かしてやるから、コッチ来な」
…………正直、もう勘弁して欲しいんですけれど。
もう愛想笑いする気力も無く、げんなりした顔を露骨にしてしまう。肩も思いっきり下がり、背中も丸くなる。
「マァ来い。今度は丁寧に扱ってやるカラ」
鬼さんに手を引かれ、されるがまま傍に寄った。だって抵抗する元気もないんだもの。
わたしの背中に回った鬼さんは、わたしの髪を手に取り、ふぅーっと息を吹きかけてきた。
その息は暖かく、さながらドライヤーのようだった。
「鈴音の髪はやはり見事ダナ。濡れるとよりツヤが出て、手触りも滑るようだナ」
「はぁ……そうですか……」
返す言葉も思いつかず、適当に口にした。もうどうにでもなれだわ。
髪が手櫛で何度も梳かれ、冷えた体が鬼さんの吹く息で次第に温まる。
疲れていたせいもあり、次第に眠気も押し寄せてきて、すぐ真後ろに鬼がいるのにうつらうつらと頭が揺れ始める。眠い。
「ナァ鈴音」
「……なんですか?」
半分寝ぼけつつある意識で、鬼さんの声に返事を返す。
マズイ。寝ちゃいそう……
「今度一緒に風呂に入るカ?」
時間が止まった。
息も止まって、わたしの動きも止まった。
一秒が何百年にも感じられた一瞬の後、わたしはバネじかけの人形のように勢いよく立ち上がった。
「で、で、で」
「ン? で?」
「出て行って下さぁーーーーーーーい!」
全力で叫んで、あぐらを掻いている鬼さんを押すなり引っ張るなりして、というか何としてでも無理やり立たせ、強引に籠の外へ押し出そうと背中を押した。
「もう今日は来ないで下さい! ていうか、二度と変なこと言わないで下さい! 変態なんだから!」
「ナニその程度で顔赤くするンだ。ナンダ? 男と風呂入ったことナイのカ? 胸がまな板だから入れ」
「ああぁぁもう! うるさいです! 早く行って下さーーーい!」
顔どころかオデコまで熱くなったのを感じながら、鬼さんへ叫び倒した。
なんで今日はこう散々露骨なセクハラに遭わなきゃいけないの!? わたし何かしましたか神様! 仏様!
キーキー叫ぶわたしを尻目に、鬼さんはやれやれと角の付け根を掻きながら部屋から出ていった。
鬼さんが完全に見えなくなった後、わたしはその場にヘタり込んで顔から熱さが抜けるのを待った。
あんな気の抜けた状態で言われたせいで、完全に動揺してしまった。いくら疲れていたからって、気を抜かなきゃ良かった。
はぁと深く息を吐いて、ちょっとした沈黙が訪れたあと、わたしはふと気づいた。
あの時、水の冷たさに思わず水から這い出てしまったけれど、あの時のわたしの格好って……
その後また顔が真っ赤になって叫んだのは言うまでもなかった。